選挙が終わり…

大阪のダブル選挙が終わった。結果に対する評価は様々だろうが、いずれにせよ、国政における政権交代後のような破滅の道だけは進まぬよう、心の底から願いたい。一足飛びにバラ色の将来を目指してブレイクスルーを求める姿は大衆受けするだろうが、少なくともその危うさを自覚しておくことが、政治家としての最低限の見識というものだろう。局面を打開するためにリスクを冒すことも辞さないのは、経営者として当然のことであるにせよ、結果として住民がそのリスクを負うことに対して、行政は慎重であって然るべきだ。「強いリーダーシップ」と「独善」とは全く異なる。「民意」に甘えることなく、職責に相応しい言動を期待する。

「役所をぶっ潰す」というスローガンが、近年の民意を代弁していることは確かだろう。しかし、「なぜ役所(官僚)が悪いのか」という問いに合理的な答えを返すことができる者は、実はそう多くはない。野口雅弘著『官僚制批判の論理と心理-デモクラシーの友と敵』(中公新書)は、政治思想史の切り口でこの問いに答えようとした、読み応えのある一冊であった。新書ではあるものの、学術的に丁寧な記述になっているために、いわゆる読みやすい本ではない。しかし、官僚制を巡る政治思想を著者の導きで丹念に辿ることで、デマまがいの言説に扇動された官僚憎悪とは一線を画して民主主義とは何かを再考する絶好の機会となることは間違いない。本書の「結語」にある次の一節などは、まさに今現在の我々にとって極めて示唆的である:
「リキッド・モダニティ」といわれる状況において、官僚制の現実はもはや「鉄の檻」というメタファーでは理解できなくなっている。それにもかかわらず、ますます強固になりつつあり、したがってますます自由を奪う官僚制というイメージを前提とし、官僚制 vs. カリスマ的リーダーという構図を使い続けつつ、官僚制と戦う強いリーダーに期待することは時代錯誤であり、デモクラシーの条件である官僚制の守られるべき側面をも削り落としてしまう危険性をもつ。(p.156)




今回の選挙に限ったことではないが、橋下氏の交渉能力には目を見張るものがある。橋下氏は自身の考えを徹底してnegotiateするのに対し、彼に対抗する側はそれについてdiscussしようとするから必然的に受け身にならざるを得ない。

もうかれこれ10年近く前のことになるが、職場の組織を巡る問題で会議が続き、「なぜこれほどまでに理不尽な主張の方がまかり通るのか」と辟易した気分になったことがあった。その時に読んだ本が、山平重樹著『ヤクザに学ぶ交渉術』(幻冬舎アウトロー文庫)。この目次にある見出しの一部を眺めるだけでも、彼の「負けない」交渉能力の一端を理解できるような気がする:
  • 掛けあいの極意は気合いである
  • 掛けあいはとことん相手を追い込んではならない
  • 最悪を想定して肚を括れば突破口は開ける
  • 相手のミスは徹底的に突く
  • いかに自分のペースに持っていくかが勝負の分かれ目となる
  • これだけは譲れないという原理原則を貫くべきである
  • 愚連隊の無手勝流
  • 理論武装をしてこその交渉上手なのである
  • 「正義は我にあり」の思い込みが最大の武器となる
  • 理屈と膏薬は何にでもくっつく
なお念のために断っておくが、この本を引き合いに出したことと、橋下氏の出自に関する異常なまでのバッシングとは一切関係ない。



「大阪都構想」については、正直なところ、議論すべき材料を持ち合わせていない。ただ、少しだけ引っかかることがある。

2008~9年に土木学会会長を務めた、旧運輸省出身の栢原英郎氏が書いた『日本人の国土観』という本の中に、氏が策定に関わった第4次全国総合開発計画(四全総)にまつわるエピソードが記されている。当初の案では名古屋圏(中部圏)を「我が国の代表的な国際的産業技術拠点」すなわち「産業首都」と位置付け、京都・大阪・神戸等(大阪圏)を「(経済のみならず)国際的な文化、学術、研究の拠点の形成を図る」すなわち「文化学術首都」と位置付けていた。これに対して、大阪圏は「文化で飯は食えない。第二の国際首都と書け」と猛反発したという経緯があったとのこと。

