秋の夜長に憂う

秋だから……という訳でもないのだが、何かまとまった量の本を読みたくなった。いつかは読みたいと常々考えていた物の中から、今回は「三国志」に挑むことにした。三国志にも「正史」と「演義」があるとか、どんな訳書(版?)があるとかといった事柄は、今回初めて知った次第。この歳になるまでこの程度の教養もなかったのかと、正直言って恥ずかしい思いがする。実際、娘の小学校の友達には三国志に詳しい男子もいるようだし。

さて、手始めに選択したのは吉川英治の「三国志」(全8巻)。挫折しても惜しくないように最初の巻はBOOKOFFで購入したくらいだが、文字通り最初のページからすっかり惹き込まれてしまい、約1ヶ月の間、夢中で一気に読み通してしまった。格調高くも流れるように読み下すことのできる文体、生き生きとした見事な描写といった、作家の力量に依る部分が大きいのだろうが、何よりも話の骨格そのものが無類に魅力的であるということなのだろう。とにかく面白かった。


それにしても、三国志の舞台が3世紀であることを考えると、それから2000年近くの時が流れても、政治の本質というのは結局のところ何も変わっていないのだなぁと、改めて気付かされる。虚実とりまぜた駆け引きこそが外交であり、そのための知恵と力が国力なのだろう。

省みるに、我が国の体たらくときたら、目を覆わんばかりのお粗末さ。知恵どころか知識すら持たない烏合の衆に、国を委ねた結果である。

折しも事業仕分けの真っ最中。高規格堤防、いわゆるスーパー堤防を巡る議論の稚拙さなどは、その最たるものだろう。「200年に一度」「完成までに400年」といった“分かりやすい”言葉に踊らされ、この種の社会資本整備が持つ意味は誰も理解していない。そもそもインフラというのは、何らかの不便を解消し、生活を豊かにするための公共サービスの一環として整備されるものだ。それゆえに、解消されてしまった不便がその後も意識されるはずもなく、インフラは人知れずに社会を支え続けていくものである。何がどう“無駄”かということは、近視眼的な視点からだけで論じるべきではない。

さらに、「200年に一度」という言葉に対する誤解も甚だしい。それは、“確率”というものがどういう概念であるかに対する無理解に起因している。「200年に一度の大洪水を想定するのは百歩譲ってわかるが」と言った大臣は、せめて高等学校の数学からやり直すべきだ。

つまり、(金貨を投げたとき)表が出る確率が1/2ということは、仮定であって、これをさも宇宙の真理であるかのように思うのは迷妄なのである。

もう一度言うと‘表が出る確率がいくらですか’という問いに‘1/2です’と答えてはいけないのであって、‘そんなことは、わからないので1/2としましょう。そう仮定すると実験とよく合うようです’と言うべきなのである。つまり、仮定=出発点 を 答=終着駅 かのように思うのは、誤解なのだ。(中略)

≪真理≫などというものは、言語の上だけでしか存在しない。何を仮定すれば何が結論されるか、その論理の連鎖が数学なのであって、どの仮定が真理への道か、などというせんさくは不毛な論議しかもたらさないだろう。

(小針あき宏:確率・統計入門, 岩波書店, pp. 1~2, 1973.)




大体、兵庫県北部の円山川で堤防が決壊して甚大な被害が出たのは、つい最近の2004年10月のことだ。現在の河川整備のやり方の是非はともかく、何もせずに放置しておくことの危険性くらいは認識していて然るべきだろう。それとも、この種の災害は自民党政権下でしか起こらないとでも言うつもりか?

菅首相が本年6月の就任早々にぶち上げた「最小不幸社会」という考え方は、その出版のタイミングからみてもサンデル氏の「これからの『正義』の話をしよう」(早川書房)の第2章「最大幸福原理ー功利主義」というタイトルから思いついたのだろうと、僕は考えている。わざわざ“最大幸福”を“最小不幸”とひっくり返したのは、その後に付いている“功利主義”という言葉の語感を嫌ったという程度のことに違いない。要するに、目次だけ見て「読書をした」ことにし、聞きかじりというのも憚られるような薄い知識で語っても構わない程度の薄い思想しか持たない人物が、我が国のリーダーと呼ばれる立場にあるのだと、僕は確信している。そしてそのことは、心ある日本国民にとっての“最大不幸”である。



4月6日の記事で紹介した「スターリン・ジョーク」(河出文庫)に、ちょうど良い小咄がある:

ウクライナのコルホーズ集会で、党書記が、共産主義になれば農民がいかに幸福で豊かになれるか、絵のように説いた。

「みんな腹いっぱい食べられる。家族はみんな自分の家が、持てるし、ズボンや上衣の生地はいつだって手に入る。おまけに、年に一足ずつ新しい靴ももらえるんだ」

一人の老婆が嬉しげに嘆声をもらした。

「ああ、やっとツァーのころのようになるんだね!」

(平井吉夫(編):スターリン・ジョーク, 河出文庫, pp. 234~235, 1990.)

