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クヮルテットのたのしみ


少しだけ、つまらぬ思い出話にお付き合い願いたい。

高校生の頃、弦楽四重奏の魅力に取り憑かれた僕は、受験勉強の寸暇を惜しんで(妙な表現だが)何度も擦り減るほど四重奏のレコードを聴いたものだった(LPの方が多かったから、文字通り擦り減った)。この頃に聴いたアルバン・ベルクQの録音の数々は、それゆえに僕の奥深くに刷り込まれている。何が有名曲なのかも分からず、ただただ手当たり次第に聴き漁っていたが、その内、情報が欲しくなって本屋の音楽書のコーナーに入り浸って立ち読み三昧が始まった。不勉強が祟って1年間浪人したせいで、時間ならいくらでもあった。何の変化もない退屈な日々の中で、まだ聴いたことのない作品や演奏に思いを馳せることが唯一に近い娯楽であり、大学に入ったら弦楽四重奏をしたい、という夢が心の支えでもあった(本末転倒もいいところだが)。

立ち読みだけでは飽き足らず、予備校に通うバス代をケチって何とか手に入れた本の一つが、『音楽の友』別冊の『室内楽ものしり事典』(音楽之友社, 1989)。そこに載っている、N響の首席第2ヴァイオリン奏者の山口裕之氏(当時はコンサートマスター)が中心となって活動していたゼフィルスQについての記事の中、選曲の項にさりげなく書かれている「ちなみに、アカデミア・ミュージックから出版されている『クヮルテットのたのしみ』という本は室内楽のファン必携の一冊で、聞いたこともない作曲家の室内楽作品のリストは非常に貴重なものだ」(pp.145~6)という一文を発見。こんなことを書かれては、居ても立ってもいられない。浪人生の身分で札幌から東京に市外通話をかけるのは憚られたのでハガキで問い合わせ、返信にあった指示通りに郵便局で代金を振り込んだことを記憶している。

現物が届くとすぐに読み始め、貪るように何度も読み返した。まずは、クヮルテットの結成から初お披露目に至るまでのユーモラスなエッセイ(?)の部分。どこかチェブラーシカとワニのゲーナの出会いのような団員募集のくだりは、著者と国も時代も共有していないので今一つ共感しきれないところもあったが、4人がそれぞれやりたい曲を好き勝手に主張し、結局ラズモスフキー第1番をやることになる初合わせの顛末などは、まだ夢でしかなかった自分の四重奏団を想像するに十分過ぎる生き生きとした描写で、暇さえあれば読んだものだった(後に、この記述が紛れもなく真理であることを何度も経験することになった)。後半の作品リストは、最初は「こんな曲があるのか」というだけで面白く、繰り返し眺めている内に各曲に対する著者(と訳者)のコメントの面白さに気付き、舐めるように読んだのも懐かしい思い出。

大学に入って、2回生になって初めて固定メンバーで四重奏に取り組めるようになり、ふとした折に弾きながら「あの本に書いてあったのと同じだ」と思ったり、楽譜屋や音盤屋に行く前に作品リストに目を通してみたりと、文字通りの愛読書であった。

メンバーの卒業と共に四重奏を解散した後は、本棚から出すこともめっきり減っていた本書の改訂増補版が出版されるとのメールが、アカデミア・ミュージックから届いた。新版を敢えて手元に置いておく必要性はなかったのだが、先日、一種の郷愁に駆られて、ついつい注文してしまった。

旧版との大きな違いは、作品リストの増補である(他に、訳者がアカデミア・ミュージックの機関紙に寄稿した文章なども掲載されているが)。ただ、本書においては、著者(あるいは訳者)が各曲にコメントしている点こそが重要なので、単に曲名と難易度だけを羅列した増補部分には、多少の資料的意義は認めるものの、本書の魅力とは異質なものを感じることは否めない。また、ショパンのピアノ協奏曲のピアノ五重奏用編曲の項で、「特に協奏曲第1番はよく売れています」(p.192)などと書かれているのも、無粋だなぁと思ってしまう。

とはいえ、旧版にもあった部分は、今読み返してもクヮルテット愛に満ちた珠玉の文章である。本書を手にしてクヮルテット道にハマる若者が今後も出続けることを祈りつつ、あの頃の初心を忘れずに、たまには楽器の練習もしようと反省しながら、懐かしく頁をめくりました。
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theme : クラシック
genre : 音楽

O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(4)その1

4. 主題、文学上の源流、ジャンル パルチザンの息子


歌劇「オランゴ」の主題は、自筆譜にある文章によると、「ブルジョア社会の批判」である。それは、バレエ「黄金時代」や歌劇「大きな稲妻」の作曲家にとって新しいことではない54。しかし、「国外にいる同胞」という主題は「オランゴ」では変わり、正確に言うなら「わが国における外国人」となった。この入れ替え(そこには文学上のパロディと、結果として寓話劇の常套句が既に内包されていた)がなされたことで、A. 0. スタルチャコフとA. N. トルストーイに「パロディのパロディ」や「批判のための批判」の追加的な機会が与えられた。そして彼らは、それを利用しないではいなかった。台本作家達はまた、文学的な駆け引きのコツ、社会のイデオロギー的かつ文化的要請に敏感であること、そして新聞で論じられている芸術とはかけ離れた科学上の問題に対する知識も見せた。「交雑」「新たな人間の創造」といった考えと同様に、「西側と我々55」「海外での階級闘争56」という話題(これらの話題は広く流布していて、意図せずに借用することが黙認されており、直接的な比喩が用いられた)を取り上げた後で彼らは、時代に育まれ、また考えることが愉快であったがゆえに時代の要請でもあった皮肉な色調を帯びた寓話を創作したのである。

