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O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(5)その2

以上のように、例外を除いてほとんど全ての場面において、単語やフレーズの順番の変更からそれらの総数に至るまでの相違がある。主な相違点は、以下の通り:
  • 台本には舞台演出の詳細や舞台装置についての記述が含まれているが、ショスタコーヴィチ版にはそれらがない。
  • 他の相違点に加えて、台本には「南京虫」への仄めかし(「この世の不思議」のリストにおける「モスクワには、もはや南京虫はいません」という台詞や、「106歳」の一節)がない(ただし、「ベロモルカナルの話題」はある。これは政治的に妥当であり、同時代の読者にとっては不吉なものであった)。
  • バレリーナのナスチャ・テルプシホロヴァ(ショスタコーヴィチ版)が、台本では「イヴァーノヴァ22世」と改名されている79
  • 台本では、発生学者のアルマン・フルーリ(エルネスト・グーローでもある)80がオランゴの父親であるという驚くような告白がなされている。それはショスタコーヴィチが楽譜の中に書き込んだテキストにはなく、せいぜいがあらすじの文脈の中で推測できるに過ぎない。
  • 最大の違いは、プロローグのフィナーレにある。台本はより長大で構造的に複雑であり、ショスタコーヴィチ版はより簡潔で構造的に精巧かつ形式的である。作曲家はヴェセリチャクの主張「笑い声、笑い声、笑い声とは何でしょうか?」を完全に無視しており、バス独唱から短いが効果的な歌を奪っている。また、ショスタコーヴィチは、俳優達に「歴史的な」お面を手渡す際のヴェセリチャクの台詞に注意を払っておらず、オランゴの生涯における闘争のリストを短くすらしている。さらに彼は仰々しい最後の合唱を削除し、忠告するような感じの愉快な斉唱「笑おう、笑おう」で幕を閉じている。
ショスタコーヴィチが楽譜の中に書き込んだテキストと台本との相違の理由は、何なのだろうか?理由の一つは、作曲家自身が表現している意図の中から探られるべきだろう。自筆譜に認められる言葉を短くする傾向や、笑い声(犬の吠え声に似た)81に関するヴェセリチャクの「アリオーソ」の意図的な削除は、真に諷刺的かつモーツァルト風の衝動的な所作を達成したいという願望の証しではないだろうか?もう一つの、そして非常に重大な理由は、1932年7月の改訂である。このことについては、ゴーリキイにいたA. N. トルストーイが妻N. V. クランジェフスカヤに宛てた同年7月23日の手紙から明らかである:「非常に重要:もしショスタコーヴィチがデーツコエ[サンクト・ペテルブルグの近郊]にいるなら、会いに行って、台本の始めの部分に変更があると伝えてくれ。台本は、今送るべきだろうか?それとも、8月に帰宅してからの方がいいだろうか?82

手紙の引用部分は、歌劇「オランゴ」の名を直截的に出してはいない。しかし、トルストーイがそれについて述べているということは明白である:「オランゴ」の執筆の主要な部分は、契約に従って1932年夏には出来ていた。トルストーイは、劇全体の台本が完成していて、変更を行ったその最初の部分について手紙で言及しているのか、それとも劇中の特定の部分(プロローグ)について言及しているのかについては何も語っていない。劇全体がこのような短期間に完成されることはないので、手紙は明らかにプロローグにのみ当てはめられ、自筆原稿がこのことを裏打ちする。タイプされている頁のページ番号が3~7である(ページ番号もタイプされている)ことから判断すると、台本には1~2のページ番号が振られた頁(おそらくは、トルストーイが妻に「台本の始めの部分」と書いた部分)も含まれていたと考えられる。改訂すると決めると、トルストーイはタイプ原稿の最初の2ページを抜き取り、って手書きの3ページを挿入し、混乱したページ番号を修正したので、原稿は1ページ分長くなった。トルストーイは手紙の中で言及していないが、プロローグを締めくくる最後の合唱の歌詞は、この時に同じ黒インクで書かれたことも明らかである。