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theme : 読んだ本。
genre : 本・雑誌

【YouTube】カレートニコフ:交響曲第4番/ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ

YouTubeで、面白い映像を見つけた。カレートニコフが自作の交響曲第4番を録音した際のリハーサルならびに通し演奏の様子を収録したものである。指揮はマツォフ。投稿者の説明によると、彼らの映像はこれが唯一のもののようである。

カレートニコフといえば、自身の回想録である『モスクワの前衛音楽家』(新評論, 1996)がすこぶる面白く、今まで何度となく読み返してきたが、音楽作品は実のところほとんど聴いたことがない。この交響曲第4番は1963年に作曲されたカレートニコフの代表作の一つらしく、ショスタコーヴィチの交響曲第13番の作曲・初演がこの前年であることを考えると、当時のソ連においてはかなり前衛的な音楽である。暗く陰鬱な響きにはロシアの伝統的な色合いが投影しており、深く瞑想に耽っているかのような音の運びはいかにも“悲観的”と批判されそうなもので、ショスタコーヴィチの影響が少なくないことも聴き取ることができる。この作品がショスタコーヴィチに献呈されているのも、故なきことではないだろう。

全編ロシア語のみで字幕が皆無なため、せっかくカレートニコフ自身がインタビューのような形で少なからず語っているにも関わらず、その内容がよくわからないのは残念。ただ、作曲当時のような若手ではなく、それなりに貫禄のある有名作曲家が練習中ずっと前をウロウロして事細かに指揮者に指示を出している様子は、この映像のタイトルにある通り“プロフェッショナル”な仕事ぶりを示しているとともに、ただでさえ訳のわからない曲を弾かされている上に、微に入り細に入りチェックされる演奏者の嘆息が聞こえてくるようで、面白い。

Part 1Part 2
Part 3Part 4
Part 5
Profession Composer: Nikolai Karetnikov(1991)




ショスタコーヴィチのヴァイオリン・ソナタはカレートニコフの交響曲から5年後の作品であるが、ショスタコーヴィチ作品の方が明らかに前世代の音楽という感は否めない。ただ、「プラハの春」前夜の不穏で緊張感をはらんだ社会情勢を反映したような楽曲の雰囲気にはどこか共通するものが感じられる。もっとも、両曲共に具体的な事件等を念頭においている訳ではないのだろうが。

YouTubeで視聴することのできるヴァイマンとヨッフェという夫婦の二重奏には、どこか開放的な気安さがある。これは夫婦だから、というよりは純粋にヴァイマンの個性であるような気がする。楽器の鳴らし方といい、何ともアメリカンな香りのする音楽ではあるが、D. オーイストラフの還暦祝いという作曲動機に相応しい祝賀的な要素が滲み出ているという点で興味深い演奏である。

第1楽章第2楽章
第3楽章(1)第3楽章(2)
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ
ヴァイマン (Vn)、ヨッフェ (Pf)

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Karetnikov,N.N. 作曲家_Shostakovich,D.D.

【録画】芸術劇場 -ブラームス ピアノ四重奏演奏会-

  • ブラームス:ピアノ四重奏曲第2番 樫本大進 (Vn) 川本嘉子 (Va) 趙静 (Vc) 小菅優 (Pf) (2010.6.10 録画 [NHK ETV(2010.10.16)])
樫本大進をはじめとする若手(?)注目株の4人による、ブラームスのピアノ四重奏曲。一夜で全3曲を演奏するという意欲的なプログラムだったことを知り、ハイビジョンやBSで放映された時に視聴しようと思いつつもつい録画予約し損なっていたのだが、地上波で放映されたこの第2番は逃さず録画することができた。録画してから実際に視聴するまでに随分と時間が経ってしまったのは、いつものこと。

どちらかと言えば内向的な感じがするものの、燃えさかる熱情を秘めた抒情がとても魅力的な作品で、特に第1楽章と第2楽章が僕は大好きである。ゆったりと構えた演奏は、円熟したスケールの大きさというよりは、おっとりとしながらも瑞々しい輝きを放っていて、とても素敵な仕上がり。これは、樫本大進の個性が強く反映しているような気がする。4人とも卓越した技術を持っているだけに、つまらない弾き損じもなく、安定したアンサンブルが繰り広げられている。もっとも、趙静の音色には高音域にキツさが感じられ、一方で低音域の豊かな広がりには欠ける傾向があり、小菅優もそれほど低音が強くないのか、僕の好みからすると重心が少し浮ついていたようにも思えた。ただ、川本嘉子がそうした不満を相当軽減していたのには感心した。

いずれにしても、実力者による室内楽は、ずっしりとした手応えに加えて華やかさもあって愉しい。

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Brahms,J.

プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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