プロローグの文学上の源流の一つは、ほぼ明白である:それは、ヴラディーミル・マヤコーフスキイの劇「南京虫」(1929)である。たとえば、おどけたバスのヴェセリチャクによるちょっとした独唱(モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」のレポレッロが歌う「カタログの歌」のアナロジーである)において、「南京虫」がソヴィエトの「珍しいもの」の愉快なリストを締めくくる。「モスクワには、もはや南京虫はいません」と、ヴェセリチャクは興奮して叫び…嘘をつく。それは、プロローグの中心的な場面(外国からの客人達にオランゴを披露する)がマヤコーフスキイの「南京虫」の第9場のパロディだからだ。歌劇と劇の両方に共通するこの場面の要点は、人間風の反社会的な生き物(「南京虫」では「ブルジョアの成り上がり者」、「オランゴ」では「ピカントロプス」(ママ))―そこには外国人達も含まれる―を見せることである。その生き物は何らかの行動を起こすが、衆人の中では全く逆の反応を見せる。周囲の激しい笑い声の求めに応じて、オランゴはあくびをし、鼻を鳴らし、「チジック=ピジック」を演奏し、「エ‐ヘ‐ヘ」と言う。「南京虫」のプリスィプキンは、周囲の恐怖の叫び声の中で「煙草を吸い」、「大酒を飲み」、(求めに応じて)「人間の言語を真似た、短い言葉のような何か」(「エ‐ヘ‐ヘ」かもしれない?)を発することができる57。当初は静かだった二人の「主人公」は、周囲の人々に怯えて、急に攻撃的な言動を示して苦しみだす(オランゴ:「 こなごなに、ひひひ引き裂いてやるぞ!…窒息しそうだ、この動物の皮の中で窒息しそうだ。」;プリスィプキン:「どうして俺は、この檻の中で一人なんだ?いとしい人よ、友よ、一緒に来てくれ!どうして俺は苦しんでいるんだ?!」)。そしてそのことは、同じような反応で周囲の危機感を喚起する(「あぁ、でも撃つな」「血を流す必要はない」「子供達よ!」「女性を助けろ」など)。そして最後には、公式の代理人(「オランゴでは動物学者、「南京虫」では支配人)が同じ理由(「獣が、非常に興奮してしまいました」「虫けらが疲れています」)で見世物をやめる。どちらの場面の終わりでも、皮肉で慇懃な静けさ(「落ち着いてください。大丈夫です」)と教訓的な賑わい(「笑おう、笑おう、この面白い話を」)が要求される。

先駆けとなる他の文学作品は、雑種オランゴのイメージの中にも認められる。それは、イリヤ・セルヴィンスキイの悲劇58(1931)に登場するパオ=パオ(オランウータンと人間の雑種)や、M. A. ブルガーコフの小説「犬の心臓」(1925~1926)に登場する、輝かしくも無責任な科学的思考の人工的な産物であるシャリコフである59。しかしスタルチャコフとトルストーイは、ブルガーコフの「反乱」の直接的なアナロジーは危険だとして避けた。経験豊富な作家達は、国の社会政治的な風潮や、当時の科学の成果や傾向、そして祝賀の演劇を創作していた当時に広く世間で話題に上っていた新しい題材を考慮しただけでなく、これらを階級闘争の文脈で適切かつ「正しい色」に位置づけた。おそらく彼らは、純粋に文学上の問題だけではなく、現実的な問題にも影響された:新しい舞台音楽作品の燃えるような「同時代性」、民主主義的性格、そして政治的時事性は、大衆的な成功を確実にし、良い演目であることを保証した。着想は適切であった。というのも、それは1920年代の動物学と生物学が巻き起こした現実の劇的な出来事に対して、諷刺的な評価を与えていたからだ。当時、ブルガーコフの初期作品(「犬の心臓」「運命の卵」他)で芸術的に着想された「人工授精」「交雑」「交配」といった主題は、今日でもそうであるように真に衝撃的な視野を獲得し、科学者イリヤ・イヴァーノフの名と直接的に結びついていた

ある文献によると、「1926年2月、ソ連政府とソヴィエト科学アカデミーは、愛玩動物の人工授精の分野で著名な専門家であるイリヤ・イヴァーノヴィチ・イヴァーノフ教授(1870~1932)をアフリカに派遣した。旅行の目的は、人間の精子を用いてチンパンジーの雌に人工授精する実験を行うことであった。仏領ギニアのキンディア自治区にあるパリ・パストゥール研究所が最近設立したサル園で、異種交配が行われることになっていた。イヴァーノフの計画には、研究所長のエミール・ルルーと副所長アルベール・カルメットが協力していた。しかし数多くの障害のために…イヴァーノフは予定していた実験を全て行うことはできなかった。そのために彼は、人間と類人猿との雑種が誕生する可能性を「肯定」する確証も、「否定」する確証も得られなかった。1927年秋にソ連へ帰国する途上でイヴァーノフは、帰国したらすぐにスフミに設立されたサル園で実験を継続しようと考えた…しかし1930年12月13日、イヴァーノフは逮捕され、何年も監獄で過ごした後にアルマ=アタに追放され、そこで1932年3月20日に脳出血で早逝した60」。

イリヤ・イヴァーノフとA. O. スタルチャコフ、A. N. トルストーイ、そしてショスタコーヴィチとの間に、個人的な接触があった可能性については、情報がない。しかし「交雑」と「人間と類人猿との失われた環の追求」(このことについて、ヴェセリチャクはダーウィンの「それは見つかるんだ、畜生め!」という言葉を引いて熱烈にがなり立てる)という話題は、むしろ科学の専門出版物上で広く議論されていた。それらはまた、新聞報道にも入り込んだ61。作家やエッセイスト、当時「イズヴェスチャ」社のレニングラードの編集委員長を務めていたスタルチャコフのような広い情報網を持つ新聞記者は、文学作品を具現化するための日常的な材料(そして実際の検討)には不足していなかった。