プロローグの開始部分と終結部分におけるテキストの差異の性質から判断すると、ショスタコーヴィチは原文、すなわちまだトルストーイによって修正される前のテキストに基づいて作曲したと考えられる。このことは特に、ショスタコーヴィチの自筆譜にはフィナーレの祝祭的な合唱が欠けていることから明らかである。この合唱は明らかに当初は想定されていなかったが、後で構想の中に加えられたものである。最初の合唱の場面には、視覚的な差異もある。テキストは、いくつかの行において順序の変更はなされているが、作曲家による任意の侵入(追加!)は場外されている。つまり、ショスタコーヴィチが、初稿の歌詞を使ったと考える方が容易である。「この世の不思議」についても同じことが言える。ショスタコーヴィチが、これを修正する極めて個人的な理由があったとは思われない。一定以上の意思が必要な、国家が経済的および社会的に達成した事項の面白おかしいリストをまとめる作業は、2人の作家(作曲家ではなく)に可能であった。加えて、作曲家には「アゾフ海の稲作地帯」(台本)を「クバンの稲作地帯」(自筆譜中の歌詞)に自身の決断で変更したり、「数千の新しい都市」という大まかな表現をより確かな「280」という数値に修正したりする、いかなる創造的な動機もなかった。また、おそらく1932年の時点で、彼はベロモルカナル建設に隠された真の悲劇のことは知らなかっただろう。このことは、彼がそれをテキストから削除する理由はなかったということを意味する。つまり、彼は単に異なる、すなわち修正前のテキストに対して作曲したのだ。このことは、1932年5月17日に作曲家と交わされた契約に記された台本の締め切り起源によっても、間接的に示される。8月1日までに完成したピアノ・スコアをボリショイ劇場に提出するために、6月20日あるいはその少し後でプロローグ(第1幕)の台本を受け取った後、ショスタコーヴィチは直ちに作曲し始めなければならなかっただろう。この出来事、すなわち7月中旬に音楽の草稿を書き上げた後でのみ、彼は劇場の要求、つまり草稿を「インク書きで、より鮮明に…」(契約書の第5項)清書するという契約を遵守して8月までにピアノ・スコアを準備することができた。なぜなら、清書のためには草稿が必要だったからだ83

トルストーイが台本にあまり多くの変更を加えていないことを、見て取ることができる。文面の修正は、おそらく舞台演出にあまり意味を持たなかっただろう。どの場合においても、「オランゴ」の自筆譜は、ト書きに対する作曲家の知識を説得力を持って示しており、「修正の場」の様相を呈している。最初の合唱の場面で突然鳴り出すファンファーレは、間違いなく次のテキストに対応する音楽である:「トランペット奏者は、舞台上でトランペットを吹く。トランペットが合唱をかき消す」。これは、唯一の例ではない。台本作家達が心に描いた「オーケストラは、金切り声のような和音を奏でる」もまた、それに相当する音楽を獲得している。そしてもちろん、ショスタコーヴィチは(これもまた台本の指示に従って)アマチュアの一座の俳優達が登場する際の行進曲も導入している。この一座は、「過去に起こった出来事のお面」をまだ装着していない。彼らには、オランゴについての、無邪気な笑いや邪悪な諷刺、ぞっとするようなグロテスクさ、犯罪、血、そして情熱に満ちた印象的な話を「演じる」時間がなかった。

ショスタコーヴィチは、台本の編集に直接関わったのだろうか?また、実験科学者イリヤ・イヴァーノフの真に劇的な運命によって台無しにされた、この幻想的な物語を作り上げる過程に、彼はどのように関係したのだろうか?「ムツェンスク郡のマクベス夫人」第3幕の作曲で忙しく、それまでは請け負ったオペラの台本が出来上がるのを待っていた作曲家が、文学上の作業を見守り続けたのだろうか?契約に書かれたように彼らの作業を調整するためには、作曲家と台本作家は個人的に会って、全てについて話し合わなければならなかっただろう。したがって、ショスタコーヴィチは台本の最新の進捗状況に遅れないようにする必要があった。さらに、彼はおそらく、少なくとも筋書きを固める段階で、文学上の作業に積極的に関与したものと思われる。また、それ以外の関与を期待することは難しいだろう。オペラの基本的な文学的原則に対するショスタコーヴィチのよく知られる厳格な態度は、いつも台本の創作に対して積極的に関与すべく彼を駆り立てた。ただし、その構想が音楽表現に値すると感じた場合のみではあったが。まだ青年であった頃、彼は初期の歌劇「ジプシー」の台本を、自分の好きな文句をプーシキンのテキストに付け加えながら、自身で編集した84。彼は、歌劇「鼻」の台本作家の中に、アレクサーンドル・プレイスとエヴゲーニイ・ザミャーチンと共に名を連ねた。そして、プレイスと協力して歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の台本を書いた。1930年代初めに彼が諷刺オペラ(「最も面白いのは、それが笑劇で始まり、血まみれの悲劇で終わることだ」85)を書こうと計画したとき、ショスタコーヴィチは自分自身でそれを考え出し、それから細部に渡って物語を熟考した:「私は、このオペラについて長い時間をかけて考えてきた。そして、自由になる時間が出来た隙に、その筋を最後まで全部考えた。今は、詳細に細部を詰めている。それから、スコアに進むことができる…」86 死の直前に「肖像画」(ゴーゴリ原作)や「黒衣の僧」(チェーホフ原作)に没頭した(それらが完成することはなかった)ショスタコーヴィチは、台本制作において最も積極的な役割を果たした(ただし、「黒衣の僧」の概略は、彼の妻イリーナ・ショスタコーヴィチが参加して先にまとめられていた)87。このオペラの経験に基づき、ショスタコーヴィチにはよくあることだったが、作家達と作曲家の協同に関する契約条項を心に留めていて実際に共同作業をしたという事実だけでなく、作曲家が作家達の仕事を何らかの方法で手助けしただろうことが確信されよう。しかし、「オランゴ」の筋書きにおける目に見えぬ彼の存在を示す、より重大な事実がある。

