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DSCH社の新全集第32/33巻


  • ショスタコーヴィチ:タヒチ・トロット、D.スカルラッティの2つの小品、ジャズ・オーケストラのための第1&2組曲、荘厳な行進曲、ドイツ行進曲、ソヴィエト民警行進曲, 新全集第32巻, DSCH, 2006.
  • ショスタコーヴィチ:ステージ・オーケストラのための組曲(ジャズ・オーケストラのための第2組曲), 新全集第33巻, DSCH, 2006.
2010年12月2日の記事に引き続き、DSCH社の楽譜を2冊購入した。新全集は何といっても校訂報告が充実しているので、交響曲や協奏曲のような有名曲の楽譜も見逃せないが、楽曲の背景等に関する情報が絶対的に不足している隠れた(?)小品の楽譜も喉から手がでるほど欲しい。とりあえず今回は予算も考えて、ジャズ組曲の類が収録された2冊を選択した次第。

とりわけ、僕にとってはスコアを初めて見る作品がその大半を占める第32巻は、手元に届くのが待ち遠しかった。だが、実際に中身を見てみると、各曲の解説については、いずれも期待していたよりも簡単なものばかりだったのは少々残念。もっとも、こうした小品の全てにも交響曲同様の背景があるはずはないし、音だけで知っていた作品の譜面を見ることはそれだけで十分に刺激的だ。

「タヒチ・トロット」については、2007年6月21日の記事で有名なエピソードが“神話”であったことについて簡単にまとめたことがあるが、本書の解説では、当該エピソードの信憑性について簡単な指摘があるにとどまっている。G. マクバーニーがオーケストレイションを施した「ジャズ組曲第2番」は初出版ということもあり、解説も含めて資料的な価値が高い。また巻末には、2曲のジャズ組曲のスケッチのファクシミリが掲載されているのも、非常に興味深い。「荘厳な行進曲」に、調性も編成も異なる別稿が存在していたことも、本書で初めて知った(別稿の楽譜も収録)。

この巻で特に注目していたのは、「ドイツ行進曲」。これは、アルンシタームが監督した映画「戦争屋」(1951年に制作中止)という映画のために作られた音楽である。タイトルから何となく金管楽器中心の重厚な行進曲を想像していたのであるが、実際はピッコロ、フルート、クラリネット、打楽器という小編成による、何とも薄っぺらな音楽。よく考えてみると、当時のソ連で戦争→ドイツとくれば、揶揄するような表現になるのも当然で、交響曲第7番の第1楽章展開部の例のボレロ冒頭とよく似た編成および響きであるのも納得できる。

一方の第33巻は「ステージ・オーケストラのための組曲」一曲だけで、全音から出版されている国内版があれば特に必要はないのだが、全音版の解説は大輪公壱氏による独自のものだったので、校訂報告を一応確認しておきたいと考え、ついでに注文してみた。残念ながら、原曲の出典などに関する新たな情報は得られなかった。自筆譜の書架番号が示されていることから、この組曲がショスタコーヴィチ自身の手によるのは確かなようだが、作曲に至った背景は明らかでない。ほとんどの曲で原曲(?)の出典が示されているものの、この組曲を単なる“編曲集”とみなしてよいかどうかは、現時点で分かっている情報だけでは判断しかねる。また、出典が不明な第4曲はこの組曲のために書き下ろされたものなのか、第5、6曲のように作曲時期や編曲者などの情報が判然としない軽いピアノ曲集に収録された小品が本当にショスタコーヴィチ自身の作品であるのかなど、細かい疑問も解決されないままだ。もっとも、この平明で楽しい作品に対して、こんなうるさいことを言うのも無粋極まりないとは思うが。
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【YouTube】ショスタコーヴィチ:交響曲第7番/祝典序曲

今日もYouTubeで見つけた動画を。

僕の趣味で言えば、ショスタコーヴィチの作品は、基本的に思い入れたっぷりな、どこかおどろおどろしい鋭利さを持った演奏で聴きたいところだが、最近の潮流はそれとは異なり、いわば純音楽的なアプローチに傾いているように思う。スペインのオーケストラが合同で演奏した交響曲第7番も、まさにそうした演奏である。団体の国籍で全てを判断するつもりはないが、とはいえ全体に漂う開放的な明るさを否定することはできないだろう。好き嫌いは別にして、こういう演奏でこそショスタコーヴィチの音楽の美しさに気付かされる聴き手も少なくないに違いない。

第1~2楽章第3~4楽章
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番
P. ゴンザレス/バルセロナSO & カタルーニャSO(2010年9月)


ピアノにしろ指揮にしろ個性的な演奏に不足することのないプレトニョフだが、祝典序曲でもしっとりと滑らかでありながら独特な高揚感を秘めた音楽を聴かせている。快速テンポで鉄壁のアンサンブルを誇るわけでなく、暴力的な大音響でオーケストラの威力を見せつけるわけでもなく、それでいて巧さを感じさせる不思議な演奏である。ロシア的でもなければ西洋的でもない、かといってインターナショナルというのでもない、プレトニョフ的としか言いようがないのかもしれない。なお、コーダのバンダは省略されている。

ショスタコーヴィチ:祝典序曲
プレトニョフ/ロシア・ナショナルO

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【YouTube】ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番(P. ヤブロンスキ独奏)/ピアノ五重奏曲

久し振りに、YouTubeのショスタコーヴィチ関連動画を検索してみた。

P. ヤブロンスキは1971年生まれで僕と同じ年。ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲は1991年に第1番、2006年に第2番を録音している。特に第1番は、その端正な顔立ちもあってアイドルみたいな売り出し方をされていた時期の、いわば出世作的なアルバムであった。洗練された格好よさが印象に残っている。

今回見つけた動画は、そのさらに4年前のもの。日本でいえば高校に入り立ての頃の演奏になるのだろう。見た目にも、そして幾分肩に力の入った音楽にも、年相応の初々しさが感じられる。ただ、音楽の淀みない流れや透明感のある響きには非凡なものがあり、後の活躍を十分に予感させるような演奏である。

第1楽章第2楽章
第3~4楽章
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番
ヤブロンスキ (Pf)、ウォーレス (Tp)、ドゥチマル/ポーランド放送室内O(1987年)


オルークというピアニストも、ストラヴィーンスキイQという四重奏団も初耳だったが、彼らによるピアノ五重奏曲は、なかなかの好演だった。洗練されているとは言い難い弦楽器の土臭い響きと、硬質で重量感のあるピアノの響きとが、この作品の雰囲気に相応しい。

第1楽章第2楽章
第3楽章第4楽章
第5楽章
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲
オルーク (Pf)、ストラヴィーンスキイQ

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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(7)

歌劇「黒衣の僧」の第1場のスケッチは、物語中でコーヴリンとターニャが交わす最初の会話に付けた、歌詞付きの楽譜で構成されている。

K.
僕は子どものころから、ここでは煙でくしゃみをしたものですよ。でも、いまだにわからないなあ、この煙がどうして凍てから救ってくれるのか。

T.
雲のないときに、この煙が代わりをしてくれるのよ。

K.
じゃ、なんのために雲がいるんだろう

T.
どんよりと曇った日には、霜がおりないのよ

K.
なるほど!ほんとに、あなたももう大人になったんだ!僕が最後にここを立っていった時には、まだほんの子どもだった。つんつるてんの服を着て、僕は青鷺ってからかってた。

T.
そう、五年ですものね!ねえ、アンドリューシャ、ほんとのことを言ってちょうだい。あなたはわたしたちのことを忘れてたんでしょう。でも、わたしのたずねかたもおかしいわね……もう自分のおもしろい生活があるんですものね……



スケッチは、両面30段の37.5×24.8の総譜用五線紙の最初のページに青色のインクで書かれている。この五線紙には、特徴的な落丁がある(表紙から2枚目の下の2段が、マージンの前で切れている)。ショスタコーヴィチがこの五線紙を入手した時期、およびこれを使い切った時期については、はっきりとは分かっていない。しかしこれは、作曲家が「M.ツヴェターエヴァの詩による6つの歌曲」の管弦楽伴奏版(コントラルトと室内オーケストラのための)56と、そのピアノ伴奏版58の初版の校正57に使用した五線紙であった。また、「6つの歌曲」の管弦楽版について唯一現存する草稿である「ちがう、太鼓を打ったのだ…」59と、少し後に行われたベートーヴェンの「蚤の歌」のオーケストレイション60も、この五線紙に書かれている。

これらの事実は、「黒衣の僧」のスケッチが書かれた大体の日付を推定することを可能にする。「6つの歌曲」は、1974年1月9日に完成した。「6つの歌曲」のピアノ伴奏版の初版は、1974年6月3日に印刷されたと記されている。作曲家が書き込んだ日付によれば、「蚤の歌」のオーケストレイションは1975年2月9日に完成した。スケッチは、1973年後半から1975年前半にかけて書かれたと考えられる。 1975年の3月といえば、ショスタコーヴィチとアレクサーンドル・メドヴェージェフが歌劇の台本について打ち合わせと議論を開始した時であり、このことが作曲家に歌劇の仕事を始めさせる刺激を与えたと考えることは理にかなっている。

しかしながら、スケッチの文言は、1973年のものと考えられる歌劇の計画と同様にイリーナ・アントーノヴナ・ショスタコーヴィチによって書かれた台本の草稿の一つ61と、その大半が一致する。台本の文言には、削除や訂正、挿入がある。それらの一部は、スケッチの文言と似た箇所に該当する。つまり、スケッチの中に台本の文言を入れるために、作曲家の言葉でそれらの修正等がなされた可能性がある。

これらの検証によって、台本が書かれたと考えられる1973年にスケッチが書かれたものと推察できる。しかし残念ながら、より正確な作曲時期を明らかにするための証拠は、今のところない。

2つのショスタコーヴィチの自筆譜、すなわち、G. ブラガの「セレナータ」と歌劇「黒衣の僧」のスケッチは、初出版となる。

オーリガ・ディゴーンスカヤ





  1. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 1. sec. 1. rec. gr. 202.

  2. Shostakovich D. Vokalnye sochineniya dlya golosa s fortepiano [Vocal works for voice with piano]. M. 1974.

  3. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 1. sec. 1. rec. gr. 206, 207.

  4. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 4. r. 2. rec. gr. 12. sh. 1.

  5. 本報の著者によって、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスにある未整理の書類の中から2004年に発見・確認された。現在の書架番号は以下の通り:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 1. sec. 1. rec. gr. 68.