ボリショイ劇場の告知によると歌劇「オランゴ」の下敷きとなったと言われる小説「アルテュール・クリスティの出世」は、まだ発見されていない。さらなる調査を行っても、実りがない可能性が極めて高い。1936年、スタルチャコフは「人民の敵」とされた後に拘束され、1937年5月には銃殺刑に処された62。彼の創造的遺産が抹殺され、忘却される運命にあったことは、当時のならわしからすれば当然のことである。スタルチャコフの文学作品は、2つの短編集(「広場の邸宅」(Leningrad, Moscow, 1930)および「言葉」(Leningrad, 1931))の形で現存している。しかしそれらの中に、「アルテュール・クリスティの出世」は見当たらない。しかしながら、短編集「広場の邸宅」には「アルベール・デュランの勝利」という非常に短い短編小説が収録されている63。この小説の題名は、パリの路上で売られている新聞「ソレイユ」の記者の名前である。情報提供者のおかげで、アルベール・デュランは発生学者エルネスト・グーローの衝撃的な実験のことを探り当てる。彼は、男性の細胞を使ってルースと呼ばれる類人猿の人工授精をしようとしている。デュランのスキャンダラスな読み物「サルの愛人」は、大衆、政治家、聖職者の間に憤りを巻き起こした。実験は中止され、科学者は追放され、パリの上流社会は新たなゴシップのネタを仕入れ、軽工業はお洒落な猿人のアクセサリーで活気づき、そしてデュラン自身はスキャンダルの絶頂にあって新聞記者としての輝かしい経歴を築いたのであった。

小説「アルベール・デュランの勝利」と歌劇「オランゴ」の筋は、概して異なっており、登場人物の名も異なっている。しかし似ている点はあり、それらを記しておく意味はある。小説と歌劇のどちらも、「交雑」の問題を扱っている。歌劇の告知で言及されている「ブルジョア報道機関に対する批判」は、物語の中に容易に認められる:オランゴは、デュランのように「素晴らしい新聞記者」であった。物語の出来事は、戦争後にオランゴも「戻った」パリで起こる。そして概して、雑種オランゴのイメージは物語の展開に関する考えに至っている。次のような疑問が生じるかもしれない:スタルチャコフの願望に従い、「道徳外の」実験はおそらく本当に成功した。そして歌劇は類人猿ルースの子孫の象徴的な運命について述べている。つまり、告知で言及されている小説「アルテュール・クリスティの出世」は、1930年に出版された小説の続編ではないのか?64

筆者が歌劇「オランゴ」について発見した史料について、確認しておきたい65。蔵書カードには「A. N. トルストーイ・A. スタルチャコフ,『オランゴ』,歌劇の台本[1930~1931]A. N. トルストーイによる修正加筆のあるタイプ原稿。12ページ」とある。しかし実際には、この手稿は2つの異なる文書から成っている。一つ目は歌劇の概要、いわゆるあらすじであり、1932年5月17日の契約に従い、作家たちが6月1日までに手渡すことになっていたものである。これは、歌劇全体の筋書きの概要が含まれた、唯一の文書である。二つ目は、プロローグのト書きもある完全な台本である。

最初の文書(概略)66は片面4枚(30.4×21)の紙にタイプ打ちされており、2人の共著者(A. O. スタルチャコフ(紫色のインク)とA. N. トルストーイ(黒と青の鉛筆))による修正が書き込まれている。標題は、スタルチャコフによって書かれている:「オランゴ/5幕の諷刺オペラ/台本:Al. N. トルストーイ・A. スタルチャコフ/音楽:D. ショスタコーヴィチ」。彼はまた、原稿の末尾に日付と自分の署名も書いている:「5/VI-32 AS」[アレクサーンドル・スタルチャコフ]。それはトルストーイによって何重にも取り消し線が引かれているが、にもかかわらず簡単に読み取ることができる。

原稿を分析することで、以下の事柄について結論を得ることが可能になる。それは第一に、それぞれの作家が筋書きの構成において果たした役割とその程度についてであり、第二には、彼らの推敲の手順(これによって、文書の日付が明らかになる)である。スタルチャコフの書き込みは、彼自身がタイプした文言についてのみ行われている:タイプミスの修正と、筋書きで不明確な箇所を説明するための多数の注釈、そして分かりやすくするための文言の加筆である。彼は、トルストーイの書き込みには一切修正を行っていない。

トルストーイの修正はタイプされた文章だけでなく、スタルチャコフがインクで書き込んだものにも行われている。彼らは単なる編集だけではなく、厳密に文学的な作業も行っている:トルストーイは、内容に影響を及ぼすような文言(人物名の変更から本質的に新たなフィナーレに至るまで)を書き加えている。つまり、トルストーイの修正は後で行われ、最終のものである。それは驚くようなことではない:スタルチャコフとの創作上の二重奏において、トルストーイは疑いもなく第1ヴァイオリンを演奏していたのだ67