1929年、フセヴォロド・メイエルホーリドの示唆により、ショスタコーヴィチは「南京虫」上演のための音楽を作曲し、しばしばマヤコーフスキイと会った。劇場との創造的な協同が成功したという事実は彼を喜ばせたものの、演出家であり作家である彼に対する態度は長年に渡って矛盾していた。成人になるとショスタコーヴィチは悲劇的な運命を辿った傑出した同時代人に対する自身の意見を和らげたが、1930年代の初めは若さゆえの妥協の欠如(そしてそれは彼自身の性格でもあった!)により、彼は辛辣で痛烈に嘲るような批判を控えることはなかった88。では、「オランゴ」とマヤコーフスキイの戯曲との間に明白な文学的対話は、偶然の一致とみなされるべきなのだろうか?それは、作曲家の知識と関与なくして実現し得るのだろうか?現地のバレリーナの踊りで縁取られたオランゴが群衆の前に姿を現す場面は、思い出して欲しいのだが、マヤコーフスキイの(そしてメイエルホーリドの?)「南京虫」の明らかなパロディーである。合唱の馬鹿笑いの中には、その場面の持つ二次的な性格に対する嘲笑は認められるが、若きショスタコーヴィチが「南京虫」における尊敬すべきパートナーに対してとっていた冷酷な態度は感じられない:低音で馬鹿笑いする支配人、すなわち司会者ヴェセリチャクと「世界の八番目の不思議」(「ナスチャ・テルプシホロヴァ」という気取った芸名を持つ自作のプリマ)の形象の中に、メイエルホーリド、ジナイーダ・ライヒ、そしてマヤコーフスキイを見ることができるだろうか?

「オランゴ」の筋書きを規定する、類人猿と人間とを交雑させるという噂と「失われた環」を探し求めることにまつわる考えは、1932年5月17日の契約書に署名するよりもずっと前から、ショスタコーヴィチにとって馴染みがあったという証拠もある。 既に述べたように、これらの考えは1920年代の中頃から終わりにかけてマスコミで議論された。その結果、将来行われる実験の伝道所たるスホミ・サル園は、その設立後すぐに、旅行者の団体が押し寄せる場所になった。「多くの労働者の一行と学校が、この新奇な施設にやってくる」と、ある新聞は報じた。「そこは、訪問者の一人の喜びにあふれた表現によれば…『空気自体が、ダーウィニズムと同化しているように思えます』」89

ショスタコーヴィチもまた、この空気を吸ったのだ。明らかになったように、彼はスフミのサル園を訪問し、自分の眼で将来の「新人」の親になりうる生き物を見、おそらくは「新奇な施設」の応用科学的な意味について説明員の話を聞いたのではないだろうか。彼はこの訪問について、同じ日(1929年7月8日)にグダウタから送った2通の手紙に書き記している。

彼の母親であるソフィヤ・ヴァシーリェヴナに宛てた手紙で、ショスタコーヴィチは、黒海への旅行を短く述べた(「ヤルタ[6時間]、ノヴォロシィスク[12時間]、ソチ[4時間]、トゥアプセ[5時間]を見て回りました)際に、自分が立ち寄った観光地の一つとして挙げている:「スフミで半日を過ごしました。サル園を訪れました」90。明らかにショスタコーヴィチは、この宣伝された「流行の」場所の訪問を、言及するに値するものとみなしていた。ある資料によると、1929年の夏に「スフミにはただ一人の青年男性がいた。ターザンと呼ばれる26歳のオランウータンである。同じ頃、イヴァーノフは実験への参加を志願するレニングラードの若い女性からの手紙を受け取っていた。『思い切って、あなたに申し入れの手紙を書かせていただきます』と、彼女は1928年3月16日辺りに書いた。『私は、あなたが人間の精子を用いた類人猿の人工授精についての実験を行ったものの、実験は失敗したことを、新聞で読みました。この問題は、長く私の関心を引いてきました…どうか、私の申し出を拒否しないでください。実験に関するあらゆる要求に、喜んで従います。受精は可能であると、固く信じています』。しかしイヴァーノフはこの女性に対し、1929年8月31日にレニングラードから次のような返信(電報によることは明らかである)をしなければならなかった:『オランウータンが死にました。代わりを探しています』」91。したがって、1929年7月の初めにスフミのサル園を訪れた時、ショスタコーヴィチはまさに「オランゴ」を見る(あるいはその死に際して、話を聞く)機会があったのだ。そしてイヴァーノフに手紙を書いた女性と同様に、それ以前に交雑の実験について「新聞で」読む機会もあった。

イヴァーン・ソレルティーンスキイに宛てたもう一通の手紙では、ショスタコーヴィチはそれほど簡単には済ませていない:「…ヤルタにいます。何とかしてチェーホフのダーチャを見ることができ、彼の姉妹M. P. チェーホヴァにも会えました… 次にセメント工業の故郷、ノヴォロシイスクを訪れました。この街には、自慢になるような物は何もありません… ノヴォロシイスクでは、10時間に渡って蒸気機関車が止まりました。映画館に行き、「最後の人」を観ました… それから、トゥアプセとソチに立ち寄りました。お話しするほどの物は何も見ませんでした。スフミでは、サル園を見ました(斜体は筆者による-O. D.)。グダウタでは、海と太陽、そして山以外に見る物はありません」92