  6. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 4. sec. 2. rec. gr. 12. sh. 1

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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(6)

この反映が、6ヵ月後に作曲が始められたS.P.シリーンスキイに献呈された弦楽四重奏曲第14番にも微かに散見されるという推測をしてみたい。イサーク・グリークマンと4月11日にレーピノで交わした前述の会話において、ショスタコーヴィチは「セレナータ」の編曲だけではなく、次の事実についても語った。彼は「レーピノで、新しい四重奏曲の第1楽章と、第2楽章の半分を書き上げた。『それは悪くない、と思います』と、彼は言い、皮肉に付け加えた。『でも、それが人生に価値をもたらすような種類の音楽とは想像しないでください。ともあれ、四重奏曲は仕上げられるでしょうし、ベートーヴェン四重奏団のチェロ奏者に献呈することになるでしょう』53」。「セレナータ」と四重奏曲が、一つの会話の中でこのように近しく話題に上がったという事実は、何も意味しないかもしれないし、あるいは、考察を一休みさせてくれるかもしれない。実際、どういう理由で、四重奏曲の進捗状況を友人に知らせる際に、ショスタコーヴィチは6ヶ月も前に編曲を終わらせた美しいイタリアのロマンスのことなどを思い出したのだろうか?もしかしたら、説明するには難しいような何らかの関連があったのだろうか?決定的な結論だと主張しないまでも、ある程度の推測をすることは許されるだろう。

ロマンスのイントネーションに満ちた弦楽四重奏曲第14番の第2楽章では、ある旋律(練習番号52から)を聴くことができる。それは、「ナポリの歌『Non ti scordar di me』」によく似ている54。さらに、ヴァイオリンとチェロの二重奏で奏でられる目立って情熱的で開放的な抒情を湛えた旋律が現れる(練習番号53)。そして、平行6度で奏でられるこの主題が、最初は19世紀のセレナードの様式の一般的なロマンスを想起させるならば、“イタリア風の”トニックの三和音に沿った平行上昇(練習番号53、7~8小節)はガエターノ・ブラガの「セレナータ」の編曲(練習番号10、7~8小節)、すなわち「過去を見つめる別れの眼差しの暗喩」のもう一つの例を直接的にほのめかしていると考えられる55

今のところ、四重奏曲をS.P. シリーンスキイに献呈すると決めた際、「天使のセレナータ」の原曲がチェロのための作品であることにショスタコーヴィチが気付いていたという直接的な証拠はない。しかし、チェロ奏者D. フェルシトマンが「セレナータ」の編曲の初演に参加したことを思い出してほしい。このことは、作曲家にとって秘密ではなかった。ロマンスの中心エピソードの中に通奏低音としてチェロを“聴いた”作曲家自身の要望によって、チェロ奏者が招待されたということも十分あり得る。

これらの状況を踏まえると、あまり目立たないある事実が、特別な重要性を持つ。手稿譜では、ショスタコーヴィチは声楽パートを「ソプラノ」と「アルト」と指定している。通常は楽譜を書き上げた時に作曲家が作る表紙に、機械的に書き始めた「アルト」という語を自ら線で消し、「メゾソプラノ」に書き換えている。興味深いことを記しておこう。低音の女声独唱(メゾソプラノやコントラルト)について「アルト」という用語は、ショスタコーヴィチの他の声楽作品では使われていない。一般的な例によれば、彼はこの用語を合唱(Alti)、管弦楽(V-le)、そして室内楽(viola)作品におけるパート表記にだけ使っている。ブラガの「セレナータ」の編曲の自筆譜に、なぜそのような例外的な書き込みが見られるのだろうか?この点については、まだ答えがない。もしかしたらショスタコーヴィチは、ブラガの「セレナータ」をその副題である「天使の歌」(すなわち、ソプラノとアルトから成る「天使の合唱」)という観点で捉えていたのかもしれない。あるいは、コントラルトとの類推から「アルト」という表記をしたのかもしれない。それとも、無意識の内に室内アンサンブルの可能性と結び付けて「アルト」という語を選んだのかもしれない(たとえば、弦楽四重奏。ヴァイオリンとチェロは、ソプラノとピアノが担当すると考える)。もちろん、これら全てについては、ただ推量することしかできない。ありはしない理由を探し求めているということもまた、あり得るだろう。しかしながら、あらゆる情報の断片を検討し、詳細を考慮に入れることで、弦楽四重奏曲第14番第2楽章の(ヴァイオリンとチェロの二重奏による)幻妙な主題(それは、四重奏曲全体を締めくくる最後のmorendoの前でも聴かれる)が、ブラガの「セレナータ」、より精確に言えば、その編曲(morendoで終わる!)の香りを漂わせているという考えに、否応なしに到達するだろう。そしてこの考えは、それほどあり得ないことでもなさそうだ。



  1. Glikman I.D. Journal VIII (ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 4. sec. 2. rec. gr. 8. sh. 28).

  2. Akopyan L.O. Dmitry Shostakovich: Opyt fenomenologii tvorchestva [Dmitry Shostakovich: An Attempt at the Phenomenology of his Creative Genius]. SPB. 2004. p. 397.

  3. 同上. P. 375.

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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(5)

「セレナータ」の編曲の自筆譜は、12段の二つ折り五線紙4枚(1枚に残りの3枚が挟み込まれている)から成り、1~15のページ番号が振られている。五線紙には、次のような印刷業者の銘がある。「Article 056 Price 0-22k. Format 310 x 240. Dunayev Factory, Moscow. Order No. 651-D/6」。原稿は紫色のインクで書かれ、95小節(内3小節は、線を引いて消されている)から成る。小節線は、鉛筆で書き込まれている。ショスタコーヴィチ自身による表紙がある。「G. ブラガ/セレナータ/ソプラノ、メゾソプラノ、ヴァイオリン、ピアノのための」。1ページ目には、以下のメモ書きがある。ページの中央上部には「セレナータ/ワラキアの伝説」、左上隅には「歌詞:M.M. マルチェッロ/訳:A. ゴルチャコーヴァ」、右上隅には「作曲:G.ブラガ」。また、ショスタコーヴィチの筆跡で速度表記が記されている。「Andante con moto」。最後のページ(15ページ)にはサインがあり、作品が完成した日付が記されている。「DShostakovich/25 IX 1972」。作品は、ト長調で6/8拍子である。

チェーホフによって語られ、「黒衣の僧」の主人公アンドレーイ・コーヴリンが聴いたように、M. マルチェッロの詩(A. ゴルチャコーヴァ訳)によるG. ブラガの「セレナータ(ワラキアの伝説)」あるいは「天使の歌」46は、「病的な空想にとりつかれた娘が、夜ふけの庭に妙なる調べを聞く。あまりにもすばらしい、ふしぎな響きなので、きっと聖者の歌ごえだろう、われわれ死すべき人間には理解できず、だからまた天上へ飛び去る音楽だろうと思いこむ47」という内容である。残念ながら、ショスタコーヴィチが編曲の際に使用したブラガの「セレナータ」の楽譜は、見つかっていない。イリーナ・アントーノヴナ・ショスタコーヴィチが覚えている限りでは、その楽譜は知人から貸与された。その楽譜は、有名な編曲の一つである、A. グートハイルがピアノ伴奏の「愛のロマンス・セレクション」の中で出版したものであるという可能性が高い。A.ゴルチャコーヴァによるロシア語訳は、グートハイル版で示されているように「モスクワの出版社A. グートハイルが権利を保有」していた。そしてこれが、ショスタコーヴィチの手稿譜に用いられている訳である。しかし、この訳の文学的な質に不満を持った作曲家は、後に一部を変更している48




あの響きは何だろう

天上から降り注ぐように聴こえるあの響きは

その響きは私を魅惑し、ここから飛び去っていく

まるで鳩の翼があるかのように


ここに出てきておくれ、お願いだから!

その魅力的な響きはどこからやってくるのか、教えておくれ

眠れ、我が友よ

魂はこの辺りにはないのだから!


木の葉は互いに囁き合い

月に照らされて

あなたをうっとりさせるようなものを

あなたの想像力は探し求め、考え出すのでしょう


ちがう!ちがう!

ちがうのだ、あの調べはとても聖なるもので

死にゆく者が見果てぬもので

今や、祝福された天国へと

舞い戻って行ったのだ

私は、魂でそれを感じることができる!


おやすみ、ママ

その響きは、私を誘惑する


見果てぬあの調べは

今や、祝福された天国へと

舞い戻って行った

私は、魂でそれを感じることができる!


おやすみ、ママ

その響きは、私を誘惑する

その響きは、私を誘惑する

その響きは、私を誘惑しているに違いない!

[あの神々しい合唱が聴こえるか?]

[それは、とても魅力的で]

[その響きは、真夜中の空気を駆け抜け]

[その歌は、天国から降り注ぐ]


[すぐに、ここに来ておくれ!私の元へ、友よ!]

[あの甘い歌の響きは、私を誘惑する]

[あぁ!辺りは全てが静寂の中]

[風が、木の葉をそよがせている]


[ここには誰もいない、恐れる必要はない]

[庭は、月明かりの中に浸かっている]

[静寂の中で聞こえるのは、木の葉の囁き]

[気分がすぐれないんだね、愛しい人よ]















[私には、もはや心の平穏はない]













[私の心の平穏は、永遠に失われてしまった]








チェーホフの要約よりも、ほとんど決まり文句で綴られた、あまりこなれていない翻訳の方が、「セレナータ」の幻想的な内容を明確に示している49。高揚し、明らかに狂乱している病気の少女は、バルコニーに立ち、あの世からの呼びかけ、すなわち天使の歌の天国的な調べを聞く。木の葉のそよぐ音しか聞こえない、現実的な少女の母親は、病気の娘をなだめようとするが、それは無駄になってしまう。“聖なる”響きに誘われ、少女は天国へと旅立とうとする。

典型的にロマンチックな主題(孤独、不可解、天国と現世を離れることへの郷愁)で織りなされるこの物語において、他の作品、たとえばムーソルグスキイの「死の歌と踊り」の「セレナード」(病気の少女がうっとりするような死への召喚を聞き、それを受け入れる)や、ゲーテの詩によるシューベルトのバラード「魔王」(病気の子供が魔王の幻想の中に死の誘惑的な呼びかけを聞く。父親には、ただ風と木の枝の音しか聞こえない)などとの類似を把握することは容易である。ムーソルグスキイやブラガのセレナードとシューベルトのバラードは、同じような物語の要素を持っている。すなわち、病的な、狂乱状態の子供、あるいは、子供だけが聞く神秘的な死の召喚、あるいは召喚への服従(セレナードでは自主的に、バラードでは強制的に)である。精神的な敵の存在は、幻想世界の実際的で“現実的”な登場人物(母、父)には訳が分からない50。ショスタコーヴィチは明らかに、こうした対応関係に気付いた。アレクサーンドル・メドヴェージェフによると、作曲家自身が、前者との会話の中で、「セレナータ」と「魔王」の間にある類似関係を指摘した。ムーソルグスキイの「死の歌と踊り」は、かつて1962年にショスタコーヴィチがオーケストレイションを行っている。それゆえに、彼が関心を持つ領域からその曲がはずれることはなかった。

この悲劇的な文脈にブラガの「セレナータ」を位置づけることで、ショスタコーヴィチの編曲において原曲の最後の小節51が変更された理由が説明される。ppからfへの力強いクレッシェンド(pppで弱奏される全曲を通じて、唯一のfである)を伴う「セレナータ」の効果的な終止は、ショスタコーヴィチによって、溶けて空の彼方に舞い上がるような(原曲よりも1オクターヴ高い)morendoで奏でられるヴァイオリンのパッセージに置き換えられ(このことは、「その響きは私を誘惑する」という最後の歌詞と一致する)、pppで消え入るように変更された(全曲を通じて、唯一のpppである)。これは、粗野で直接的な“人生の肯定”(主音に“付けられた”特徴的な和音で表現される)と、(魂が?)“飛び去り”(生命が?)“消えゆく”イメージとを明らかに交換するものである。