この文書の作成は、以下のような手順で行われた。構想を練ったスタルチャコフが、幕毎の概要をタイプ打ちでまとめ、その末尾に日付と署名(5/VI-32 AS)を書き入れた。次に、拒否権を持つトルストーイにその文書が渡され、多くの修正と、数か所の変更を行った。文書はまだ編集した上で清書を作成する必要があった。スタルチャコフが書いた日付は「過ぎて」おり、トルストーイはそれに取り消し線を引いた。トルストーイが修正を行った後のスタルチャコフの文書は、以下の通りである68
オランゴ
台本:Al. N. トルストーイ・A . スタルチャコフ
音楽:D. ショスタコーヴィチ
  1. フランスの生物学者エルネスト・グーローは、人間の細胞を用いた類人猿の人工授精の研究をしている。
    彼は、最も人間に似ていたルースと呼ばれる類人猿を、実験対象として選択した。ルースは、幾何学的な図形を描くことができ、ピアノを演奏することができ、ナイフとフォーク、ナプキンを用いて食事をすることができる。
    女は、科学者とその娘ルネになついている。
    新聞記者アルベール・デュランは、計画中の実験についての情報を得る、彼は、グーローの生徒の一人からそのことを探り出した。科学者の家は、若者達の溜まり場であったのだ。
    新聞記者は女中を買収して、電気工の身なりでグーローの家に入り、ルースの存在を確かめる。
    デュランは、政治情勢を利用しようと決心する。彼が勤める新聞社は、王党派と聖職者の機関紙である。その新聞は、教授とルースが並んで立った写真付きで「サルの愛人」という読み物を掲載し、そのような実験が可能だと考える革新的かつ自由主義的な考えを持つ者達を批判する。
    右派と聖職者達は、議会で問題にする。大々的なスキャンダルが持ち上がる。特別な回書によって法王は、もしこの不信心な実験を決行するのならば、教会から追放するとエルネスト・グーローを脅す。
    教授の窓の下でデモが行われる。若者の中には教授に同調する者もいるが、他は敵意を示す。
    宗教担当大臣は科学者を呼び出して実験を諦めるように、そして内閣に問題を引き起こさないように要請し、そのように妥結した。
    しかし、グーローは秘密裏に実験を行った。科学のために。
    妊娠の最初の兆候が見られた時、彼はルースを彼の古い友人で南アメリカにいる生物学者ジャン・オルの元へと送る。
    彼からの手紙でグーローは、人間の女性に生まれた赤ん坊とほとんど違いのない男性の雑種が、予定日にルースに生まれたことを知る。
    友人との文通は数年間続き、ヨーロッパで世界大戦が勃発した1914年の夏に、そのやり取りは終わった。
  2. 戦争の間、エルネスト・グーローと、ソルボンヌの学生であった娘のルネは、反愛国主義の闘争活動に身を投じていた。彼らはクラルテ・グループに所属し、バルビュスやロマン・ロラン、ゴーリキイと近しい関係にあった。
    1918年、ドイツはコンピエーニュの森で降伏し、すぐにヴェルサイユで会議が始まった
    ある晩、何者かがエルネスト・グーローの家の扉を叩いた。それは、中背で額が狭く、長い手をして、マスタードガスと硝煙の臭いをさせた兵士のコートとヘルメットを纏った、がっしりとした男であった。
    その客人は、グーローに彼の古い友人であるジャン・オルからの挨拶状を渡した。そして特別な悲しみもなく、ジャン・オルが1914年秋に亡くなったこと、そして自分が彼の養子であることを話した。彼はこの4年間、文明化の名のもとにいかにドイツ人と戦ってきたか、そして戦争が終わってしまった今、どうしたらよいのか分からないと話した。
    エルネスト・グーローは、20年以上も経って戻ってきたルースの息子をまじまじと見つめた。彼は自分の娘を紹介し、物質的な援助を申し出た。
    しかし、ルースの息子を職に就かせようとする試みは、いずれも失敗に終わった。彼は稼ぎをつぎ込んで、パリの飲み屋を放浪した。
    そうした飲み屋の一つで、彼は「ソレイユ」紙の記者と知り合いになり、その記者は彼に自分の社で働かないかと持ちかけた。
    アルベール・デュランは、その新聞社の社長で編集者であった。彼は既にブルジョアジーの名士であり、名誉軍人爵位の騎士かつパリ中の新聞販売所の理事であった。彼はルースの息子に、有能さと自分の同僚となる素質を見出した。
    ジャン・オルの、あるいはオランゴの最初の輝かしいデビュー記事は、彼がヴェルサイユ会議で演説したドイツの服従に関するものであった。
    オランゴは向こう見ずにも、新聞紙上での恐喝と株式投資に没頭する。彼は、労働者の射殺を誘発したヌビアの銅の事情にも関係するようになる。アルベール・デュランは年老いていたので、オランゴは彼の近しい助手となり、終いには彼の地位に就く。
  3. オランゴは、自信を持って権力を振るう。彼の武器は、出版物と株式市場である。
    彼は共産主義を嫌悪している。彼は、内政干渉論者やテロリストを扇動する。彼はソヴィエト連邦に反対する急進的な運動の創始者である。彼は世論を明確にし、内閣を打倒する。彼は、デッテルディングと共に組合に入る。
    彼は、趣味と流行の審判者である。彼は模倣される。
    彼の富は、彼の政治的な影響力に伴って増えていく。ただ一つのことだけが、彼をいらいらさせている―彼はグーローの娘ルネを自分のものにしたいのだ。彼女は彼の悩みを軽蔑する。
    彼女の父とその友人であるフランス海軍の水兵(共産主義者)と共に、彼女は雑種に対して効果的な運動を始める。
    エルネスト・グーローは、もはや誰も知らない生物学者などという控えめな科学者ではない。彼は世界科学アカデミーの会員であり、彼は資本主義に反対し、労働者階級の裏切り者に対抗する共産党と共に、ソヴィエト連邦に賛同して、会議で演説をする。
    オランゴは、ソヴィエト連邦へ行く。彼は自分の全く知らない社会の新しい形を目の当たりにし、その創造の可能性を理解する。
    彼は、以前にも増して闘争心をかきたて、労働階級、共産主義、そしてソヴィエトに対して非常な復讐心すら抱くほどに憎しみを募らせた状態で、ロシアから帰国する。
    彼はロシアからの亡命者で、パリの高級売春婦であるゾーヤ・モンローズと結婚する。彼の新聞、彼の富は、国際的な反響を得る手段となる。
    歳月を経るにつれ、彼の顔に原始的な特徴がはっきりとしてくる。彼はだんだん、母ルースに似てくる。
    ある時、彼は道でルネに会い、彼女について教授の家に入り、ルネを力づくでものにしようとする。この場面の最中、彼の中の獣が目覚める。彼は教授の首を絞め、卒倒していたルネを抱きかかえて連れ去った。大スキャンダルが巻き起こり、オランゴはそれを抑えようとするが、何の効果もなかった。教授の文書、すなわちジャン・オルの書簡が公開されたことで、スキャンダルはさらに大きくなる。オランゴは、批判にさらされた。彼はカトリック教会に保護してくれるよう、救いを求める。彼は敬虔なカトリック教徒となり、相応の償いをすることで赦しを得た。
    しかし、世界恐慌が起こる。オランゴは破産する。法王は彼を拒絶する。オランゴは発狂する。彼は完全に類人猿へと変わる。ゾーヤ・モンローズは、彼をサーカスに売る。彼は檻の中で見世物になる…