このように、ショスタコーヴィチは見る価値のあった全ての観光地について、あるいは価値があまりなかったということについて(「お話しするほどの物は何も見ませんでした。」)ソレルティーンスキイに語っている。しかしながら、母親に宛てた短い手紙と同様、彼はこの手紙の中で「お話しするほどの」観光地にスフミのサル園を挙げている。彼にとって「お話しするほどの」のことには、奇人(巨人ティモフェーイ・バフーリンと小人ポリーナ・ノヴィコヴァ)を見物したこともあった。彼らについて、ショスタコーヴィチは1929年7月3日の手紙でソレルティーンスキイに語っている:「今日、私はセヴァストーポリに到着し、観光地を回りました。私は『全景』、半島、巨人T. バウーリン(バフーリン)、そして世界で最も小さい婦人P. ノヴィコヴァなどを見物しました。出し物は10分間続きました。その内の8分はキエフの教授による講演の抜粋を読み上げるのに費やされました。残り2分は、バウーリンとノヴィコヴァが自分達の写真を売りました」93

おそらく、スフミのサル園から受けたこれらの印象と交雑の考え、そして自然の摩訶不思議の結果の入り混じったものが、後に「オランゴ」の台本に反映したのであろうか?また、ショスタコーヴィチは台本の制作において、単にあらすじのレベルでのみ積極的な役割を果たしたのだろうか?ショスタコーヴィチが描写する「生ける見世物」が(「キエフの教授」の科学的知見の解説付きで)公衆の面前に披露される場面は、既に上演までされていた「南京虫」の場面と、まだ存在していない「オランゴ」の場面との類似性に思い至らせてくれる。オランゴのお披露目にあたっては動物学者の「科学的な」講義が先に行われ、スクリープキン(プリスィプキン)のお披露目にあたっては、群衆から「教授」と呼ばれる(「教授よ、やめさせろ」)支配人による講演が先に行われる。ショスタコーヴィチの音楽を付けたメイエルホーリドの「南京虫」の初演は、それほど前ではない1929年2月13日に行われており、マヤコーフスキイの戯曲から受けた作曲家の印象は、まだ記憶に新しかった。「生ける見世物」で場面を彩り、ソレルティーンスキイに宛てた手紙の中のいくつかの記述で物語ったのは、これらの印象だったのではないか?そしてショスタコーヴィチはそれを3年の後に喜びを持って思い出し、「オランゴ」の台本作家達に話したのではないか?

ショスタコーヴィチがこの物語作りに関心を持っていたという、別の証拠がある。L. V. シャポーリナの日記には、ショスタコーヴィチが単に「オランゴ」を気に入ったのではなく、それに夢中になり、自分でその音楽を書きたがったという、直接的な記述がある。ガヴリイル・ポポーフの日記には、このことの間接的な解釈が含まれている。ポポーフの辛辣な記述によると、ボリショイ劇場によって告知された「諷刺的オペラ」は芸術家の世界に対する感性の深さと矛盾を反映し得る、そして1930年代と生涯を通じた創造の道程でショスタコーヴィチを特に魅了し続けた悲劇的笑劇へと変わった。彼は、このジャンルでは悲劇的諷刺である「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を作曲した。そして1934年にはこのジャンルで、人民の意志派運動のメンバーについてのオペラを書き始める(「笑劇で始まり、血まみれの悲劇で終わる」)94。研究者達はまた、ショスタコーヴィチが最初に完成されたオペラである「鼻」のジャンル的曖昧さについても指摘した95。何年も後の1963年、イサーク・グリークマンによると、作曲家はレトリックや熱情を排したいつもの調子で、芸術における「高尚」と「低俗」(悲劇と喜劇)を混ぜ合わせることへの自分の偏愛を、自身の音楽を例にとって考察している:「D. D. は、第13交響曲のフィナーレをいかに気に入ってるかを語った:『その中にあるどたばた喜劇と高尚さとの組み合わせを、私は好みます。それが、この音楽を気に入っている理由です』」96。つまり、1932年に、当初はスタルチャコフの文学的構想の中に見出された表現の機会(「喜劇と高尚さとの組み合わせ」[笑劇と悲劇])を、彼は無視することができただろうか?あり得ないだろう。ショスタコーヴィチが見事に相反するジャンルを持つ物語に音楽を作曲すること(そしてこのことは、作曲家に創造的な経験を積む想像もできない機会を与えてくれる)に非常に興味を抱いたと考えることは容易である(そしてこのことは、ここまで見てきたように、同時代人達の証言によって確認されている)。