一貫したパターンに固執するそのような音楽上の措置や解釈は、知られざる事実に秘められた深刻さに言及するならば、明白なものとなるだろう。1972年9月25日(彼の66回目の誕生日)、ショスタコーヴィチは1つではなく、2つの作品に最終的な仕上げを施し、日付を書き入れた。1つ目は、お分かりのように「セレナータ」の編曲である。2つ目は、ベンジャミン・ブリテンに献呈された交響曲第14番の第10楽章「詩人の死」(詩:ライナー・マリア・リルケ)の清書である52。1969年に完成した交響曲の“雛形”は、作曲家自身の言葉で知られているように、ムーソルグスキイの「死の歌と踊り」である。この作品とブラガの「セレナータ」との関連については先に議論した。交響曲第14番が持つ共通の概念的遺伝子の存在は、ブラガ=ショスタコーヴィチの「セレナータ」の非音楽的な内容にも十分に拡張できると考えられる。自分の誕生日(「セレナータ」を完成させた日)に死についての交響曲(「詩人の死」の楽章)に回帰したというまさにその事実は、象徴的な行為と受け取ることができるだろう。そしてそのことは、晩年のショスタコーヴィチと、大したことのない仕事のように思われる流行歌の編曲に“あの世”の反映を投影したことの意味を理解させてくれる。



  1. G.ブラガの「セレナータ(ワラキアの伝説)」または「天使の歌」のオリジナル版は、「天使のセレナータ」と呼ばれ、チェロのための小品として書かれた(以下を参照のこと:Muzykalnaya entsiklopediya [Encyclopedia of Music], v.1. M. 1973. p. 553;Muzykalny slovar Grouvs [Groves Dictionary of Music]. M. 2001. p. 133)。現在知られているA. グートハイル版では、女声(ソプラノまたはコントラルト)とピアノに、フルートかヴァイオリン、またはチェロ(「可能ならば、隣の部屋で演奏すること」と指示されている)を追加するようになっている。(たとえば、以下を参照のこと:GSCMMC. f. 347. rec. gr. 5602)

  2. Chekhov A.P. Sobr. Soch. [Collected Works] v. 7. p. 294.

  3. ショスタコーヴィチによる歌詞の変更は、ブラケット([])で示す。S.M. ヘーントヴァは、A. ゴルチャコーヴァが翻訳したM. マルチェッロの歌詞を変更することなく、“旋律に合わせた微細な修正だけを行った”と間違っている。(Khentova S.M. Shostakovich: Zhizn i tvorchestvo [Shostakovich: Life and Work]. p. 508)

  4. M.P. チェーホフの回想によると、「黒衣の僧」の著者は、「神秘的で、美しいロマンティシズムに満ちたロマンス」を見つけた。(Chekhov M.P. Around Chekhov. M. 1933. p. 226.(Chekhov A.P. Sobr. Soch. [Collected Works]. v. 7. p. 537. からの引用))

  5. 特定の主題の類似は、ブラガの「セレナータ」の筋書きと、レフ・トルストイの「戦争と平和」におけるオトラードノエの有名な場面との間に見出されることだろう。そこでは、2人の少女、詩的なナターシャと退屈なソーニャの対照的な態度が並置されている。片方は天国へと飛び去りたいと願い、もう一方は眠たげで、友人の突然の欲求に困惑する。偶然の一致で、夜、開け放たれた窓辺で2人の少女は歌を歌い、アンドレーイ皇太子に聞かれる。この場面は、チェーホフの長編小説における主題の詳細に影響したのではないだろうか(コーヴリンは「ふたりのやさしい女の声が歌いはじめた」のを聞く)?そして、トルストイ自身も、その引喩に気付いていたのではないだろうか(彼は、「黒衣の僧」のことを熱狂的に語っていた(「見事だ!あぁ、なんて見事なんだろう!」))?(G.A. Rusanov's letter to A.P. Chekhov, dated 14 February 1895(Chekhov A.P. Sobr. Soch. [Collected Works]. v. 7. p. 536 からの引用)を参照のこと)

  6. 編曲が原曲とは異なる他の点については、それ自体は興味深いものであるにせよ、「セレナータ」の全体的な雰囲気を本質的に変えるようなものではない。たとえば、中間部 (練習番号4~5) においてピアノの右手の伴奏音形をヴァイオリンに移し(若干の変更がある)、スタッカートを加えて低音部の音域を高くしていることは、さざめき、すなわち歌詞にある「葉の囁き」の効果を創り出しているに過ぎない。

  7. 自筆譜は、ブリテン=ピアーズ図書館(Aldeburgh, Suffolk IP15 5PZ, England)に保管されている。本報の著者によって、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスでそのコピーが発見された。現在の書架番号は以下の通り:f. 2. p. 1. rec. gr. 2.

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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(4)

同じく1975年の春、彼の死の直前になってついに、ショスタコーヴィチは、彼にとって非常に多くの意味を持った歌劇の構想に長い時間をかけたことの理由を説明した。「私は、チェーホフの長編の“鍵”を見つけることができませんでした。そこには多くの台詞がある一方で、動きがほとんどありません。そして、そのことは歌劇に不向きです。しかし、主要な理由は、私が舞台上で幻覚、幽霊、蜃気楼を表現する方法を思いつかなかったことにあります。なんといっても、僧は歌うと同時に動かなければならず、舞台上のコーヴリンと、客席の観客に見えるものでなければならないのです。私は、解決策を見つけることができませんでした……私は、頭の中で音楽を、その初めから中間部、終わりに至るまでの全体を聴いて思い描いた時にのみ、作曲を始めます。今のところ、私にはそのような展望はないように思えます37」。

この説明は、詳細であるにもかかわらず、混乱している。なぜショスタコーヴィチは、舞台上の幽霊に劇的な体裁を与えることが非常に難しいと思い至ったのだろうか?このことは、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の作曲者には問題にならなかったと考えられるだろう。「マクベス夫人」では、セルゲーイには見えないボリース・ティモフェーヴィチの亡霊が、真夜中にカテリーナの前に現れる。さらに、ショスタコーヴィチもはっきりと分かっていたことだが38、舞台上で幽霊を表現する問題は、随分前にベンジャミン・ブリテンの歌劇で解決されていた。ショスタコーヴィチは後期の交響曲において、ブリテンの経験を生かして“幻想的な”音楽様式を採用しているという、広く知られた見解すらある。エリック・ローズベリーによれば、ショスタコーヴィチの後期の交響曲には、「驚くべき、新しい動機、すなわち、初期の交響曲では極端にリアリスティックだったショスタコーヴィチがブリテン(後者については、ヘンリー・ジェイムスの原作による2つの歌劇『ねじの回転』と『オウエン・ウィングレイヴ』においてその特徴が卓越している)から影響を受けた、幽霊に対する関心」が現れる。「超常現象に対するブリテン風の感覚は(中略)、(交響曲第14番の)『自殺』における悲痛な叫びや、楽章を通しての弦楽器の鋭く冷たい響き、あるいは『用心して!』での骸骨の踊りに、見事に投影されている。明らかにブリテンの世界へ踏み込んだ同様の例は、交響曲第15番にも見出すことができる。そこでは、緩徐楽章の12音音列、終楽章のチェレスタの幻想的な音楽や死の舞踏が、前作の声楽交響曲のイメージと繋がっている。そしてそのことは、ヴォルコフ=ショスタコーヴィチの回想録で、交響曲と黒衣の僧の亡霊についてのチェーホフの小説との関係に特別な重みを与えているように思われる39」。

しかし、アレクサーンドル・メドヴェージェフが作曲家との個人的な会話に基づく創作メモに記した、今まで知られることのなかった事実は、ローズベリーの論理を否定する。メドヴェージェフによると、ショスタコーヴィチはチェーホフの中に、永遠にさまよえる僧と不合理ではない行動の特徴に鏡のように反映された、真の人間性が集中していると考えていた。台本作家が黒衣の僧について最初に語った言葉(恐ろしくはないが、チェーホフが語っているように“慈悲深くも狡猾”である)は、ショスタコーヴィチから即座に反応を得た。「そうです、そうです!その通りです、その通り!」その反応は、長い間温めてきた自分の考えが他人の口から発せられたことに対する喜びだと、メドヴェージェフははっきりと理解した。メドヴェージェフの言葉から明らかなように、ショスタコーヴィチが黒衣の僧を死の前兆である不吉な幽霊として捉えていなかったという事実は、(ショスタコーヴィチの後期作品が持つ死の“鋭く、冷たい”幻想的な主要音調と、僧=幽霊のイメージとの関連に関する)ローズベリーの仮説には、十分な注意をしなければならないことを示す40。幽霊に劇中で姿を与えるために、ショスタコーヴィチはブリテンの経験と音楽様式に近づく必要はなかったと考えられる。それゆえに2人の作曲家の作品に共通する音調の類似性を具体的かつ直接的に検証することは、あまり生産的ではない41。この立場をとることで、作曲家の謎めいた言葉が説明され得る。「私は舞台上で幻覚、幽霊、蜃気楼を表現する方法を思いつかなかった」。これはすなわち、ブリテン風のあの世や幽霊・蜃気楼ではなく、彼自身の(そして、チェーホフの)完全にリアリスティックなイメージを表現する方法のことなのだ!42

歌劇「黒衣の僧」の台本は、ショスタコーヴィチの死の時点で未完成のままだった。仕上がっていたのは、「歌劇の構想、幕の構成についての全体的な合意、鍵を握るエピソードの概略、に限られていた。歌劇の最後の場面については作曲家と合意し、完全に書きあげられた43」。しかし、この歌劇の構想に確かに関係する音楽は、残された。それが、ガエターノ・ブラガの「セレナータ」の、ソプラノ、メゾソプラノ、ヴァイオリン、ピアノのための編曲44と、第1幕第1場のスケッチ45である。



  1. Medvedev A.V. Tezisy doklada [Summary of a Paper], p. 4.

  2. 1964~5年に、幽霊についての歌劇である「ねじの回転」を含むブリテンの歌劇を知った(以下を参照のこと:Roseberry E. ‘A Debt repaid? Tribute to Britten in the works of Shostakovich's late period (some observations)’. D.D. Shostakovich. Sbornik statey k 90-letiyu so dnya rozhdeniya [D.D. Shostakovich. Collection of Articles Marking the 90th Anniversary of his Birth]. L. Kovnatskaya(編). P. 326)。

  3. 同上. p. 328.

  4. E. ローズベリーによって引用された「証言」中の“ショスタコーヴィチ”の発言「第15交響曲はもちろん、完全に自立した作品であるとはいえ、そこには、『黒衣の僧』と多くのものが結びついている。(Bartlett R. Shostakovich and Chekhov. P. 349 からの引用)」は、交響曲が歌劇の作曲の実質的な始まり、すなわちブラガの「セレナータ」の編曲の1年以上前に完成したという事実を考えると、疑わしい。「黒衣の僧」についてのショスタコーヴィチの解釈(運命の死者というよりもむしろ人間と考える)を考えると、上述した「証言」からの引用はさらに支持できない。

  5. このことは、「黒衣の僧」の作曲時に、ブリテンが室内歌劇の分野で達成したことをショスタコーヴィチが全く無視するつもりだったという意味ではない。S.M. ヘーントヴァは、以下のように述べている。「彼(ショスタコーヴィチ)は、チェーホフの長編に基づく、豊かな器楽的展開をもった内省的な室内歌劇を思い描いた。彼は明らかに、ベンジャミン・ブリテンの例によって導かれた。彼は、ブリテンの室内歌劇を丁寧に勉強していた」。同時に彼女は、作曲家が「1972年7月に、ロンドンからブリテンがいるオールドバラまで出かけた(車で3時間の旅である)。そこで彼は、ホテルに2日間滞在した。ブリテンは、自分の歌劇『ヴェニスに死す』を見せた」と記している(Khentova S.M. Shostakovich. Zhizn i tvorchestvo [Life and Work], v. 2. p. 507)。しかし、「豊かな器楽的展開」を思い描いたという言葉の出典は示されておらず、それゆえにその真偽は今日まで証明されていないままである。

  6. 登場人物の劇的な取り扱いは、彼が終生考え続けた問題であった。1975年6月15日、彼は、マリイーンスキイ劇場で上演されたA.P. ペトローフの歌劇「ピョートル大帝」について手紙で教えてくれるよう、I.D. グリークマンに電話で頼んだ。「私は、現代歌劇でツァーリがどのように描かれているかについて興味があります」(Pisma k drugu: Dmitry Shostakovich - Isaak Glikman. [Story of a Friendship: The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman]. M. SPB. 1993. p. 310)。

  7. Medvedev A.V. Theses of a paper... . p. 4.

  8. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 1. sec. 1. rec. gr. 304.