行政の中心を大阪城の傍からただの埋め立て地に移転しようとしたことに象徴される歴史文化に対する価値観の無さもさることながら、自ら「第二の」と称することに何のためらいもない気質が大阪人の中に根付いているのではないかと危惧する。かつての、ジャイアンツに対するタイガース・ファンの屈折した心理も、この気質の表れだったと言えるかもしれない。「大阪都」という言葉の中に、東京都に対するこうした大阪人気質を感じるのは、穿ち過ぎだろうか。

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theme : 政治・時事問題
genre : 政治・経済

A. ロス:『20世紀を語る音楽』

  • A. ロス・柿沼敏江(訳):20世紀を語る音楽 1, みすず書房, 2010.
  • A. ロス・柿沼敏江(訳):20世紀を語る音楽 2, みすず書房, 2010.
アレックス・ロスの大著『20世紀を語る音楽』をようやく手に入れた。1年ほど前の新刊間もない頃に偶然書店で見かけ、ショスタコーヴィチに1章が割かれていることを立ち読みで確認してはいたのだが、その価格(第1巻:4,000円、第2巻:3,800円)ゆえになかなか手が出せずにいた。その後、新聞の書評などにも取り上げられ、その多くが好意的な評だったこともあり、いささか時機を感はあるものの思い切って購入した次第。

これだけの大著をもってしても、20世紀に生み出された音楽の多様さをもれなく網羅するには至っていないが、創造と市場の両面においてアメリカを中心に据えたストーリーは秀逸である。取り上げる作曲家(とその活動時期)と作品を注意深くも大胆に絞り込むことによって、音楽と社会、あるいはクラシック音楽と大衆の関係性が次第に変遷していく様が明確に描かれている。

本書で言及されている作品や作曲家の多くが、名前は知っているが聴いたことはないものであるため、その選択や記述の妥当性について詳細に判断することはできないが、ショスタコーヴィチ(とその周辺)に関する限り事実関係の誤認等はなく、またバランスのとれた論述がなされており、おそらくは全体を通して同様の信頼がおけるものと思われる。アメリカ人から見た共産主義国の作曲家という視点も面白かった。

僕自身がアメリカ音楽には疎いため、本書の大半を味わい尽くすことができなかったのは残念だが、これまで聴く機会のなかった作品群に対する指針を与えてくれる文献として、今後も折に触れて紐解くことになるだろう。

theme : クラシック
genre : 音楽

徒然なるままに

国内外の情勢が混迷を極める中、2009年の政権交代は我が国に致命的な傷を与え、そして与え続けている。票になりそうな争点を付け焼き刃ででっち上げ、権力を簒奪した後は罵倒と詭弁と責任転嫁で、権力の座を刹那的に謳歌する。そんな現代のリーダー達に共通する決定的な欠陥は、民主主義の手続きを遵守できないことにある。

わが国が民主主義を標榜する以上は、いかなる政策であれ、民主的な議論を経た上で意思決定がなされなければならない。民主主義の本質は、手続きにある。だから、国の決定には相応の時間がかかるのだ。

マスメディアで繰り広げられているTPPを巡る議論は、悪夢の政権交代前夜を思い起こさせる。問題を農業保護の一点に矮小化させ、都合のよい数字のみを繰り返しつつ、正当な不安に対しては根拠のない希望的観測で言いくるめようとする。そこで語られるヴィジョンは、例外なくお花畑な夢物語だ。結局、「変化は善、現状維持は悪」という感情論しか判断材料がないから、大勢は恣意的に醸成された雰囲気に流される。「スピード感」という名の拙速が、それに拍車をかける。

世論がこのように形成され、そしてその世論に政治が過剰に左右されている以上、紛れもない国難である東日本大震災と福島第一原発事故に際して、あのような内閣を戴くしかなかったことは、必然の帰結だったのだろう。『亡国の宰相』(新潮社)は、当時の新聞報道を時系列に沿って並べただけの、ノンフィクションとしてはいささか粗雑な作りであるが、その紙数のほぼ全てがミスジャッジ、責任転嫁、保身の言動で埋め尽くされていることは、民主党政権の正体を(期せずして?)極めて明快に示している。



鳩山由紀夫元首相は、政権発足当初、自身の内閣を「オールスター内閣」と自賛した。大衆受けのする問題にしか興味のない、明らかに勉強不足な閣僚達の国会答弁は、ちょっとしたバラエティよりも笑えたものだが、その後の菅内閣と野田内閣の顔ぶれを見るにつけ、あの陣容が確かに政権与党の「オールスター」であったことに唖然とする。11月7日に放送されたNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で脚本家の三谷幸喜氏は、「プロフェッショナルとは、人の期待に応えるということ。自分がやりたいものをやるんじゃなくて、人が自分にやって欲しいものをやる。それが僕の中でのプロフェッショナル」といった趣旨の発言をしていた。この定義に従うならば、少なくとも現在の政権与党の中にプロフェッショナルは一人もいない。