最後に、ショスタコーヴィチが台本の細部に影響を及ぼしたことの、純粋に音楽的な証拠がある。それは第一に、彼が自由なオブザーバーの役割であることに満足したくはなかった、そして第二に、現実的な落としどころを追求したが故である。

6月5日(まだトルストーイに修正される前の、スタルチャコフによる「オランゴ」のあらすじのタイプ原稿が書かれた日付であることに留意されたい)までに、ショスタコーヴィチは歌劇「大きな稲妻」の構想を破棄していたと考えられる97。しかし、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の作曲(第3幕のスケッチと総譜)は、佳境に入っていた。もし作曲家が、自身で大切にしていた考えに心を奪われると共に厳しい締め切りに束縛されて、当初は契約したオペラの作曲に非常に忙しく関わっていたとしても、誰も驚かないだろう。

そして実際、1930年代における彼の典型的な手法であった「自作からの借用」(ローレル・フェイが適切に称したところによれば「自己量産化」)98の経験に基づき、ショスタコーヴィチは「オランゴ」の中に、演奏会のレパートリーになり損なった作品からの音楽を取り入れた。初演(1931年4月8日、ГАТОБ)後にレパートリーからはずされて新聞で批判されたバレエ「ボルト」からのいくつかの音楽が、「オランゴ」に使われた。オペラの序曲は、バレエからそのまま借用された。オペラの中で「地方のプリマバレリーナのナスチャ・テルプシホロヴァ(イヴァーノヴァ22世)」が演じる「平和の踊り」は、「ボルト」の終曲の音楽(「ブジョニイ第1騎兵団」「全員の踊り」「アポテオーゼ」)に基づく。「オランゴ」の元となった二つ目の音楽は、レビュー「条件付きの死者」(1931年)である。この作品は、少なくとも2ヶ月(1931年10月2日から11月末まで)はレパートリーに残った。たとえば、ショスタコーヴィチは「大道芸人」と「ウェイトレス」を最初は歌劇「大きな稲妻」に流用し、それを破棄した後、すぐに「オランゴ」に流用した…

このように多くの「自作からの借用」は、現実主義が時にショスタコーヴィチの内なる芸術家と入れ替わり、締め切りと日銭のために創造的な独自性を犠牲にしたのではないかという、衝撃的な結論につながるようにも思われる。しかし、この場合、「大きな稲妻」の「アメリカ人との情景」(「条件付きの死者」の「大道芸人」)の音楽が、「オランゴ」では雑種と彼の前妻とがスキャンダラスな喧嘩をする、すなわち「外国人との情景」に当てられているという事実を、どう解釈することができるだろうか?

筆者は、別の仮説を立てたい。「オランゴ」を作曲している時、ショスタコーヴィチは「やらねばならぬ」と決めてかかって他の作品から不適当な音楽の断片をねじ込むような、寄せ集めをしたりはしなかった。それどころか彼は、この構想についての職業的な要求や考えを満たすべく既に書かれていた様式上統一のとれた音楽と調和するように、物語や台本の細部に示唆をした。実のところ、作家の金庫から探し出された「オランゴ」の台本と「備えの音楽」との芸術的に目指すところが非常に一致していたので、作曲家が他の作品からの曲で置き換えることに無頓着で、特に妥協することもなかったという仮説を主張することは、単なる思い付きでないのではないか?異なる作品の音楽があるオペラの特定の劇構成と絡めることによく(偶然に!)「適する」ことが、そして全体に損害を及ぼすことなしに形式の異なる位置に恣意的に突っ込まれ得るようなことがあり得るだろうか?筆者は、あり得ないと考える。それはこれが、「十月の束の間のお祝い」ではなく、作曲家が「ムツェンスク郡のマクベス夫人」で既に探求し「練り上げた」ジャンルである、しっかりとした悲劇的笑劇、悲劇的諷刺に関する問題だからである。ショスタコーヴィチが、オペラに含めたい場面の種類を台本作家達に同時に話したか、彼らと定期的に議論したかのいずれかであることは明白である。このようにして、「脚本が音楽に適した形になるよう」と契約に書かれた作業が調整された。

「大きな稲妻」の台本は、未だに発見されておらず、器楽による「アメリカ人との情景」の内容は分からないが、舞台上の動きという点で、スザンナとオランゴとの暴力行為とあまり違わないものであったことに疑いはない。ショスタコーヴィチは、あらかじめこのことに留意していた。