  9. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 1. sec. 1. rec. gr. 21.ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスの未確認の草稿の中から、本報の著者とO.V. ドンブロフスカヤによって、2003年に発見された。

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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(3)

ともあれ、フォルトゥナートフとの往復書簡は、ショスタコーヴィチに長編「黒衣の僧」への新たな興味を喚起した。彼がこの小説について次に言及したのは、知り得る限りでは1972年9月のことである。明らかに、この直前、作曲家は小説を再読している。彼はコーヴリンに対して、以前よりも強く親近感を持った。そして、歌劇の構想はより具体的な形をとった。彼は、長い物語の鍵となるエピソード(黒衣の僧の最初と最後の登場の前)で言及されるG. ブラガの「セレナータ」の楽譜を捜し、それを編曲しようと心に決めた。

「……1年以上もの間、私はただ1つの音符も書いていません」と、彼は1972年9月22日にジューコフカからボリース・ティーシチェンコに宛てた手紙の中で述べた。「この説明をどうすれば良いのか、それはとても難しい問題です。自分の健康との戦いでの結果かもしれません。もう1年以上タバコも吸っていませんし、お酒も飲んでおりません。チェーホフの『黒衣の僧』でコーヴリンは、『自分の健康に気を使うことは創作の喜びを消してしまうことを意味する。もし、マホメットやシェイクスピアが、飲むのは牛乳だけ、食べるのはオートミールのみであったならば、そういった彼らからあのような業績なんてきっと残らなかっただろう」と言っていました。『黒衣の僧』は私に強い印象を与えてくれました。正確には、この作品を読み返すたびに、強烈な印象を湧き上がらせてくれるのです。(中略)この作品の中ではブラガのセレナータについての紹介があります。つい先日、実は私はこの素晴らしい作品と知り合うことができました25」。

「セレナータ」の楽譜を手に入れた後26、ショスタコーヴィチは誕生日である9月25日に編曲を終え、署名をして「25 IX 1972」という日付を書き加えた。6ヶ月後の1973年4月11日、イサーク・グリークマンとの会話の中で、ショスタコーヴィチは「セレナータ」について「将来の歌劇の核」として言及した。そして翌4月12日、イサーク・グリークマンは日記に以下の内容を書き記した。「昨晩、私はD.D.に会いにレーピノへ行った。(中略)私達はあれやこれや、そして音楽についても語り合った。D.D.は、自分でまとめた好奇心をそそるような考えを表明した。『しかるべき箇所で使われるなら、あらゆる音楽は良いものです。私は以前、モスクワで「三姉妹」を見に行きました。劇中で、チェーホフの時代の流行り歌が聞こえてきます。この何てことのない音楽は、非常に大きな印象を与えたのです。これは、その音楽がしかるべき箇所で使われたからなのです』。それからD.D.は、『黒衣の僧』で大変重要な役割を担うブラガの『セレナータ』に長らく興味を持ってきたと話してくれた。D.D.は、次のように言った。『最近、私は「黒衣の僧」に基づく歌劇を作曲しようと考えています。それで、「セレナータ」の楽譜を見つけてくれるように頼みました。チェーホフの示唆により、この「セレナータ」の音楽は感動的でさえあるように思われました。それもまた、しかるべき箇所で使われているからです。私は、将来の歌劇の核を見つけたとさえ思いました。しかし、「黒衣の僧」には動きがほとんどないので、歌劇にするにはとても難しい題材です』27」。

「セレナータ」の編曲(ソプラノ、メゾソプラノ、ヴァイオリン、ピアノのための)を完成させると28、ショスタコーヴィチは若い歌手と演奏家―G. ピサレンコ(ソプラノの)、K. モルグノヴァ(メゾソプラノ)、O. カガーン(バイオリン)、E. レオンスカヤ(ピアノ) ―に、それを練習して演奏し、録音してくれるように頼んだ。1972年末から1973年初めにかけて、ネジダーノヴァ通りのショスタコーヴィチのアパート(Flat 23, No. 8/10, block 2)で、チェロのD. フェルシトマンが参加してピアノの低音部を増強した形で、その編曲は演奏された。作曲家は立ち会うことができず、電話でその演奏を聴いた29。「証言」の中で、この出来事が以下に示すような特徴的な書き方で記述されていることに注目されたい。「わたしのところにはすでにその(「セレナータ」)録音もある。若い音楽家たちにそれを録音するように頼んだのである30」と、この本の文学的主人公である“ショスタコーヴィチ”は語っている。この主人公は、演奏されたのが「セレナータ」の原曲ではなく編曲であったことを、明らかに知らない。ちなみに、ショスタコーヴィチの編曲については、この本の中で全く触れられていない。そこで、次のような疑問が生じる。「将来の歌劇の核」である「セレナータ」の完成した編曲が存在するという重要な事実が、なぜ「黒衣の僧」についての議論から漏れているのだろうか?それを説明できるのは、ヴォルコフも、したがって、ヴォルコフの“ショスタコーヴィチ”も、そのことについて何も知らなかったとすることだろう31

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスには、歌劇「黒衣の僧」の計画32と台本の草稿33が保管されている。それらは、作曲家が口述したものをイリーナ・アントーノヴナ・ショスタコーヴィチが筆記したものである。1973年のものと考えられる34これらの草稿は、2幕か3幕の歌劇を作曲しようとする元々の計画を示している。計画の草案は、劇の処理を検討した過程が反映されており、初めて公開されるものである。

1)計画


第1場はなし

第2場


コーヴリンがバルコニーに腰をおろしている。本を読んでいる。

ブラガの「セレナータ」。

「黒衣の僧」の伝説と、彼との出会い。

喜びに満ちた夕暮れ。

コーヴリンの部屋。第1場のすべて。

ペソーツキイの論文。

休憩


第2幕

第1場


B. M.(黒衣の僧)と会う。会話。

コーヴリンとターニャ。求婚

ペソーツキイがコーヴリンについてターニャに話す。

夕食。B. M.との会話。(?)[“第1場のすべて”と書いた箇所に矢印]


第2場


ペテルブルグ

不眠。B. M.。

ターニャが、B. M.との会話を耳にする。

休憩


第3幕

第1場


田舎にて。

コーヴリンは健康を取り戻す。口論。


第2場


クリミア。


第3場


クリミア。セヴァストーポリ。

または


第1幕


I. 導入。

「セレナータ」

II. B. M.との出会い。

ターニャへの求婚


第2幕


I. ペテルブルグ。B. M.。

II. 田舎。T.(ターニャ)との破局。

III. クリミア。B. M.。死。


2) 歌劇「黒衣の僧」の計画


第1幕


導入(医師とコーヴリン)。

コーヴリンとターニャの会話。

ターニャは客人に合流するために退出する。コーヴリンはペソーツキイに引き止められる。

コーヴリンとペソーツキイの会話。両者共に家の中に入る。

バルコニーにいるコーヴリンは、客間から流れるブラガの「セレナータ」を聞く。

ターニャがバルコニーの上に出てくる。コーヴリンは、彼女に黒衣の僧の伝説について話す。ターニャは、その話を好まない。両者共に家の中に入る。コーヴリンは家を出て、川に向かう。
黒衣の僧が現れる。


第2幕

第1場


コーヴリンは、公園で黒衣の僧と話す。

ターニャが公園に現れる。コーヴリンは彼女に求婚する。ペソーツキイは、コーヴリンについてターニャに話す。


第2場


町にあるコーヴリンの自宅。
黒衣の僧との夜間の会話。ターニャが起きて、コーヴリンの妄言を聞く。


第3幕

第1場


田舎で。ターニャとの口論。破局。


第2場


クリミア。到着。ヴァルヴァーラ・ニコラーェヴナは、就寝する。ターニャの手紙。自分自身に対する腹立たしさ。バルコニーにいるコーヴリン。ブラガの「セレナータ」。黒衣の僧の登場。コーヴリンの死。


3) [計画]


第1幕・第1場


コーヴリンとターニャの会話。(ターニャは客人に合流するために退出する。コーヴリンはペソーツキイに引き止められる。)

コーヴリンとペソーツキイの会話。(両者共に家の中に入る。)

バルコニーにいるコーヴリン。ブラガの「セレナータ」。

ターニャがバルコニーの上に出てくる。伝説。ターニャは伝説を好まない。

彼女は家の中に入る。

コーヴリンは川に向かう。

B. M.の登場。


第2幕・第1場


公園にて。B. M.との会話。

ターニャとの会話。求婚。

ペソーツキイとターニャの場面。


第2場


ペテルブルグ。

B. M.との会話。ターニャが目覚める。


第3幕・第1場


田舎にて。口論。破局。


第2場・クリミア


到着。ヴァルヴァーラ・ニコラーェヴナ。

バルコニーにいるコーヴリン。ターニャの手紙。

自分自身に対する腹立たしさ。ブラガの「セレナータ」。B. M.の登場。

コーヴリンの死。



1975年の春までに、歌劇の計画にはさらなる変更が加えられた。ショスタコーヴィチは、自分自身で満足な台本を書くことができなかったので、音楽学者で脚本家のアレクサーンドル・メドヴェージェフに、1幕物の歌劇の台本を2つ書いてくれるように頼んだ。その内の一つが、「黒衣の僧」だった。メドヴェージェフによると、この問題について初めてショスタコーヴィチと対面して話をしたのは、3月18日のレニングラードだった。それは、Malegot劇場でモイセーイ・ヴァーインベルグの歌劇「マドンナと兵士35」の初演があった翌日のことだった。「私は、作曲家の早口で少し皮肉な口調を覚えている」と、A. メドヴェージェフは回想する。「『私は、あなたに2つの歌劇の台本を書いて頂くよう、お願いしたいのです……扱っている題材は陰鬱ですが、作家(ゴーゴリとチェーホフ)は悪くないです。2つの歌劇は、いわば、ひとつ屋根の下にあるようなものです(ショスタコーヴィチは、自分の手で斜めの屋根を作るような仕草をした)。一つ目は、「肖像画」。主役は、悲劇的な結末を迎えます。彼は精神を病み、死にます。幕。休憩。聴衆には、ロビーで休憩をとらせ、レモネードを飲ませてください。そして、「黒衣の僧」。もう一つの、かなり陰鬱な物語です。しかし、これらは古典なのです。古典!…そういうことなのです。私は、この作品について長らく考えてきました。今は、上演時間が問題です。(中略)私は、何よりもそれぞれ1時間と1時間5分の長さの2つの歌劇を仕上げたいのです 』。彼は、二部作を書きたかったのだ。しかし、歌劇全体でどれほどの長さになるのだろう?私はそれを、まさしく“象をマッチ箱にはめ込む”試みと呼んだ。そして、台本を書き始めて2回目の相談の際に、私は彼に言った。『ドミートリイ・ドミートリェヴィチ、これは実現不可能です』。『はい。それは、私も感じています。こういう場合、どうすればよいかご存知ですか?筆が進むままに書くのです!その結果、2曲が同じ屋根の下にはいられなくなるかもしれません。それでも構わず、書き続けるのです』36」。



  1. 以下の文献を参照のこと:Laurel E. Fay. Shostakovich: A Life. Oxford University Press. 2000. p. 274.