  1. 詳しくは、M. Iakubov, “Unfinished Opera The Great Lightning”, p. 891.
  2. 十月革命に捧げられた記念作品の中で、報道は「V .A. Belyによる『西側と我々』についての交響的連作」に言及している(“Music for the 15th Anniversary of the October Revolution”, Rabochii i teatr, No. 6, 1982, p. 22)。
  3. 脚注7を参照のこと。
  4. 本稿で引用する「南京虫」の台詞は、以下からの引用である:[http://www.sovlit.com/bedbug/]および[http://www.amazon.com/Bedbug-Selected-Poetry-Vladimir-Mayakovsky/dp/0253201896#reader]。
  5. 「劇、あるいは劇的な詩『パオ=パオ』は、セルビンスキイが、1987年に雑誌『ズナーミヤ』で発表されるまで未出版だったブルガーコフの『犬の心臓』とは独立して創作した走馬灯的幻想である」と、評論家は書いた。「セルヴィンスキイの親族によると、彼はブルガーコフとは会釈をした程度の面識しかなく、部外者だったので禁じられた手稿を見ることはできなかった。しかし、これら2作品の状況設定の類似性は、驚くべきものである。それらは同じ現実、すなわち当時流布していた考え方から出発している。パオ=パオは、犬のシャリコフと同様に、実験用の類人猿が人間に変化したものである。ドイツの外科医シュルツが、死んだボクサーの脳をオランウータンに移植する。自分が人間社会に属していることに気付いた類人猿は、最初は資本主義社会の階段を順調に上っていく。しかし、最終的にソ連に行った後、彼は人生の哀しい意味を理解するに至る。シャリコフ(そしてオランゴ―O. D.)とは対照的に、パオ=パオは人々よりも理性があり、汚されていないのだ(A. Revieh, “A Generation Gray-Haired from Childhood”, in: I. A. Selvinsky, From Ashes, From Poems, From Dreams, Moscow, 2004, p. 18, in Russian.からの引用)」。
  6. オランゴは、1920年代から1940年代にかけての「雑種」および「実験の成果」に関する文学群を保管している。オランゴの中には、シャリコフやパオ=パオに加えて、アレクサーンドル・ベリャーエフやヘルベルト・Wellsの幻想小説などに登場する人物の性格も与えられている。1920年代末から1930年代初めにかけてソ連で広く刊行されていたWellsのいくつかの小説に、A. O. スタルチャコフによる序文がつけられていたことに注意しておく必要がある(以下の文献を参照のこと:H. Wells, Complete Collection of Fantasy Novels, in 15 vols., Vols. 6, 8, 10, 12, 13, ed. by M. Zenkevich, Moscow, Leningrad, 1929-1931, in Russian;同上, Collected Works, in 6 vols., 24 books, ed. by M. Zenkevich, Moscow, Leningrad, 1930, appendix to the magazine Vsemirnyy sledopyt, in Russian)。
  7. K. O. Rossiyanov, “Dangerous Connections: I. I. lvanov and Crossbreeding Experiments between Man and Humanlike Apes”, Voprosy istorii estestvoznaniia i tekhniki, No. 1, 2006, p. 3.からの引用。
  8. スフミのサル園における人間と類人猿との交雑実験の継続に関する報告は、以下の文献を参照されたい:“Ape Farm”, Izvestia, 13 August 1927(K. O. Rossiyanov, op. cit., p. 38.を参照のこと);“Expedition of Prof. Ivanov to Africa. Crossbreeding Experiments between Man and Apes (Conversation with Prof. Ivanov)”, Vechernyaya Moskva, 14 October 1925;“Expedition to South Africa: Artificial Crossbreeding Experiments between Apes and Man”, Vechernyaya Moskva, 24 November 1925;“Artificial Crossbreeding Experiments between Apes and Man. Expedition of Prof. Ivanov”, Izvestia, 21 May 1927. 他
  9. 以下の文献を参照のこと:G. A. Leskova, “Aleksandr Osipovich Starchakov”, in: Leningrad Martyrologist. 1937-1938: Memorial Book of the Victims of Political Repressions, ed. by A. Ia. Razumov, Vol. 4: 1937, Public Council: L. A. Bartashcvich, L. I. Buchina, N. B. Vakhtin, and others; Editorial board: E. V. Volsky, N. I. Dering, V. N. Zaitsev, and others, St. Petersburg, 1999, pp. 647-648 (in Russian).
  10. 以下の文献を参照のこと:A. Starchakov, “Albert Durand's Victory”, in: The Mansion on the Square [Short Stories}, Ogonyok Joint-Stock Company, Moscow, 1930, pp. 26-33 (in Russian). スタルチャコフの作品集と小説「アルベール・デュランの勝利」についての情報は、G. V. コピィトヴァによって発見され、筆者に提供された。彼女の寛大な援助に謝意を表する。
  11. 筆者はこの仮説を「ショスタコーヴィチ-2006:発見と知見」(サンクト・ペテルブルグ音楽院)というカンファレンスで2006年に初めて発表した(以下の文献も参照のこと:O. G. Digonskaya, “Shostakovich's Unwritten Operas (on the basis of two unknown author's manuscripts)”, p. 58)。
  12. ソ連科学アカデミー A.M.ゴーリキー記念世界文学研究所手稿部, rec. gr. 43, inv. 1, f. 474. 筆者は、この史料の同定に関する寛大な援助についてゴーリキイ記念世界文学研究所の手稿部の学芸員M. A. グリンスカヤに、ならびに出版の許可と多大な貢献について、著作権の相続人であるM. N. トルストーイ、手稿部の部長M. A. アイヴァジャン、現代ロシア文学部の部長N. V. コルニエンコ、研究所長でアカデミー会員のA. B. クデリンの各氏に感謝の意を表したい。
  13. 同上, sheets 1-4 of arch. pag.
  14. アレクサーンドル・スタルチャコフは、1937年に彼が死ぬまでアレクセーイ・トルストーイの共著者であった。彼らの創造的共同作業におけるトルストーイの主導的役割は、我々が知っているあらゆる契約書や共同原稿において、両者の名前が特徴ある「階層的な」形で記されていることに反映されている。トルストーイのイニシャルが両方とも記されている(A. N.;スタルチャコフの原稿ではAl. N.となっている)ような場合には、スタルチャコフのイニシャルは一つだけ(A.)である。著者のファースト・ネームと父称が記されている(アレクセーイ・ニコラーェヴィチ)場合は、共著者はイニシャルのみ(A. O.)である。同様に、トルストーイの名前が文中(あるいは草稿の表紙)で一つだけ(アレクセーイ)記されているときは、必然的にスタルチャコフはイニシャル(A.)である。つまり、トルストーイの名前は常に、スタルチャコフの名前よりも完全な形で記されている。この原則を変わらず厳守していることで、2人の文学的な地位に不案内な読者でも、実際の貢献の程度はともかく、少なくとも彼らの間に存在する役割分担を推測し、主導者を特定することが可能になるのである。2人の著者の苗字は文書の中で、アルファベット順ではなく「年齢」順(トルストーイ、スタルチャコフ)に並べられていることも、付記しておくべきだろう。
  15. 最小限の編集をした上で示す。