もう一つの、さらに生き生きとした例がナスチャ・テルプシホロヴァ(イヴァーノヴァ22世)による「平和の踊り」である。プロローグに注意深く書かれたト書きは、踊りの詳細な内容を記述している:「刈入れ人の踊り。観衆は踊りに引き込まれる。その踊りは、赤軍の男の踊りに、そして水兵の踊りに変わっていく。合図。全軍の踊り。雷鳴。全力をふるう。踊りの大詰め-友好。歓喜。イヴァーノヴァによる鎌を持った踊り。彼女は、葡萄の房を刈り取る。彼女は、鎌を空中に投げる。虹が現れる。絶頂の踊り」(斜体は筆者による-O. D.)。ショスタコーヴィチ自身がこれらの内容を台本作家達に示唆したことに、疑う余地はないだろう。軍隊の主題を含む壮大なバレエの場面が、「ボルト」と同じような「軍隊的な」音楽(「赤軍の男の踊り」)によってオペラで演じられ、バレエの「全員の踊り」と「アポテオーゼ」(「絶頂」と「アポテオーゼ」が同義語であると、作曲家は当然のように考えていた)がオペラの終幕の「絶頂の踊り」に一致するという仰天するような事実は、ただこのことによってのみ説明され得る。つまり、ショスタコーヴィチの要求で台本作家達が「音楽に対する」踊りを考案したのであり、その逆ではないと考えるのが理にかなっている99

プロローグの一種のライトモチーフとなっている「チジック=ピジック」もまた、ショスタコーヴィチによって「オランゴ」の台本に導入されたことは明白である。作曲家は平凡さと原始的なものの具象としての「チジック=ピジック」の主題に、「オランゴ」のすぐ前に書かれた「条件付きの死者」の「十二使徒」(No. 33a)と呼ばれる小品の主題を引用している100。雑種は「お披露目の場面」で、それを一本指で(そしてもちろんハ長調で!)演奏し、プロローグの最終場面(「笑おう、笑おう」)はそれに基づいている:ヴェセリチャクの滑稽な部分と合唱のエコーにおいて、歌の抑揚は薄められて不明瞭にされているものの、間違いなくそれと分かる。プロローグは、「この面白い、オランゴと呼ばれる猿人の話を」という嘲笑の唱和をもって、ハ長調で終わる。しかし、ショスタコーヴィチは音楽を作らなかったが台本にはある、フィナーレに先立つ「犬の笑い声のアリオーソ」(とりあえずこのように呼ぶことにする)は、いやに楽天的で滑稽な終わりに新たな含蓄を加えている。「『チジック=ピジック』の主題に対する犬の吠える声」(ノミのワルツとよく似ている)と解釈されるフィナーレの笑い声と、遡って「お披露目の場面」での群衆の吠え声のような馬鹿笑いは、「二重の嘲笑」という不思議な効果を作り出している:オランゴに対する笑い声は、嘲笑した者達に対する作者の笑い声へと変化する(「嘲笑に対する嘲笑」)。そしてその者達は、ブルガーコフの「犬の心臓」のシャリコフとほとんど同じ雑種なのだ。