  2. Pisma Dmitriya Dmitriyevicha Shostakovicha Borisu Tishvhenko ( s kommentariyam i vospominaniyami adresata) [Letters of Dmitry Dmitriyevich Shostakovich to Boris Tishchenko] (with commentary and reminiscences of the addressee). SPB. 1997. p. 41. からの引用。

  3. ショスタコーヴィチの「日記」(ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4. sec.1, rec. gr. 6)には、9月21日と22日の書き込みがない。このことは、作曲家がモスクワの郊外のジューコフカにある別荘で、この2日間を過ごしたことを示している。通常、彼は日記を持ち歩くことはなく、それゆえに、日記を書かなかったのである。したがって、ショスタコーヴィチが「セレナータ」の楽譜を受け取ったのは、手紙から推測される9月21日ではなく、ジューコフカに出発する前の20日だったとも考えられる。そして、その楽譜を一緒に持っていったので、ショスタコーヴィチは翌9月21日に楽譜を見ることができたのである。

  4. Glikman I D. Journal VIII (ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4, sec. 2. rec. gr. 8. sh. 28). この会話についてよく知られた記述(Pisma k drugu: Dmitry Shostakovich - Isaaku Glikmanu [Story of a Friendship:The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman]. M. SPB. 1993. p. 293)は全く正確ではなく、ブラガの「セレナータ」と、「三人姉妹」の「チェーホフの時代の流行り歌」とを混同している(以下を参照のこと:Shostakovich v pismakh i dokumentakh [Shostakovich in Letters and Documents]. p. 52)。

  5. 「セレナータ」の編曲において、ショスタコーヴィチは「黒衣の僧」の文中で示されている楽器編成に従った、という意見がある。したがって、S. ヘーントヴァは、以下のように書いている。「直ちに、彼は『セレナータ』の編曲に取りかかった。楽器編成は、チェーホフが記したように、ソプラノ、コントラルト、ヴァイオリン、だった」(Khentova S.M. Shostakovich: Zhizn i tvorchestvo [Shostakovich: Life and Work]. v. 2. Len. 1986. p. 507)。ヘーントヴァは、事実上、M. ヤクーボフを引用している。「彼の編曲において、ショスタコーヴィチはチェーホフによって示された楽器編成に従っている。すなわち、ソプラノ、コントラルト、ヴァイオリンである」 (以下のレコードの解説を参照のこと:D. Shostakovich. Iz rukopisey raznykh let [D. Shostakovich. From Manuscripts of Different Years] series: Melodiya 1987. Stereo. S10 26 307 004. ただし、この解説では「Коврин」が「Ковригин」と間違って記載されている)。しかし、どちらの引用にも、ショスタコーヴィチの編曲にピアノが入っていることに言及していない。

    小説の中でブラガの「セレナータ」が描写される箇所(それは、二度聞こえてくる)でも、ピアノについては言及がない。以下の通りである。「客間ではそのとき、ターニャがソプラノを、令嬢たちのひとりがコントラルトを、例の青年がヴァイオリンを受けもって、ガエターノ・ブラーガの名高いセレナーデを練習していた」および「とつぜん、バルコニーの下の階で、ヴァイオリンが鳴りだして、ふたりのやさしい女の声が歌いはじめた」。しかし、チェーホフが家庭内で音楽を演奏する場合には当たり前のこととして、ピアノ伴奏を扱ったということも考えられる。「ペソーツキー家にはしばしば、ほとんど毎日のように近所の令嬢たちがたずねて来ては、ターニャとピアノをひいたり、歌をうたったりした」。

  6. 1972年12月3~31日および1973年1月4日~2月7日の間、ショスタコーヴィチは入院していた(以下を参照のこと:O. Dombrovskaya. ‘Geokhronograf D.D. Shostakovicha (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: issledovaniya i materialy [‘'D.D. Shostakovich's Geochronograph (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: Studies and Documents] L. Kovnatskaya, M. Yakubov(編). p. 207)。ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスには、この演奏の録音が保管されている。そこには、電話口で夫に語りかけるI.A. ショスタコーヴィチの声も録音されている。「ミーチャ、準備ができたわよ」。

    この編曲の公開初演は、1983年にキエフ・フィルハーモニーで行われた。演奏は、L.A. シェフチェーンコ(S)、L.P. フィラトヴァ(MS)、M.L. ベズヴェルフニイ(Vn)、S.M. ヘーントヴァ(Pf)であった。(以下を参照のこと:Khentova S.M. Shostakovich: Zhizn i tvorchestvo [Shostakovich: Life and Works]. v. 2. p. 508.)

  7. Bartlett R. Shostakovich and Chekhov. p. 350. からの引用。

  8. R. バートレットは、ブラガの「セレナータ」に関する「証言」のエピソードを考慮して「作曲家の言葉は……信頼できる」と述べている(Bartlett R. Shostakovich and Chekhov. p. 349)。しかし、上述したことに照らしてみれば、そのような記述には根拠がないように思われる。

  9. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4. sec. 2. rec. gr. 11. I.A. ショスタコーヴィチによって筆記された歌劇(2幕7場)の別の計画は、GSCMMCに保管されている(以下の文献に掲載されている:Dmitry Shostakovich v pismakh i dokumentakh [Dmitry Shostakovich in Letters and Documents]. M. 2000. p. 53)。

  10. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4. sec. 2. rec. gr. 12, 13.

  11. I.A. ショスタコーヴィチによると、メモ自体には日付が記されていない。S.M. ヘーントワも同様に、1973年ということを間接的に示している。「歌曲集(筆者註:『M.ツヴェターエヴァの詩による6つの歌曲』(8月7日完成)のこと。)を書き終えて、作曲家は1週間の休暇をとった。彼は、チェーホフの再読に没頭した(筆者註:おそらく、中断していた『黒衣の僧』の作曲を再開しようと考えたためか?)(Khentova S.M. Shostakovich: Zhizn i tvorchestvo [Shostakovich: Life and Work]. v. 2. p. 559.)。ヘーントヴァはショスタコーヴィチと個人的に会話した事柄に基づいているのだろうが、その根拠が示されていないので、この記述を全面的に信用する訳にはいかない。同時に、それを無視することもできない。

    1973年4月、先に述べたように、ショスタコーヴィチはグリークマンに語った。「『黒衣の僧』には動きがほとんどないので、歌劇にするにはとても難しい題材です」。これは、ブラガの「セレナータ」の編曲の後、実際に歌劇の準備、たとえば構想をまとめたり、台本の初稿を書いたりといったことが実行されたことを意味するとも考えられる。

  12. M. ヴァーインベルグの歌劇「マドンナと兵士(Зося)」は、A. メドヴェージェフの台本に作曲された。

  13. Budayeva T. “Genii... ne nuzhny”: nerealizovannye opernye zamysly D.D. Shostakovicha [“Geniuses are not wanted”: D.D.Shostakovich's unrealized opera projects] (manuscript, pp. 16-17) からの引用。Medvedev A.V. Tezisy doklada, prochitannovo 29 iyunya 2004 v Dome-muzee A.P. Chekhova v Melikhovo [Theses of a paper, read on 29 June 2004 at the A.P. Chekhov House-Museum, at Melikhovo]. p. 1.(著者からドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスに寄贈された)も参照のこと。現在、A.V. メドヴェージェフは彼のメモに基づいた記録の出版を準備している。そこでは、歌劇「肖像画」と「黒衣の僧」の台本について1975年3~6月にショスタコーヴィチと話した内容が含まれる。彼との個人的な会話において情報を提供して頂いたことを、深く感謝する。

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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(2)

これら2つの文言は、文学の専門家の間でも一字一句変更することなく、しばしば引用された。しかしながら、ショスタコーヴィチと文芸評論家のニコラーイ・フォルトゥナートフとの間で「黒衣の僧」に関して1971年末に交わされた往復書簡(議論は、フォルトゥナートフが主導した11)は、予想外の解釈を引き起こした。その解釈には、慎重な検討が必要であるように思われる。ここで、フォルトゥナートフによって示され、さらに今まで知られていなかった情報によって確定された、事実の正確な前後関係を示そう。

往復書簡のきっかけとなり、フォルトゥナートフの「チェーホフの散文の音楽性(形式分析の試み)12」の元になったのは、「黒衣の僧」の構造的特徴に関するショスタコーヴィチの評言(「まるでソナタとして書かれている」、「ソナタ形式で作られた」)であった。「著者フォルトゥナートフから、ドミートリイ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチへ。ゴーリキイ、1971年」という献辞が添えられた論文の抜き刷りが、その評言に対する返礼として、ショスタコーヴィチへと送り届けられた13。1971年12月3日にバルビーハで書かれた礼状の中で、作曲家は、自分にはどうしようもない状況のために返信が遅れたことを詫びた(「私は重い病に伏しています。2ヵ月の間、入院していました。今は、サナトリウムで回復しているところです14」)。その手紙ではフォルトゥナートフの論文を非常に賞賛している。「とても面白い論文をありがとうございました。そこには、チェーホフと音楽に関する極めて価値ある正確な考察が含まれています」。手紙や文章を書く時のショスタコーヴィチの姿勢を知っている者ならば、これらの言葉が誠実かつ善意から書かれていることに何の疑いも抱かないだろう。そこに用いられている最上級の表現(“とても”面白い、“極めて価値ある正確な”)は、その手紙が儀礼的で形式的な、何も意味を持たない返信と解釈する余地を除外する。特に、作曲家が礼儀正しさを遵守するために形式的にはぐらかすような感謝の表現をとる時の、よく知られたケースを考慮するならば、それはなおさらのことである15。すなわち、1971年1月の初めにショスタコーヴィチがイサーク・グリークマンに語った「受け取った手紙を読むことは不愉快で面倒であり、同時にまたそれに返信することは拷問でしかない16」という言葉を考えると、フォルトゥナートフの論文に対する彼のコメントは、丁重で特別な関心を示しているものと見なし得る。

この時までに彼の論文は発表されていたが、フォルトゥナートフはこの問題について往復書簡を続けた。それは、「黒衣の僧」の構造に関するショスタコーヴィチの定義の中に、彼が見出した矛盾点に固執したからであった。ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスで最近発見されて初出版された12月12日付けのフォルトゥナートフの手紙を、以下に全文掲載する。
親愛なるドミートリイ・ドミートリェヴィチ


ご丁寧なお手紙、どうもありがとうございました。そして、私の論文に対するあなたの評価は、チェーホフの短編小説の構造的特徴についてのあなたの考察と同様、私にとって極めて大切なものです。この非常に独創的で素晴らしい考察は、間違いなく、私達が必要としているチェーホフの批評研究の分野を確立することの一助となり、文献学的研究に積極的な刺激を与えるものです。そして、その観点を拡大することで、チェーホフの“音楽的”才能の理解に近付き得るのです。

私には、完全に解決していない一つの疑問があります。私は、是非ともあなたのご意見を伺いたいと思います。それは、この疑問を解消させてくれるのが、唯一あなただけだからです。