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genre : 音楽

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D.

NHK交響楽団第1734回定期公演

  • リャードフ:8つのロシア民謡、ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 L. スラットキン(指揮) (2011.9.21 録画 [NHK BSプレミアム(2012.11.11)])
録画はしていたものの、なかなか視聴する時間がとれずに、一か月近く放置してしまった。

L. スラットキンのショスタコーヴィチといえば、1980年代後半に集中して録音された4曲の交響曲(第4、5、8、10番)の立派な演奏を思い出す。これらはいずれも、ソ連崩壊前夜の“西側”的解釈は、『証言』史観に基づくハイティンクの全集録音の延長線上にありつつも、まさに絶頂期にあったセントルイス響の際立って高い機能性を存分に生かした、洗練された好演である。

その彼が、録音していなかった第7番を振るということで、20年前に夢中になってショスタコーヴィチの音盤を漁っていた時代の気分を懐かしみながら、新品のCDケースを開くような気持ちで録画を観始めた。

スラットキンの解釈は、番組冒頭のインタビューで述べていたように、レニングラード攻防戦を想起させるような仰々しいものではなく、極めて個人的な感情を慈しむかのように穏やかで味わい深いもの。それは驚くほど20年以上前の彼のショスタコーヴィチ解釈と変わっていない。しかし、スコアの仕掛けを鮮やかに暴き出すかのような現代風の演奏と比べると、いかにも穏当に過ぎて、穏当であること自体が新鮮だった当時と同じようにその解釈を受け入れることができないのは、時の流れの無常さといったところか。

もう一点。この種の解釈は、オーケストラの力量によってその成否がはっきりと分かれてしまうことが多い。TV放送の音質にハンデがあるとはいえ、トロンボーンとホルンをはじめとする金管陣の音程の悪さは、たとえば第3楽章のコラールの感興を少なからず削いでいたし、破綻こそないものの弦楽器の表現力には大いに物足りなさが残った。指揮者との相性もあったのかもしれないが、スラットキン往年の録音に聴かれた格調の高さが表出されるには至らなかったのは残念。

前プロのリャードフも、ほぼ同様の印象。ただ、N響にはショスタコーヴィチよりもこの曲の方が合っていたのか、陰影には乏しいものの、繊細な線が絡み合うようなアンサンブルをそつなくこなしていて、なかなか良かった。

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D.

ボロディーンQのハイドン&シェバリーン

  • ハイドン:弦楽四重奏曲第39番「鳥」、シェバリーン:弦楽四重奏曲第3番 ボロディーンQ (Melodiya D 06183-84 [LP])
Ars Antiqua / Mikrokosmos Mail Order Co.からの11月到着分。

ハイドンは、ドゥビーンスキイ時代のボロディーンQが到達していた境地を最良の形で聴かせてくれる快演。テンポをはじめ、楽曲解釈に際立って個性的な要素はないのだが、機能的に洗練されていながらもどこか野暮ったい、ボロディーンQにしか聴かれない魅力的な格好良さが全曲を通じて惜しみなく披露されている。これぞ一流のプロ、といった演奏。

シェバリーンの3番は、近代フランス音楽風の響きが印象的で、ミヨーの初期四重奏曲などを思い出す。響きの晴朗さとは対照的に、音楽の内容は必ずしも単純明快ではなく、師のミャスコーフスキイに通ずるものがある。そのバランスが最もよくとれているのが真に感動的な第3楽章で、長さにおいても内容においても全曲の中心と言ってよいだろう。今後も大衆的なレパートリーに定着するような作品とは思えないが、何とも忘れ難く印象的な佳品である。ボロディーンQの演奏は、非の打ちどころがない完成度。


theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Shebalin,V.Y.

O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(3)

3. 歌劇「オランゴ」のプロローグ:手稿の外観と年代特定


十月に向けたショスタコーヴィチの歌劇の構想に直接関係する、現存する音楽と文献の話に戻ろう。

博物館ファイルに含まれる個々の手稿38の中で、一つはその完全性と他と比べて大きいサイズであることで区別されている:それは4枚の大判で縁の広い両面の総譜用五線紙(37.2×44.1)であり、重ねてまとめられている。五線紙は標準的なものではなく、やや光沢があって黄色っぽく、商標はない。そして、まちまちの長さの五線が茶色で印刷されている(1ページ当たり35段)。自筆譜に標題は記されておらず、作曲家によるページ番号は振られていない。16ページ中13ページは、ショスタコーヴィチが青紫色のインクで書き込んでいる。書き込みは最初のページの1段目から始められており、13ページ目の中段辺りで終わっている。最終小節の終わりには二重線があり、この断片全体が構造的に完結していることに疑いはない。