  1. この改名(仮にショスタコーヴィチが自分で提案したのではなかっとしても)に、ショスタコーヴィチが強く反対したということはないだろう。同じ名前の人物に番号を与えるという芸術的な慣行に伴う効果のために、「イヴァーノヴァ」というごくありふれた名前を用いることは、滑稽さに加えて、ショスタコーヴィチの郷愁も駆り立てた。たとえば、彼が若い頃にバレエに熱中していた時に、ヴァレリアン・ボグダーノフ=ベレゾーフスキイに宛てた手紙の一つは、バレエ界のアイドル達の名前(M. A. コジュホヴァ、A. D. ダニーロヴァ、T. A. トロヤノフスカヤ、ロプホフ2世(!))で満ちている。彼女らの間で、イヴァーノヴァ2世も言及される:「ロプホフ2世が『Doll Fairy』のロシアの踊りをいかに踊ったかを覚えておいてください。…若きダニーロヴァ、イヴァーノヴァ2世、トロヤノフスカヤを覚えておいてください。彼女らがいかに素晴らしいかを、書き尽くすことができません」(L. Kovnatskaya, “Shostakovich and Bogdanov-Berezovsky (the 1920s)”, in: Shostakovich Between a Moment and Eternity: Documents, Information, Articles, Edited and compiled by L. G. Kovnatskaya, St. Petersburg, 2000, p. 44, in Russian.からの引用)。友人への手紙と歌劇「オランゴ」との間の10年で、もう一人の(架空の)バレリーナ、イヴァーノヴァが少なくとも22世になっていたことは、驚くことではない!
  2. このように、台本作家達はオペラの筋書きを練っていく過程で、発生学者エルネスト・グーローの名前をアルマン・フルーリに変更しただけでなく、彼の人生も創作した。この筋書きの変更(雑種にあやうく絞殺されそうになった主要な証人の、突然の登場)は、観客と一緒に、その「深淵」を覗き込む準備ができた過去の出来事に関わる全ての登場人物が舞台上に集まるという、プロローグ(そして恐らくはエピローグ)の構想によって必要になったものと考えられる。このことから、オペラの内容が我々の知らない別の変更に発展しているかもしれないと考えることができるだろう。
  3. プロローグにおける予期せざる、そして表面的には動機のない「犬の主題」の侵入(「あらすじ」のテキストに留意されたい)は、「オランゴ」とミハーイル・ブルガーコフの「犬の心臓」(当時は発禁処分を受けていた)との対応関係を強めている。
  4. S. M. Khentova, Shostakovich. His Life and Creative Work, Vol. 1, Leningrad, 1985, p. 362 (in Russian).からの引用。手紙の日付は以下の文献で明らかにされている:V. Petelin, The Fate of an Artist, Moscow, 1982, p. 388 (in Russian). S. ヘーントヴァはこの手紙に基づき、ショスタコーヴィチは1932年の夏に「アレクセーイ・トルストーイと同時代のテーマについての台本に関する話し合いを始めた」だけであり(同書)、7月までは台本の中身自体は知らなかったと結論付けている。実際には、1932年7月に(あるいは、7月までに)ショスタコーヴィチは「オランゴ」のプロローグの音楽を書き終えていたと思われる。
  5. 全てのことから判断して、ショスタコーヴィチは「オランゴ」の完全に揃ったピアノ・スコアを書いてはいない。またスコアを書き始めてもいなかった。このことの根拠がある。歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、「鼻」(РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 2, f. 31)および「賭博師」(ГЦММК, rec. gr. 32, f. 261)のスケッチの余白には、後で行われる作曲の別の段階を示す楽器配置に関する数多くのメモがある。楽器配置に関するメモは、完成したか否かを問わず、ショスタコーヴィチの全ての交響作品のスケッチにある。「オランゴ」のスケッチにこの種のメモがないことは、おそらく作曲が極めて初期の段階で中断されて続けられなかったことを示している。このことはまた、1932年5月17日にボリショイ劇場と交わした契約書の最終頁にある、作曲家への毎月の支払い(800ルーブル)についての会計係のメモ書きによっても間接的に示される。最後のメモには6月30日の日付がある:3月8日に契約(デミャーン・ベドニイの「鍵」)が結ばれた時から、計4回の支払いがなされた。しかし、このことは1932年7月までにショスタコーヴィチが「オランゴ」の作曲をやめてしまったことを意味するのだろうか?トルストーイの手紙と、特に作曲家に対するГАБТからの10月11日の通知書(毎月の支払いを停止する旨)は、この結論と矛盾するように思われる… 筆者は、さらなる情報を求めるために、この疑問を公けにしておく。
  6. オペラの3つの場面の自筆譜は、以下に保管されている:РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 1, f. 55. 他の7曲の自筆譜は、G. V. コピィトヴァによって発見された (St. Petersburg, State Museum of Theatrical and Musical Art, ГИК (State Museum of Cinematography) 16827/2)(詳しくは、以下を参照のこと:G. Kopytova, “D. D. Shostakovich's Youth Opera The Gypsies”, Muzykalnaya akademia, No. 3, 2008, pp. 56-67, in Russian)。
  7. S. M. Khentova, In Shostakovich's World, Moscow, 1996, p. 306 (in Russian).
  8. 同上。
  9. 以下の文献を参照のこと:O. G. Digonskaya, “Shostakovich and The Black Monk”, Muzykalnaya akademia, No. 4, 2006, pp. 73-74 (in Russian).
  10. たとえば、ショスタコーヴィチがイヴァーン・ソレルティーンスキイに宛てた1928年1月10日、1929年7月18日、1935年12月21日の手紙を参照のこと(D. D. Shostakovich, Letters to Ivan Sollertinsky, pp. 26-27, 43-44, 181)。
  11. Sovetskaya Abkhazia, 18 May 1930(0. Shishkin, Red Frankenstein: The Kremlin's Secret Experiments, Moscow, 2003, pp. 292-293, in Russian.からの引用).
  12. St. Petersburg, State Museum of Theatrical and Musical Art, rec. gr. 12, No. 200, ГИК 16814/37, sheet 1. 筆者は、この手紙について話してくれたG. V. コピィトヴァに対して感謝の意を表する。
  13. K. O. Rossiyanov, op. cit., pp. 38-39.からの引用。
  14. D. D. Shostakovich, Letters to Ivan Sollertinsky, pp. 40-41.からの引用。
  15. 同上, pp. 38-39.
  16. 以下の文献を参照のこと:0. Digonskaya, Shostakovich in the Mid-1930s: Opera Plans and Creations, pp. 48-60.
  17. 以下の文献を参照のこと:A. V. Bogdanova, Shostakovich's Opera Theatre, Moscow, 2006, p. 37 (in Russian).
  18. I. D. Glikman, Journal IV, entry of 30 March 1963 (D. D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 4, section 2, f. 4). グリークマンの日記は筆者によって判読済みで、出版準備中である。
  19. 脚注52を参照のこと。
  20. L. E. Fay, “Mitya in the Music Hall”, Muzykalnaya akademia. No. 4, 1997, p. 61.
  21. 後にこの音楽は、バレエ「明るい小川」の収穫祭の干し草の山と草刈りの鎌を背景とする「山の原住民とクバンの男の踊り」で演奏されることとなる。
  22. 以下の文献を参照のこと:M. A. Iakubov, “Comments”, in: Dmitri Shostakovich. New Collected Works, Vol. 54, Hypothetically Murdered, Op. 31, The Great Lightning, Sans op., p. 403.
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【YouTube】スヴィリードフ:さまようロシア(管弦楽伴奏版)