少し前に話題となった元米国務省日本部長ケビン・メア氏の『決断できない日本』(文春新書)は、著者本人にとっては例の「ゆすり発言」に対する弁明の意義が強いのかもしれないが、多くの日本国民にとっては日本政府の稚拙極まりない外交対応が、交渉相手であるアメリカの立場から明快に述べられているという点で価値のある一冊であろう。淡々とした筆致であるがゆえに、現政権への政権交代を許してしまった過失の重みを痛感する。



それぞれ尖閣諸島中国漁船衝突事件と東日本大震災の後に刊行された佐々淳行氏の『彼らが日本を滅ぼす』と『ほんとに、彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎)には、わが国の官僚組織がいかに仕事をしてきたのか、その一端が力強く記されている。「悪い公務員」がいることは確かだが、それは「公務員が悪い」ということとは同義ではない。こんな論理がまかり通るのであれば、「テレビ局の人は痴漢をする」「芸能人は覚醒剤を常用する」「大学教授はセクハラをする」「会社員は不倫の末に妻を殺害する」……などのように、あらゆる職業が犯罪者集団ということになってしまう。役人さえ悪者にしておけば自分の株が上がると思っている政治家には官僚を使いこなすことはできないし、公務員というだけで脊髄反射的にヒステリックな反応をする市民が官僚の活力どころか機能すらも奪いつつあることを、いま一度考え直さなければならない。



結局のところ、現代社会はマスメディアの情報操作に隷属しているということなのかもしれない。恐ろしいのは、当のマスメディアが自身の発信する情報の質に無批判なことである。意図的なデマゴギーの類よりもむしろ、無意識の内に確定してしまったストーリーによってあらゆる情報が歪曲されることの方がはるかに悪質である。上述した『亡国の宰相』の中にある自民党所属の脇雅史参議院議員による4月18日の予算委員会の質疑の件を読んでいた時、この質疑の最後で脇議員が「総理は、歴史が私のことを判断してくれるというようなことをよく言われるんで、ちょっと歴史的なことをお話をさせていただきたいんですが、薬害エイズ事件でこういう本が出ています」として、菅首相(当時)と枝野官房長官(当時)に対して説教をしたことを思い出した。その本が、『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実』(現代人文社)である。マスメディアにしろ知識人にしろ政治家にしろ、そして情報の受け取り手たる一般大衆にしろ、思い込みの真実(truth)に囚われて、そもそもの事実(fact)を誤認してしまうことの危険性を胸に刻む必要がある。

theme : 日本を憂う
genre : 政治・経済

カルテットという名の青春

  • カルテットという名の青春 ~太郎、マドカ、麻理子、大と歩いた1371日~ (録画 [BS朝日(2011.10.9)])
10月8日の読売新聞朝刊を読んでいたら、その翌日に放送予定の弦楽四重奏を志した若者達のドキュメンリーが紹介されていた。BS朝日で放送されたこともあってか、見逃したというよりは、こういう番組があったことに気付きすらしなかった人も多かったようなので、録画できたことは実に幸運であった。BSの番組欄を気にかけることなど普段はまずないだけに、まさに天の与えと言うべきだろう。

“カルテット”をやることに対する、どこか肩に力の入った自負は、念願叶って四重奏を結成したことのある者ならば誰もが記憶にある独特の高揚した気分だが、番組冒頭における4人の若者達が皆その状態にあるのが、どこか微笑ましい。一流音大を卒業したばかりの前途洋々たる4人の弦楽器奏者達が、四重奏に身を投じる誇りと使命感の一方で、音楽家としていかに成長すべきか苦悩し、悪戦苦闘していく様には、強く惹きつけられた。

ありふれたハッピーエンドではなく、四重奏団の活動休止という決断を下すに至る過程が、音楽を職業として選択することの厳しさや困難さを生々しく描き出している。タカーチによる最後のレッスンは、ベートーヴェンの第12番の第2楽章ということもあって、偶然とはいえ思わず感情移入して観てしまったが、とても感動的なものであった。わずか4年ほどの間に、音楽とこれほどまでに濃密に向き合った彼らが、今後さらに大きく発展していくことを願う。