手稿の状態は良好である:作曲家の書いた文字は容易に判別でき、五線紙の質も損なわれていない。五線紙には2つのはっきりとした垂直方向の折り目(一つは真ん中で折り曲げられており、もう一つはそれよりも少し右側である)がある。このことは、五線紙が一度以上折り曲げられたこと(そのサイズを考えれば驚くようなことではない)、そして折り曲げられた状態で保管されていたことも示している。最後の紙の裏面は、特に折り目に沿って非常に汚れている。紙の縁に沿ってしみやにじみがあるその汚らしい見た目は、手稿がしばしば汚れた面に置かれていたか、最後の紙の裏面が他の紙よりも擦られる機会が多かったのだろうとの推定を可能にする。最初の紙の右下の角は顕著に耳折れしており、2番目の紙の角はそれよりも綺麗な状態である。また、残りの紙はほぼ完全に綺麗なままである。作曲が完了した後で手稿がめくられることはめったになかったことが、あるいはあったとしても最初から最後までではなかったことが、明らかである。

この種類の五線紙は、ショスタコーヴィチの手稿の中では1930年代にのみ使われている。多くのスケッチが、この種類の五線紙を使って書かれている39。歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の第6~9場の総譜(1930~1932)40、歌劇「大きな稲妻」のピアノ・スコア(1932)41、24の前奏曲 作品34のスケッチ(1932~1933)42、ピアノ協奏曲第1番 作品35の第2~4楽章のスケッチ43、劇音楽「人間喜劇」のいくつかのスケッチと総譜の断片(1933~1934)44、「敵か味方か…」に基づく歌詞を持つタイトル不詳の作品のスケッチ45、映画音楽「司祭とその下男バルダの物語」の多くのスケッチ(1933~1935)46、交響曲第5番のスケッチ(1937)47、映画音楽「ヴォロチャーエフカの日々」の総譜(1936~1937)48などが挙げられる。

ここに挙げた全ての自筆譜の五線紙は、習慣的に真ん中で折り曲げられている。その内のいくつかでは、使い易さのために五線紙があらかじめ折り目に沿って半分に裂かれている。五線紙が折り曲げられた状態で束にしてショスタコーヴィチの住居内に積んであったこと、そしてショスタコーヴィチがそれを1937年の終わりに使い切ったことに、疑う余地はない49。その後、その五線紙は永遠にショスタコーヴィチの机からは消え去った。作曲家の後年の手稿に、この五線紙が使われている例はない。したがって発見された作曲家の手稿は、論理的に1930年代の物だと言える

自筆譜は、それまで知られていなかったショスタコーヴィチの舞台作品の断片(ピアノ・スコア)で、11曲(序曲と2曲のバレエの情景を含む)から成り、独唱者、一人のバレリーナ(自筆譜では、バレエ団という指示ではない)、合唱という編成である。「ピアノ・スコア」という語は、条件付きで用いられ得る。ショスタコーヴィチの自筆譜は、ピアノ演奏用の特別な編曲ではない。そして、ピアノという楽器の特質を十分に反映したものとはなっていない。作曲家は「伴奏」部分を、ピアノ・パートに類似した2段譜に書いただけなのだ。ただし、手稿の中に楽器の指示は書き込まれていない。楽譜の中身も、ピアノでの演奏のしやすさや重奏の論理の破綻を考慮していない、ほとんど2行のスケッチ的な貼り付けのようなものである:フレーズの終わりに現れる旋律の切れ目はたぶん、独奏楽器(オーボエが吹き終える!フルートが歌い終える!)や楽器群によるスコアの論理的な補完ではないかと思われる。表記もまた、スケッチ的なものである―急いで書かれており、小節線はフリーハンドで中途半端に引かれており、テンポと強弱の指示は大半が欠落している。音符のいくつかは、はっきりと判読することができない。声楽パートの下に書かれている歌詞も大急ぎで書かれており、文法上の規則に従っていない。最初のページには、空行を挟んで楽譜と文字との間に明らかな空白がある。すなわち、文字は3段の空行を空けて、縦線で明示された4段目に書かれている。手稿の他の箇所では、小節全体が不測の事情で欠落している。自分が書いたものを読者に読み易くするために、ショスタコーヴィチはそれぞれの節を書き込んだ後に空白の段を入れている。この表記法は彼の書き方の原則となっており、本質的には彼の自筆譜全てに見られるものである。彼が声楽曲(本作品を含む)において歌詞を歌のパートの上に書く際も、この同じ不変の原則に従っている50

筋書きの大まかな概要は、下に書かれた歌詞から推測することができる。外国人の一団が、ソ連にやってくる。労働者―かつての奴隷のような労働者(「労働は呪いだ、奴隷の不幸な運命だ」)ではなく、現在の自由な労働者(「恐ろしくも輝かしい闘いの中で、奴隷は自らの祖国を見つけた…解放された労働者階級が、その祖国の名前である」)―を賛美する合唱の後、登場人物の一人であるヴェセリチャク(司会者)が、アマチュアの一座による出し物で客人達を歓待し始める。出し物の中には「世界の八番目の不思議」と言われる、バレリーナのナスチャ・テルプシホロヴァによる踊りが含まれている。しかしプログラムの目玉は、猿人オランゴである。オランゴとは、もう一人の登場人物である動物学者の説明によると「ナイフとフォークを使って食べ、鼻を鳴らし、原初的なリズム「チジック=ピジック」をピアノで奏で、『ヘ‐ヘ‐ヘ』と言う」生き物である。動物学者の命令で、オランゴはその能力を客人達に披露するが、皆が楽しんでいる最中に突然、彼は外国人のスザンナに攻撃的な叫び声を上げながら駆け寄る (「あああ赤毛のああああばずれめ!ひひひ引き裂いてやるぞ!グルルル…」)。この後に、典型的な「認識の情景」が続く:外国人達は次々に、オランゴの中に自分の夫(または恋人)、息子、兄弟、生徒の姿を認める。オランゴが生物学的な実験の結果生まれた雑種で、かつては優れた新聞記者だったことが明らかになる。日々の政治的な誤りの影響で、彼は最終的に動物になってしまい、モスクワのサーカスに売られたのだ。歌劇の断片の最後の場面は、オランゴが落ちぶれていった過去の経緯―「いかにして尋常ではない雑種オランゴが出現し、戦争に参加し、パリへ戻り、何をして、何が起こったのか? どうしてソ連に行ったのか、どのようにして人目にさらされたのか、どのように結婚したのか、誰が、何が彼を壊したのか、いかにしてГОМЭЦ(国立音楽・演劇・サーカス団体連合)の長が彼をハンブルクで150ドルで買ったのか、についての興味深い話」―を全員が演じる準備が整ったところで終わる。訓戒風の合唱が「…猿人の手で人生を何とかしようという無駄な試みを」笑うように誘う。

