チョン・キョンファ ヴァイオリン・リサイタル

- チョン・キョンファ (Vn) ケヴィン・ケナー (Pf)
- モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第35番 G-dur KV379
- プロコーフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 f-moll Op.80
- バッハ:無伴奏パルティータ第2番 d-moll BWV1004 より「シャコンヌ」
- フランク:ヴァイオリン・ソナタ A-dur
- シューベルト:ソナチネ第1番 D-dur Op.137-1 (D.384) より第2楽章【アンコール】
- シューベルト:ソナチネ第1番 D-dur Op.137-1 (D.384) より第3楽章【アンコール】
- 2013年6月5日(水) 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール
僕がヴァイオリンのレッスンに通っていた1970~80年代、新進気鋭の若手ヴァイオリニストと言えばパールマン、ズッカーマン、クレーメルといった辺りで、アジア人であることや女性であることなどもあってか、チョン・キョンファは同世代の中でもひときわ異彩を放っていたように記憶している。好き嫌いは別にして、全ての音が正確かつ明瞭に響き渡る彼らの技術的な水準は、明らかに上の世代を凌駕しており、20世紀末のヴァイオリン演奏の標準であったことに疑う余地はないだろう。
今回のリサイタルで彼女は、まさにその“標準”を、しかも上質の形で聴かせてくれた。それは僕にとって一種の懐かしさを感じさせるものであり、僕と時代を共有する多くの聴衆にとっても同様だったに違いないと推察する。
チョン・キョンファの実演を聴くのは初めてなので、彼女の全盛期と比較することはできないが、音程などの単純な技術的側面について言えば、確かに精度に甘さを感じる瞬間が皆無だったとまでは言えないものの(プロコーフィエフなど)、ブランクを感じさせるような類の瑕はなく、十分以上に高水準であった。
名曲かつ大曲ばかり4つも並べた重量級のプログラムは、いずれも彼女の得意とするレパートリーなのだろう。息をするのも憚られるような弱音と憑りつかれたようにかき鳴らす強奏とのコントラストが織り成す緊張感は、彼女の幾多の録音でも馴染み深い彼女のスタイルであり、確かに他の追随を許さぬ至芸だと感服。慎みの欠片もない客席の咳払いには僕も辟易したとはいえ、その度に客席を睨みつける彼女のステージマナーは正直なところ気分の良いものではなかったが、しかしそうまですることではじめて生み出される、あのホール全体を支配する鬼神のようなオーラは、実演でなければ味わうことのできないもの。
卓越した技術で全ての音符を軽々と弾きこなし、デュナーミクを大げさに弾き分けることで緊張と緩和の対比をつけつつ、柄の大きな音楽を仕立てあげるやり方は、近年のアーティキュレイションや和声に対する繊細で周到な取扱いを重視するやり方に比べるといかにも一世代前の流儀ではあるが、僕は流儀の新しさ/古さよりは完成度の高さを重視する立場をとる。モーツァルトでは、さりげなく現代的な処理を聴かせるピアノのケナーに対して、チョン・キョンファは古楽の洗礼を受ける以前のモーツァルト像を依然として、ただし確信をもって提示する。バッハのシャコンヌに至っては、フィンガリングもボウイングもアルペッジョの処理も、ガラミアン校訂の楽譜(IMC)とほぼ同じだったように思う。こうした姿勢は、現役の職業演奏家にとって容認し難いものかもしれない。手垢のついた解釈を、いくら深みが増しているとはいえ、飽きもせずに繰り返しているのだから。
しかしながらフランクでは、そうした批判を超越するに足るだけの完成度が獲得されていたと言ってよいだろう。他の3曲では、全ての表現が同じパターンであることに物足りなさを感じることも少なくなかったが、緊張と緩和の構造が微視的にも巨視的にも隙無く構成され、即興的な感情の発露も随所に聴かれた演奏は、彼女の偉大さを真に伝えるものであった。さらに、アンコールのシューベルト(特に第2楽章)は、作品との相性もあってか、フランクをさらに上回る素晴らしい名演だった。
語弊を恐れずに言えば、今日の聴衆にとって彼女の演奏スタイルは“平凡”なものだったかもしれないが、平凡な(しかし完成された)スタイルで表現された音楽は紛れもなく非凡なもの。ここをどう評価するかは、人それぞれだろう。僕は、十分に愉しんだ側だ。
ケナーのピアノは、アンサンブルに対する気遣い、音色の多彩さ、アーティキュレイションへの繊細な配慮など、あらゆる面で傑出していた。特にプロコーフィエフの第3楽章の妖気漂う美しさが印象に残った。
スポンサーサイト
tag : 演奏家_Chung,K.