「黒衣の僧」の構造に関するあなたの解釈に、異なる見解が含まれることを、どのように説明すればよいのでしょうか?1943年のチャイコーフスキイに関する素晴らしい文章(読み返す度に、私に喜びを与えてくれます)の中で、「黒衣の僧」について、あなたは「まるでソナタとして」書かれてた作品だと述べられています(問題の記事は、「チャイコーフスキイに関する考察」, 文学と芸術, 1943年11月7日)。しかしながら、エイブラム・ダーマンの著書(Chekhov's Mastery, M. 1959)には、次のような記述があります。「D. D. ショスタコーヴィチは、その構成という点において『黒衣の僧』が交響曲のように作られていると考えている(p. 117)」。残念なことに、後者で触れられている発言の参照元は示されていません。それは個人的な会話の中でなされたのか、それとも大勢の人の前でおっしゃったことなのか、あるいは出版物からの抜粋なのか、よく分かりません。あるいは、一般の文学愛好家を対象とはしない特別な分析だったのでしょうか?しかも、ソナタあるいは交響曲というのは循環的な形式で、ソナタ形式そのものの構造とは本質的に異なります。作品について考察を深める過程の異なる段階でなされた「黒衣の僧」に関するこれらの定義には、あなたにとって重要な、特定の結論や手法に由来する隠された意味があるようにも思えます。ここで何らかの推測をすることはできますが、それは仮説以上のものではありません。この“進化”すなわち、「黒衣の僧」の構造とソナタ形式との間の類似性を指摘した定義の変化を説明することができるのは、あなただけなのです。以上が、私にとって疑問の残る点です。


私の深い敬意と、あなたの健康と速やかな快癒を何よりも願いつつ

フォルトゥナートフ

12. XII. 197117


この論証的な手紙に対するショスタコーヴィチの返信は、モスクワから1971年12月23日に投函された。それは簡潔で短く、そして明快なものである。彼は自分の記事のことだけは、確かに覚えている。「チェーホフの小説『黒衣の僧』のことを思い起こせば……私は、この作品がソナタのように作られていると書きました。この私の考えがどこで引用されたかは知らないし、覚えてもいません」。手紙の調子からは、随分昔にしたコメントに関して長々とした議論をすることを、ショスタコーヴィチが明らかに渋っていることがはっきりと分かる。そのコメントは衝動的に生まれたものであり、彼の意志に反して文学界の学術的研究に“波紋”を巻き起こすような「進化」や「考察を深める過程」だとか「隠された意味」などは何もなかったのである。彼に押しつけられた音楽学者や画期的な考えの先駆者としての役割は、作曲家にとって明らかに不愉快なものだった。手紙の調子は総じて礼儀正しいとはいえ、断固とした否定(「私は知らないし、覚えてもいません」)から露わになるのは、多忙で疲れているところに、彼にとっては副次的で、特にこの時点においてはほとんど興味のないことを思い起こされたことによる苛立ちである。手紙の形式的な礼儀正しさ(そして、その話題を終わらせたいという明白な望み)を確認することは、表面的にはそれほど重要ではないが、実際には大きな意味を持つ。フォルトゥナートフへのショスタコーヴィチの3通の手紙の内、これはタイプされたものに手書きの署名がされた唯一のものである。このような手紙は、概して、ショスタコーヴィチが口述したものを秘書がタイプするか、標準的な文例に従って秘書が作文するかのどちらかであり、作曲家はそれに署名をしたのである。12月23日の手紙には 作曲家の話し口調を見出すこともできる。したがって、恐らくは、前者のパターンだろう。

フォルトゥナートフの著書によると、彼はショスタコーヴィチに、未解決の問題や定義についてさらに詳しく述べた3通目の手紙を送った。それは、1972年1月12日付けの予想外に愛想の良い返信(この時は、手書きであった)を受け取った後のことだった。ショスタコーヴィチは、フォルトゥナートフの説得力がある議論に同意し、彼の“当を得た訂正”に感謝した(フォルトゥナートフはショスタコーヴィチとは異なり、「黒衣の僧」のソナタ風の性格について、相当な時間を費やして考えていたのだ!)。そして、以下のようにまとめた。「私は、“まるでソナタとして”ではなく、“まるでソナタ形式のように”と書くべきでした。より正確に言うならば19、『黒衣の僧』は、ソナタ形式で書かれている、となるでしょう」。これをもって、往復書簡は打ち切られる。そしてその後、手紙の交換が再開された様子はない。

アメリカの研究者ロザモンド・バートレットによる論文では、ショスタコーヴィチとフォルトゥナートフとの往復書簡の“流れ”は、以下のように解釈されている。「……チェーホフ研究家のエイブラム・ダーマンは、作家についての本を出版した。その中では、ショスタコーヴィチが『黒衣の僧』が交響曲のように書かれていると言ったと主張されている。ダーマンの誤りは、別の文芸評論家ニコラーイ・フォルトゥナートフを刺激して、作曲家が意味したものを正しく明らかにするためにショスタコーヴィチに手紙を送ることに至らしめた。ショスタコーヴィチの返信は、フォルトゥナートフにチェーホフの散文の音楽性に関する論文の執筆を促した。その中で、彼は特に『黒衣の僧』に集中した。その論文は、1974年にフォルトゥナートフの著作をまとめた本に収録されて出版された。結果として、『証言20』の中で『わたしがこのこと(チェーホフの散文が持つ音楽性に関する理論)を打ち明けたある文芸学者は、それを学術論文に書きさえした。“当然のことながら、それはすっかり混乱したものとなった”』と述べた時、ショスタコーヴィチが思い浮かべていたのはフォルトゥナートフのことだと推測されるに違いない。作曲家は、さらに付言している。『文芸学者たちが音楽について書こうとすると、いつでもしどろもどろになるが、それでも、その論文はなにかの学術的な文集に掲載された』21」。

既に明らかになっている状況が、ここでは歪曲されていることが分かるだろう。実際には、上述したように、フォルトゥナートフに論文を書く“気にさせた”のは“ショスタコーヴィチの返答”(往復書簡の前に論文が執筆されているので、このような返事がその時点で存在することはあり得ない)ではなく、チェーホフの長編が持つ“ソナタのような性質”についての作曲家の短い感想だった。フォルトゥナートフの論文「チェーホフの散文の音楽性」は、1974年ではなく、1971年に初出版された。フォルトゥナートフがエイブラム・ダーマンの著作を知ったのは、彼の論文が既に出版された後のことである(前ではない)。ショスタコーヴィチは、練り上げた“理論”がまとめられた包括的な内容の手紙をフォルトゥナートフに書くことはなかった。そしてその理論は、彼らの往復書簡から明白であるように22、もともと存在しなかったし、小説の詳細な音楽的分析を“打ち明ける”ほどの深い議論もしていなかった。ショスタコーヴィチは、フォルトゥナートフの論文にとても満足していた。それゆえに、文芸評論家が表面上“すっかり混乱した”と後になって言うことはあり得なかったのだ。それどころか、フォルトゥナートフの主要な分析結果の少なくともいくつかについては、作曲家が完全に賛同していたことを示している証拠がある。たとえば、フォルトゥナートフの論文中、物語の要約を扱った章では、次のように記されている。
「ここで、“第二主題”が現れる。


『……彼(コーヴリン)は衝立のむこうに寝ているヴァルヴァーラ・ニコラーェヴナを呼ぼうとして気力をふりしぼって言った

「ターニャ!」

彼は床に倒れた。両手を突いて身を起こしながら、もう一度呼んだ。

「ターニャ!」

彼はターニャに呼びかけ、露にぬれた豪華な花々の咲いている大きな果樹園に呼びかけた。庭園に、毛むくじゃらの根のはえた松木立に、ライ麦畑に、自分のすばらしい学問に、自分の青春に、勇気に、喜びに呼びかけ、あれほど美しかった人生に呼びかけた。……』」


次に、これらの文章を最近公開された文書と比較してみよう。「ヴィクトール・ペトローヴィチ(ボブローフスキイ)は、ショスタコーヴィチがチェーホフの長編『黒衣の僧』にソナタ形式を感じていることに気付いていた。その考えは彼を惹きつけ、また興奮させた。そして一度、折を見て、彼はこの問題について直接ショスタコーヴィチに尋ねてみた。『そうです、そうです!最後に、コーヴリンは「ターニャ、ターニャ!」と呼びかけます。これが、再現部の第二主題なのです23』。

ショスタコーヴィチとフォルトゥナートフとの往復書簡が、なぜこのような混乱を引き起こしたのだろうか?理由は2つあるように思われる。第一に、フォルトゥナートフがこれらの書簡を公表していたことがほとんど知られていなかったこと、そして第二に、疑わしい出典、たとえば「証言」が用いられたことである。書簡が公開される9年前の1979年に「証言」が出版されたことを考えれば、この問題に関する情報の混乱は容易に説明され得る。本が出版された時点では、ヴォルコフと、したがって、彼のもう一つの自我である“ショスタコーヴィチ”は、往復書簡の存在も、そして当然ながらその内容やドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスにある文書(フォルトゥナートフの手紙と1971年の論文の抜き刷り)について何も知らなかった。



  1. 以下の文献を参照のこと:Fortunatov N. ‘Tri neizvestnykh pisma Shostakovicha [Three Unknown Shostakovich's Letters]’. Muzykalnaya zhisny [Musical Life]. 1988. no. 14. p. 13. ショスタコーヴィチの手紙は、ファクシミリとタイプ原稿で掲載されている。

  2. 初出は以下の通り:Fortunatov N.M. ‘Muzykalnost chekhovskoy prozy. (Opyt analiza formy)’. Filologicheskie nauki: Nauchniye doklady Vysshey Shkoly [Philological Studies: Research Papers of Establishments of Higher Education]. M. 1971. No. 3.

  3. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスにおいて、本報の著者によって発見された。現在の書架番号は以下の通り:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 8. rec. gr. 248.

  4. フォルトゥナートフのタイプ原稿版では、2つの文はピリオドで間違って分割されている。

    ショスタコーヴィチは、1971年の9月17日から11月16日まで入院中していた。彼は退院してすぐにバルヴィハへ行き、12月18日までそこに滞在した。(Dombrovskaya O. ‘Geokhronograf D.D. Shostakovicha (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: issledovaniya i materialy [‘D.D. Shostakovich's Geochronograph: (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: studies and documents]. Ed.-comp. L. Kovnatskaya, M. Yakubov. M. DSCH. 2005. p. 206 参照のこと)

  5. 例証として、今まで知られることのなかった同時期のタイプ打ちの手紙を2通引用する。これらは、ショスタコーヴィチの秘書R.E. コルンによって、どちらも同じ1971年8月23日(明らかに、往復書簡に対応していた日である)に用意された。一つは、音楽学者L.S. ムハリンスキイに宛てたものである。「……“お手紙”、どうもありがとうございました。返事が大変遅くなりまして、申し訳ありませんでした。健康状態が悪かったのです」。もう一つは、出来が疑わしい詩に音楽をつけて欲しいという、作曲家への数多い申し出の一つに対する返信である。「……お気遣いと、同封していただいた詩に感謝いたします。(中略)残念ながら、私は体の具合が悪いので、せっかくのお申し出を受けることができません」。どちらの手紙も、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスで発見された。

  6. Glikman I.D. Journal VIII. Entry for 11 January 1973 (ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 4, sec. 2, rec. gr. 8.

  7. 現在の書架番号は以下の通り:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 3. sec. 2, rec. gr. 9.

  8. この手紙は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスに配架されていない。

  9. フォルトゥナートフ版では、「もっと良いのは」と間違っている。

  10. 出典:Testimony: The Memoirs of Dmitri Shostakovich by Solomon Volkov. London. 1979.

  11. Bartlett R. ‘Shostakovich and Chekhov’. D.D. Shostakovich. Sbornik statey k 90-letiyu so dnya rozhdeniyab [D.D.Shostakovich. Collection of Articles to Mark the 90th Anniversary of the Composer's Birth]. L. Kovnatskaya(編). SPB. 1996. p. 348.