ここで自筆譜は終わっている。しかし、文学的な内容と獣風の「主人公」の名前は、この自筆譜を A. O. スタルチャコフとA. N. トルストーイの台本に基づく諷刺オペラ「オランゴ」のプロローグ(あるいは第1幕)として特定することを可能にする51

上述したように、ショスタコーヴィチはボリース・アルカーノフがアルバート・コーツの厚意で彼のために調達した「ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社」の五線紙(ベルリン製)を用いずに、特殊な35段の五線紙の方を好んだ。「オランゴ」の作曲を始める前に、彼はこの五線紙を歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の第3幕に使っており、さらにその前には「オランゴ」の密接な先駆けである未完の歌劇「大きな稲妻」のピアノ・スコアにも用いている52。「ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社」の五線紙は、2つの自筆譜でのみ使われている。ただし、それは1932年ではなく1934年である:映画音楽「女友達」作品41の前奏曲の1曲(トランペットとオルガンのための)のスケッチと、交響曲第4番 作品43の第1楽章のいくつかのスケッチである53。この五線紙の残りがどうなったのかは、分からない。

  1. ショスタコーヴィチの未発表の手稿の多くが、グリーンカ記念国立中央音楽文化博物館(ГЦММК)で名づけられないままにされている。それらについて筆者は、「博物館ファイル」という仮の名をつけて科学的検証を行った。0. Digonskaya, “Shostakovich's Film Music: Unknown Author's Manuscripts”, Muzykalnaya akademia, No. 2, 2006, pp. 92-96.および、同, “Shostakovich's Unknown Author's Manuscripts at SCMMC”, in: Shostakouich - Urtext, Edited and compiled by M. P. Rakhmanova, Moscow, 2006, pp. 144-169 (in Russian).を参照のこと。
  2. D.D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 1, section 1, f. 10, sheets 40, 42-49 of arch. pag.
  3. РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 2, f. 34.
  4. ЦМБ(中央音楽図書館), VII 1 III-798, inv. No. 20854.
  5. РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 2, f. 17.
  6. D.D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 1, section 1, f. 93.
  7. РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 3, f. 33a, sheets 25 and 44; D.D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 1, section 1, f. 262, and others.
  8. D.D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 1, section 1, f. 278.
  9. ГЦММК, rec. gr. 32, f. 113.
  10. РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 1, f. 6, sheets 4, 4rev., and 5.
  11. ГЦММК, rec. gr. 32, f. 102. 作曲家は、総譜に映画の原題「極東」を書いている。
  12. 詳しくは、0. Digonskaya, “Shostakovich's Unknown Author's Manuscripts at SCMMC”, pp. 159-161.
  13. 「ショスタコーヴィチは、彼の常として伝統的な方法とは異なり、独唱者の段の下ではなく上に歌詞を書く(A. I. Klimovitsky, “Igor Stravinsky and Dmitri Shostakovich: Orchestrations of Beethoven's and Mussorgsky's ‘Song of the Flea’”, in: Dmitri Shostakovich: Research Studies and Documents, Edited and compiled by L. Kovnatskaya and M. Iakubov, Iss. 1, Moscow, 2005, p. 134, in Russian.からの引用)」。
  14. 現在は参照番号がある:ГЦММК, rec. gr. 32, f. 2164. 「オランゴ」の自筆譜の発見と年代特定について詳しくは、以下を参照のこと:0. Digonskaya, “Shostakovich's Film Music: Unknown Author's Manuscripts”, p. 93;同, “Shostakovich's Unknown Author's Manuscripts at ГЦММК”, pp. 158-163;同, “Shostakovich's Unwritten Operas (on the basis of two unknown author's manuscripts)”, pp. 47-58. 1986年、M.A. ヤクーボフはショスタコーヴィチの創作構想の中に歌劇「オランゴ」があったことについて、雑誌「Rabochii i teatr (No. 18, 1932)」に掲載された告知によって得られた情報(引用元は明示せず)を用いて言及した:「A. トルストーイとA. スタルチャコフの台本(A. スタルチャコフの小説『アルテュール・クリスティの出世』による)に基づく諷刺オペラ(‘政治的な諷刺’)『オランゴ』は、1920年代末から1930年代初めに構想されたショスタコーヴィチの舞台音楽の中で『都会主義的』なものに分類できる…(“...I Tried to Convey the Fervour of Struggle and Victory...” Introduction, publication, and comments by M. Iakubov, Sovetskaya muzyka, No. 10, 1986, p. 55.からの引用)」。文中、ヤクーボフがスタルチャコフの名前を二度に渡って誤記し、歌劇「オランゴ」を正当な理由なしに都会主義的だとし、ショスタコーヴィチが1920年代末に抱いた歌劇の構想の一つとして誤った位置付けをしていることがわかるだろう。
  15. M. A. ヤクーボフは「歌劇[大きな稲妻]の仕事は、1932年の秋よりは前に中断されたことになる」と「確信を持って」推定している(M. Iakubov, “Unfinished Opera The Great Lightning”, p. 392)。しかし、より正確な日付の確かな根拠がある。「大きな稲妻」の自筆譜の表紙には、特定されていない何者かが「1932年6月11日受領(ЦМБ, VII I III-798, inv. No. 20853. 筆者は、この情報を提供してくれたG. V. コピィトヴァに感謝する)」と書いている。この表記が、ショスタコーヴィチが作曲を最終的に断念した後でのみなされたことは明らかである―未完の自筆譜が「保存のために」保管庫に提出された際に書かれたと考えられる。このことは、歌劇の作曲が1932年6月11日より前に中断されたことを意味する。
  16. 筆者によって発見され、年代特定された。現在、それらには参照番号がある:ГЦММК, rec. gr. 32, f. 2253(映画音楽のスケッチ)、2156 (交響曲のスケッチ)

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プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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