音楽の“自由さ”が、彼ら(特に第1Vn奏者)の直面した音楽的な壁であるという描写であったが、そこで少し惜しいと思ったのは、日本では技巧的な精確さのみが要求され、ヨーロッパでは自然に身につけることのできる自由な音楽を習得することができない、という紋切り型の主張に終始したこと。音楽芸術というのは、そもそもが口承によって伝統が形成されるものである以上、いわゆるクラシック音楽の発祥地であるヨーロッパと、そことは全く異なる文化圏にある日本とを単純に比較すること自体がナンセンスだろう。ヨーロッパに留学したり、そこで生活したりするだけで、日本人がヨーロッパ人になるわけではない。日本人がクラシック音楽をすることに対するある種の葛藤は、ドキュメンタリーのテーマとして非常に興味深いものではあるが、それを的確に描くことはそう簡単でない。

とはいえ、芸術を生業として極めていこうとする若者達の真摯で情熱的な姿は、広く共感を得ることだろう。カルテット好きはもちろんのこと、音楽に少しでも興味のある人には是非とも観てもらいたいドキュメンタリーである。BSなので、再放送の機会も少なくないはずだ。

theme : クラシック
genre : 音楽

Violinst クリストフ・ジョヴァニネッティ 弦楽室内楽 特別マスタークラス

早いもので、もう11月になってしまった。随分と時間が経ってしまったが、1ヶ月以上前のことについて、今さらながら忘れてしまう前に書き留めておきたい。

10月9日のエントリーで、シュペーテ弦楽四重奏団第1回公演の総括をしたが、実は京都公演と西宮公演の間に、我々にとって非常に意義深いイベントがあった。それは、西宮公演の前日の9月23日に、森悠子先生が企画されているキャパシティビルディング(第14回)に参加し、クリストフ・ジョヴァニネッティ氏の公開レッスンを受けたことである(長岡京市中央生涯学習センター)。ジョヴァニネッティ氏はイザイQの創立メンバーで、現在はエリゼQ(Quatuor Élysée)の1st Vn奏者である。森悠子先生から案内をいただき、演奏会前日ということに若干の躊躇はあったものの、またとない機会なので受講することにしたもの。

全部で4団体が受講し、それぞれが1時間(実際には10分前後の延長があった)のレッスンを受けた。順にハイドンの「五度」(第1楽章)、ベートーヴェンの「セリオーソ」(第1&2楽章)、ハイドンの「鳥」(第1楽章)、そして最後に我々がベートーヴェンの第12番(第2楽章)を指導してもらった。まず最初に曲を通して(繰り返しは省略)演奏し、全体的な講評をもらった後、冒頭から順を追ってレッスンというスタイルは、フランスでは一般的なやり方らしい。年齢構成も、カルテットとしてのキャリアもまちまちな4団体だったが、それぞれがやろうとしている音楽を決して頭ごなしに否定することなく、十分以上に尊重しつつも、問題点を的確に把握して効率よく改善していく手腕は、パリ国立高等音楽院での長年に渡る指導の賜物だろう。
  • pf の捉え方
  • 装飾音の処理
  • ボウイングやフィンガリングについての具体的なアイディア
など、持参したスコアのコピーに書き込んだメモの数々は、他の楽曲にも直ちに応用できる実際的なアドバイスばかり。また、通訳を務められた森先生も、楽器こそ弾かれなかったが、単なる通訳の域を超えた指導をしてくださり、事実上講師2名のマスタークラスであった。

我々の演奏は、京都公演をさらに上回る極度の緊張のために、お世辞にも褒められた出来ではなかったが、ジョヴァニネッティ氏はその稚拙な演奏の中からも的確に我々の音楽的な個性をくみ取り、我々の演奏を魔法のように音楽として整えてくれた。自分達でも考えていたがうまくできないでいた多くのことが、簡潔な言葉で指摘されただけで苦もなく実現するのには、誰よりも我々自身が驚いた。「楽曲を貫くリズムを、常に4人全員が共有すること」が我々に対する指導の根幹であったが、この基本中の基本の大切さを鮮烈に認識させてもらった。第2楽章を選択して、とてもよかったと思う。

翌日の西宮公演では、レッスンで得たもの全てを発揮するには残念ながら至らなかったが、我々にとってこの1時間は決して忘れ得ぬ素晴らしい経験となった。


theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 演奏活動_DasSpäteQuartett

プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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