  12. R. バートレットは、無意識にフォルトゥナートフを踏襲して、「『文学新聞』に寄せた『黒衣の僧』のソナタ形式に関するショスタコーヴィチの簡潔な解説は、明らかに真剣な思索の結果である 」と考え、この点についてヴォルコフの「証言」を引用している。そこでは、“ショスタコーヴィチ”がチェーホフの物語のソナタ形式に関する長大な理論を作り上げている。「……そこには、導入部、第一主題と第二主題を含む呈示部、展開部などがある」(R. Bartlett Shostakovich and Chekhov p. 350 からの引用)。しかしながら、教科書的な定義に一致するようなソナタ形式の解釈にはそれほど真剣な検討は必要なく、ヴォルコフ自身、すなわち「証言」の著者の能力の範囲内であるように思われる。

  13. Chigaryova E.I. ‘V.P. Bobrovsky o muzykalnoy organizatsii v rasskazakh i povestyakh Chekhova (po arkhivnym materialam) [V.P. Bobrovsky on the musical organization of Chekhov's long stories and tales (based on archive documents)’. Iz lichnykh arkhivov professorov Moskovskoy Konservatorii [ From the personal archives of Moscow Conservatoire professors]. 2nd ed. Sb. 52. G.V. Grigoriyeva(編). M. 2005. pp. 33-34. 残念ながら、本文にはこの注目に値する対話が行われた正確な時期について記載がない。

    再現部の第二主題(「ターニャ、ターニャ!」)についてのショスタコーヴィチのコメントは、随分昔に抱いた突発的で(唯一の!)直感的な感覚で、その感覚が、チェーホフの長編のソナタ形式に関する彼の論文にまとめられたのだと推測してみることもできるだろう(そうだと主張するつもりはない)。いずれにせよ、間違いなく“詳細な分析”を期待していたボブローフスキイとの会話において、ショスタコーヴィチが思い出したのはこのことだけであった。

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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(1)

2010年12月2日および2011年1月4日の記事で言及した、ブラガの「セレナータ」の編曲の楽譜に掲載されている論文を訳出してみた。長文のため、7回に分割してエントリーする。



ほぼ半世紀の間、チェーホフの「黒衣の僧」は読書家、作曲家、そして思想家としてのショスタコーヴィチの心を占めていた。しかし、彼の人生における一種の“ライトモチーフ”となっていたものの、それが舞台音楽の形をとることはなかった。チェーホフの散文(と「黒衣の僧」)に対する作曲家の例外的に深くて熱心な内省1は、期待されたような歌劇の傑作として結実しなかった。

実現することのなかったこの組み合わせに関する情報(それは、ショスタコーヴィチの作曲家人生におけるとても興味を惹かれるエピソードであり続ける)は、断片的でわずかなものしかない。それでも、いくつかの新しい資料が示唆するように、今まで気に留められることのなかった詳細を明らかにするだけでなく、更なる分析が必要とされている。

ショスタコーヴィチが「黒衣の僧」について言及したのは、知られている限りにおいて1926年1月1日が最初である。ボレスラフ・ヤヴォールスキイに宛てた手紙2の中で、ショスタコーヴィチは初めて自分をコーヴリンになぞらえた。「私は総じて夢というものを信じませんが、12月31日から1月1日にかけての夜、私を何か不安にさせるような夢を見ました。その夢はとても平凡なもの3でしたが、それでも、あなたにお話ししてみようと思います。私が砂漠を歩いていると、突然、白衣を纏った“年配の修道僧”が私の方へやって来ました。『今年は、あなたにとって幸せな年になるだろう』と、彼は言いました。この瞬間、私は非常に喜んで跳び起きたのです。前の晩は午前3時に寝たというのに、嬉しさのあまり朝まで寝付くことができず、何度も寝返りを打ちました4。なんて不思議なことでしょう!私は今、チェーホフの小説『黒衣の僧』のことを考えています。そして、コーヴリンがこのような大喜びの状態で、どうしたらよいのか分からなくなっていたことを思い出しています5。なんて不思議なことでしょう!」

ここから分かるように、プーシキンの詩「預言者」やそこに登場する“6つの羽を持つ天使”の特徴と結びつく白衣が暗示することは、若きショスタコーヴィチによって明確な解釈を与えられている。すなわち、白衣を纏った“年配の修道僧”は、「黒衣の僧」に関係しているということだ。近年の研究成果を踏まえると、ショスタコーヴィチの夢は、アレクセーイ・スヴォーリンに宛てた1894年1月25日付けの手紙の中に書かれたチェーホフ自身の夢の自由な解釈とも考えられる。「私は『黒衣の僧』を、陰鬱な考えなどではなく、穏やかな内省のもとで書きました。(中略)私は修道僧が野原に浮かんでいる夢を見、朝起きるとすぐにそのことをミーシャ6に話しました」。チェーホフの小説の主人公が作家の夢の中に出てきたということを、ショスタコーヴィチは1925年末の時点で知っていたのだろうか?もしそうだとすれば、そのような文脈においては、彼自身の夢は非常に重大な意味を持つことになる。つまり、ヴォルテールに倣えば「もしそれが存在しないなら、それを発明しなければならない」ということだ。もちろん、“元ネタ”との明らかな類似は除去されている。そして、黒衣の僧にわざと白を着せ、野原を砂漠に入れ替え、また「平凡なもの」と断ることで、夢(彼がそれに大きな重要性を与えようとしたことについては、疑う余地がない)の持つ意味を軽く感じさせようとしたのは、ショスタコーヴィチがしたことなのだろう。不誠実と非難されることを覚悟の上で、次の仮定を検証してみたい。若き作曲家が見た美しくも象徴的な初夢が、ロマンティックな借用である彼の想像力が生み出した虚構でしかないということは、あり得るだろうか?彼は、お気に入りの作家に自分をなぞらえたいと願い、また同時に、文学上の事実を自分の伝記の出来事とするために、その夢を発明したのだろうか7?今のところ、この疑問に対する答えは得られていない。しかし、夢の重要性は他にあるはずだ。1926年(交響曲第1番の初演と大成功の年である)になる大晦日のショスタコーヴィチと「黒衣の僧」との出会い(それが創作か夢かはさておき)は、彼の創作活動と人生の一ページとなるべくしてなったに違いない。

その後の15年間、チェーホフの小説に対するショスタコーヴィチの興味が減退することはなかったという、明確な根拠はない。しかしながら、1943年までには既に、ショスタコーヴィチが歌劇の題材として「黒衣の僧」の筋書きを検討していたことが明らかである。作曲家は、彼の生徒であったレヴォリ・ブーニンに、舞台音楽に対する最初の試みとして、「黒衣の僧」を執拗に薦めた。後に、ブーニンは次のように回想している。「私が交響曲(1943年)を書き終えた後、ドミートリイ・ドミートリェヴィチは、チェーホフの小説『黒衣の僧』に基づく短い歌劇を作ってはどうかと提案しました8」。

1943年にもまた、「チャイコーフスキイに関する考察」という小論の中で、ショスタコーヴィチはチャイコーフスキイとチェーホフがよく似た“人生における悲劇の感覚”を共有していることに注目し、長編小説「黒衣の僧」は「まるでソナタとして書かれているといってもいいほど、ロシア文学のなかでも最も音楽的な作品である9」という、後に有名になった寸評をした。1960年には、作家の生誕100年を記念する「他に並ぶ者はいない!」という記事で、ショスタコーヴィチは以下の意見を明言した。「私は、チェーホフの長編小説『黒衣の僧』が、ソナタ形式で作られた作品だと見なしている10」。



  1. 以下の文献を参照のこと:Bartlett R. ‘Shostakovich and Chekhov’ in Shostakovich: Mezhdu mgnoveniem i vechnostyu [Shostakovich: Between the Momentary and the Eternal]. L. Kovnatskaya(編). SPB. 2000.

  2. GSCMMC(グリーンカ記念国立中央音楽文化博物館), f. 146. rec. gr. 3249. 以下の文献では、n. 3250と間違って記載されている:Dmitry Shostakovich, v pismakh i dokumentakh [Dmitry Shostakovich, in Letters and Documents]. I.A. Bobykina(編). M. 2000. p.51. 活字に起こされた原稿の不正確さを考慮し、この手紙は著者の直筆から引用した。

  3. 前掲書では、「悲しい(печален)」(!)と間違って引用されている。

  4. 前掲書では、「床に伏していた(провалялся)」と間違って引用されている。

  5. この最後の部分は、彼自身のコメントによって、ショスタコーヴィチが明らかにそれと意識しないまま、2つの異なるチェーホフの小説(「黒衣の僧」と「芝居がはねて」)からのエピソードを繋ぎ合わせていることを示している。物語の主人公達は、同じような状況(夜に、そして一人で)で、未来にさらに大きな喜びが得られるという予感のある、同じような大いなる喜びの感覚を経験する。次の2つの文章を比較してみてほしい。「彼(コーヴリン)はソファに腰をおろして、自分の全存在を満たしているわけのわからぬ喜びを抑えながら、両手で頭をかかえた。それからまた部屋のなかをひとめぐりすると、仕事にとりかかった。けれども、本からえられるさまざまな思想は彼を満足させなかった。なにかとてつもなく大きい、果てしのない、驚くようなものが欲しかった。明けがたになって彼は服をぬぎ、しぶしぶベッドに横になった。やっぱり眠らなければ!」(Chekhov A.P. Sobr. Soch [Collected Works] in 12 vols. M. 1962. v. 7. pp. 300-301)、「彼女(ナージャ)は(中略)考えながら嬉しくてならず、あらゆることが好もしく、すばらしいように思われた。喜びは彼女にささやいた――それはまだまだすべてではないよ、もうすぐもっともっとよくなるよ、といって。(中略)彼女は庭や、暗やみや、澄みきった空や、星がたまらなくなつかしくなった。(中略)彼女はベッドのほうへ近寄って腰をおろし、自分を悩ますこの大きな喜びを持てあまして(下線は筆者による。O.D.)、ベッドのもたれにかかっている聖像に目をやって言うのだった。『神さま! 神さま! 神さま!』」(同上. pp. 80-81.)

  6. Chekhov A.P. Sobr. Soch [Collected Works] in 12 vols. M. 1964. v. 12. p. 43.

  7. このような可能性を示唆するのは、V. M. ボグダーノフ=ベレゾーフスキイに宛てた16歳のミーチャ・ショスタコーヴィチによる1922年8月26日付けの手紙の中にある“借用”の同じような例である。「今、私の2人の隣人は、名前を検討しています。スミールヌイは、いくつかの魅力的な名前を提案しています。ゴレンドゥハ、ソッシイ、モーキイ、ホザザートなどです」(ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 3, sec. 1, rec. gr. 2)。ゴーゴリの「外套」からの次の箇所と比較してほしい。「お袋は(中略)モーキイとするか、ソッシイとするか、それとも殉教者ホザザートの名に因んで命名するか、とにかくこの三つのうちどれか好きな名前を選ぶようにと申し出た」(Gogol, N.V. Sobr. soch. [Collected Works] in 6 vols. M. 1959. v. 3. p. 129)。このことが、歌劇「鼻」を作曲するずっと前から、ショスタコーヴィチが現実の会話の代わりにゴーゴリ風の文言を日常生活に取り込もうとしていたことを表している可能性は、大いにある。

  8. Bunin R.S. ... With profound gratitude. Sovetskaya muzyka[Soviet Music]. 1976. n. 9. p. 15.(Dmitry Shostakovich v pismakh i dokumentakh [Dmitry Shostakovich in Letters and Documents]. p. 52. からの引用)

  9. Literatura i iskusstvo [Literature and Art]. 1943. 7 November.(Shostakovich o vremeni i o sebe: 1926-1975 [Shostakvoch about Himself and his Times: 1926-1975]. M. Yakovlev(編). M. 1980. p. 108. からの引用)

  10. Literaturnaya gazeta [The Literary Gazette]. 1960. 28 January.

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【録画】アンドレ・プレヴィンとN響の仲間たち

  • モーツァルト:セレナード「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、ピアノ四重奏曲第1&2番 プレヴィン (Pf) 堀 正文、松田拓之 (Vn) 佐々木亮 (Va) 藤森亮一 (Vc) 市川雅典 (Cb) (2010.11.2 録画 [NHK ETV(2011.1.7)])
NHK交響楽団の弦楽器奏者と同団首席客演指揮者のプレヴィンとの顔合わせによる、オール・モーツァルトの室内楽演奏会を、NHK教育テレビの芸術劇場で観た。プログラムに惹かれた訳でも、好きな奏者がいる訳でもなく、とりたてて何かを期待することのないまま、要は気まぐれで録画したものである。

ところが、嬉しい誤算とはまさにこのことで、上質で心地の好い音楽が繰り広げられた、とても素敵な演奏会であった。「アイネ・クライネ」といえば自分で弾く機会の方が多いくらいで、特に弦楽五重奏のような室内楽編成でのプロの演奏を改まって聴いたのは、もしかしたら実は初めてのことかもしれない。絶妙に肩の力が抜けた雰囲気は、気心の知れた名手の集まりならではのもの。「セレナード」という曲種に相応しい、寛いだ暖かみに満ちた演奏であった。

続く、プレヴィンが参加したピアノ四重奏曲を聴いて、この音楽がプレヴィンによって導かれたものだと気付かされた。技術的な精度とは別の次元で、全ての音が珠のように磨かれている。特別な表情付けは行われていないが、余裕のある音の流れの中から多彩な陰影が移ろう様は、まさに大人の音楽。モーツァルトの2曲のピアノ四重奏曲は、情熱の奔流を内に秘めたシンフォニックでドラマチックな演奏も良いが、こういう優しい温もりを湛えた演奏も良いものだ。そして、こういう演奏は、誰にでも真似ができるような類のものではない。

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ムラヴィーンスキイのリハーサル

  • ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル リハーサル&コンサート第2集(ロシア音楽編) (Altus ALT127)
少し前のことになるが、昨年11月末のことだったか、「30時間限定! クラシック発売済・輸入盤CD全品40%オフ!」というメールがHMV ONLINEから届いた。せっかくの機会なので、コストパフォーマンスの観点から長らく買いそびれていた大物を注文した。

9枚組BOXの内容は、以下の通り:
  • チャイコーフスキイ:交響曲第5番
    • リハーサル(1973年4月25日[第1、2、4楽章];26日[第3楽章])【CD1】
    • コンサート(1973年4月29日)【CD8】
    • コンサート(1982年11月6日)【CD9】
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
    • リハーサル(1973年4月26日[第1、2、4楽章];5月3日[第1、2、3、4楽章])【CD2~4】
    • セッション(1973年5月3日)【CD7】
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第6番
    • リハーサル(1973年5月4日[第2、3楽章])【CD5】
  • リャードフ:「バーバ・ヤガー」
    • リハーサル&通し演奏(1973年5月3日)【CD6】
  • グリーンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
    • リハーサル&通し演奏(1973年5月3日)【CD6】
  • プロコーフィエフ:バレエ「ロミオとジュリエット」第2組曲より
    • コンサート(1982年11月6日)【CD9】
リハーサルと本番とを併せて聴くことで、ムラヴィーンスキイとレニングラードPOの音楽が、いかにして生み出されたかを知ろうという企画である。第1集はベートーヴェンとブラームスの共に交響曲第4番を中心としたもので、そちらも興味がなくはないのだが、この第2集にはショスタコーヴィチの交響曲が収録されている以上、こちらを優先するのは当然のことである。音源は、CD8のチャイコーフスキイ以外は全て初出。

リハーサル部分には細かくチャプターが打たれており、対訳を見ながら聴く上での配慮がなされている。話し言葉の日本語訳には意味がはっきりしない箇所も少なくないが、オーケストラでの演奏経験がある人ならば、大体の雰囲気を知るのに支障はないだろう。細部の厳格な調整は、アマチュア並みのリハーサル回数が確保できた旧ソ連時代ならではの、時間をかけた緻密さが印象的である。こういう部分は、アマチュア奏者にとって非常に勉強になるし、また刺激にもなる。一方、奏者を個人の名前で呼んだりしていて、全体にアットホームな雰囲気が漂っているのは、ちょっとした驚きだった。気心の知れた仲間で、決まったレパートリーを存分に時間をかけて深化させていったことが垣間見えるような気がする。

また、リハーサルでは当然ながらパートを抜き出して練習したりしている訳だが、これが思わぬ美しい響きだったりして面白い。たとえば、ショスタコーヴィチの第5交響曲の終楽章コーダを金管楽器だけで演奏したところなどは、この箇所が勝利なのか悲劇なのかはさておき、Tuttiの演奏では気づかなかったような荘厳な美しさに、息を飲んだりもした。

本番(?)の通し演奏は、ほとんどが初出音源であるとはいえ、ムラヴィーンスキイにとってはお馴染みのレパートリーなので、同じコンビによる他の録音と、細かな違いはもちろんあるものの、基本的にそう大きな印象の差はない。ショスタコーヴィチの第5番はセッション録音だが、商品として完成されたものではないので、細かいミスが散見される。録音状態はこの時代の彼らの音源としては上質な部類であり、総合点でこの演奏を高く評価する聴き手もいることだろう。なお現在は、CD7がALT191、CD9がALT192として分売されている。ただし、HMV ONLINEのレビューによると、CD7の第4楽章と分売された盤とでは編集が異なるらしい(僕は確認していない)。

このセットについては、リリース直後から賛否両論があったようだ。初出音源が高額なBOXでしか入手できなかったこと(これは、上述の分売によって解消された)などは、確かに顧客に優しいとは言えないだろう。しかし、そもそもリハーサルを音盤で聴こうという時点で、限られた層の聴き手だけを対象とした商品であることは明白で、初出音源もその特典と考えるならば、とりたてて問題にするほどのことではないようにも思う。ただ、繰り返し聴き込むような類の音盤ではないので、セットの内容に相当の思い入れや興味がなければ、やはり定価(?)では手を出し辛いのが正直なところだろう。

“40%オフ”でも安いとは思えなかったが、貴重な資料として架蔵する価値は十二分にあった。他人にも積極的に薦めようとまでは思わないが。

HMVジャパン

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D. 演奏家_Mravinsky,E.A.

ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」(1979年DVD/ゲールギエフ指揮)

  • ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」 ロジデーストヴェンスキイ/モスクワ室内音楽劇場 (Vai 4517 [DVD])
  • ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」 ゲールギエフ/マリイーンスキイ劇場 (Mariinsky MAR0501 [SACD])
2010年11月24日27日12月6日および12日の記事の続き。HMV ONLINEでの今回の買い物はこれで最後、かつ今回紹介するDVDこそが、“目当て”の1枚である。腰を据えて映像を観る時間がなかなかとれず、結局年を越してしまった。

半年ほど前の新譜になるが、モスクワ室内音楽劇場による「鼻」の舞台がDVDでリリースされた。同曲の映像には1995年の公演がLDで出ていた(東芝EMI)が、このDVDはショスタコーヴィチ自身がリハーサルにも立ち会った1974年の復活初演から間もない、1979年のものである。

画質や音質についてとやかく言うつもりはないが、カメラワークが稚拙ですらあるのは少々残念。舞台の完成度も含めた映像としての総合点ならば、1995年のLDに軍配が上がるだろう。しかし、細かな演出や演技を磨きあげつつある過程ならではの猥雑な熱気とでもいった独特の雰囲気は、作品の持ち味と共鳴してとても魅力的である。これには、ロジデーストヴェンスキイ率いるオーケストラも大いに寄与している。1995年のLD(アグローンスキイ指揮)は、この沸き立つような趣きに欠ける。

特典映像は、リハーサル時(1974年)のショスタコーヴィチを収録したものと、ポクローフスキイが「鼻」について語ったものの2つ。どちらも数分程度のごく短い映像ではあるが、特に前者は、最晩年のショスタコーヴィチが最初期の作品を隅々まで記憶していたという証言を裏付ける貴重なもの。日本語字幕がないのは残念だが、それでもファン必携のアイテムと言ってよいだろう。

HMVジャパン


長らく買いそびれていたゲールギエフの「鼻」も、この際に注文した。隅々まで丹念に磨きあげられ、よく整えられた美演である。オーケストラも声楽陣も、この曲のスコアをここまで滑らかに音化した演奏は、少なくとも現時点では他にない。ただし、いかにもゲールギエフらしい流麗な音楽が、この作品に相応しいものかどうかは意見がわかれるところだろう。

HMVジャパン

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D.

ゴーゴリ:『肖像画』/『三国志演義(ちくま文庫)』

  • ゴーゴリ, N. V.・平井 肇(訳):肖像画・馬車, 岩波文庫, 1937.
  • 井波律子(訳):三国志演義(1~7), ちくま文庫, 2002~3.
2010年12月2日の記事で述べたように、昨年末からブラガのセレナータの楽譜に掲載されている論文の訳出に取りかかっている。ロシア語の英訳を元に訳を起こしているのだが、この英訳が非常に分かり辛く、大意を捉えるのはともかくとして、日本語らしき形にするのが極めて難しく、苦労しつつ作業をしているところである。ただ、論文の内容自体は大変面白い。最晩年のショスタコーヴィチが、いかに「黒衣の僧」のオペラ化に挑んでいたかが丹念に辿られており、読めば読むほどに、このプロジェクトが結実しなかったことが惜しまれる。

中でも、「黒衣の僧」単独でオペラを作るのではなく、ゴーゴリの「肖像画」を前半の1時間程度、休憩を挟んで「黒衣の僧」を同じく1時間程度で上演するという、二部作?連作?というような形態を考えていたというのは、非常に興味深かった。

そこで、早速書店に足を運び、「肖像画」を探してみた。運良く、岩波文庫の2008年春のリクエスト復刊で刊行されたものが在庫であったので、確保。訳文が文語なので少々読み辛いのは確かだが、慣れてしまえば大した問題ではなく、それよりも内容の傑出した面白さに惹き込まれてしまった。あら筋すら知らない状態で読み始めたので、内容や全体を覆う雰囲気などの様々な点において「黒衣の僧」と極めて似通っていることに驚いた。こんな陰気な話を、最晩年のショスタコーヴィチの音楽で2つ続けて観せられたら、さすがに気分が滅入りそう。



2010年最後の3ヶ月は、「三国志」に取り憑かれていたと言ってもよいだろう。10月31日の記事で紹介した吉川英治の「三国志」を読破した後、次は「演義」の原型を知っておこうと、現代風の訳で評判のよかった井波律子による訳書を読了した。学術的なことはさっぱり分からないが、とにかく読みやすくて面白く、最初に読む「三国志」としても申し分のないものだと思う。ただ、第1~3巻が品切れ状態で、特に第2巻はそれなりの価格で流通しているのは残念。

さて次は、「正史」にでも挑んでみようか。


theme : 読んだ本。
genre : 本・雑誌

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D.

プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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