YouTubeで、スヴィリードフの傑作歌曲集「さまようロシア」の面白い動画を見つけた。Ragnar Søderlindというノルウェーの作曲家が、スヴィリードフのピアノ伴奏を管弦楽編曲したものである。オーケストラは、スヴィリードフにとってはショスタコーヴィチのムラヴィーンスキイ/レニングラードPOに相当するフェドセーエフ/モスクワ放送SO。

グジョフの独唱も含めて、ロシアの土の香りが漂うスヴィリードフならではの旋律線を情感たっぷりに歌い上げる演奏には不満がない。ただ、オブラスツォーヴァ盤で聴かれるスヴィリードフ自身のピアノに比べると、この演奏の方がよほど精度が高くしかも洗練されているのに、伴奏の色彩感は逆にピアノ版に劣る。大編成のオーケストラを惜しげもなく使った編曲ではあるが、技術的に音色の多彩さを作る類の音楽ではなく、むしろ武骨なまでの素朴さこそが求められる音楽なのだろう。

オーケストレイションに不満は残るが、名曲の貴重な動画ということで、一聴(一見)の価値はある。

1. 秋2. 愛する故郷を後にして
3. 守護天使よ、門を開けよ4. 光り輝く銀色の道
5. さまようロシア6. シモンよ、ピョートルよ…どこにいるのだ?こちらへ来てくれ
7. お前はどこにいるのだ、父祖の家よ…8. 銀河の丘の向こう
9. 宿命のラッパが鳴り響く、鳴り響く10. フクロウは秋に鳴く
11. おお、私は信じている、幸福はあるのだと12. おお祖国よ、幸せで永遠の時よ
グジョフ (B) フェドセーエフ/チャイコーフスキイSO

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『ウィーン・フィルとともに ワルター・バリリ回想録』(音楽之友社, 2012)

間もなく大学2回生になろうとしていた1991年の春、ウェストミンスター・レーベルの数々の名盤が初CD化された。西部講堂のすぐ横にあったひどく古い、それでいて妙に品揃えの良かった大学生協の店舗でベートーヴェンとモーツァルト、そしてシューベルトの弦楽四重奏曲全集を喜び勇んで予約したことが懐かしく思い出される。この時のCD化は盤起こしで、後年に発掘されたマスターテープからCD化されたものとは音質に格段の差はあるものの、なけなしのアルバイト代をつぎ込んで買い求めた音盤は、今でも大切に棚に並べている。

それより少し前、まだ高校生だった頃に読み込んだ大木正興・大木正純著『室内楽名曲名盤100』(オン・ブックス, 1983)で頻繁に目にした「バリリ」という名のヴァイオリニストのついに聴くことのできた演奏の数々は、LPですら入手が容易でなかった時期に募らせた期待をはるかに凌ぐ、極めて魅力的なもので、何度聴いても飽きがこないどころか、聴けば聴くほどこれ以外にあり得ない(でも、どうしたって真似できない)という圧倒的な(彼の音楽にはあまり相応しくない形容!)説得力に満ちていた。このようなモーツァルトを奏でることができたバリリあるいはバリリQとは、どんな人だったのか?彼がコンサートマスターを務めたウィーン・フィルについての文献は少なくないが、彼個人についての情報は思うように見つけられないままであった。

その渇きを癒してくれる本がついに出た。本文186ページで2,520円(税込)という価格には割高感が拭えないが、彼の演奏あるいは弦楽四重奏を愛する者ならば、やはり一度は目を通しておかねばならないだろうと、意を決して購入。

僕が音盤を通して親しんだ時代のウィーン・フィルについては、バリリQのメンバーでもあり、バリリの先代の楽団長でもあったシュトラッサーの『栄光のウィーン・フィル』(音楽之友社, 1977)という大部の名著がある。これに比べると、バリリの自伝は記述の分量も詳細度も随分と劣るが、それは本書がある特定のテーマに集中して書かれているためであり、その点においてはシュトラッサーの本を補って余りある充実した内容である。

そのテーマとは、敗戦を迎えた1945年4月にソ連軍から身を守ろうとした“地下避難”前後の記録を頂点とする、バリリが生まれ育った時代のウィーン社会の描写である。生々しく詳細な当時の日記は時代の貴重な証言であり、本書を音楽書の範疇に括るのを躊躇させるほど。

自身の楽歴については、わりと淡々とした調子で事実が書き連ねられている印象。おそらくは完全に網羅されているであろうバリリQのメンバー変遷については、少なくとも日本語では初出の情報で史料的な価値が高いが、それ以外に関してはバリリQの世界ツアーに際してのエピソードの数々が興味を引くくらいで、全体としては驚くほど“自慢”の少ない自伝である。その虚飾のない客観的な筆致には、バリリ本人の気高い誇りが、その音楽と同様に上品に込められているように思われる。

特筆すべきは、掲載されている写真の質。ほとんどがバリリが個人で所有している写真なのだろうが、世界最高のオーケストラのリーダーが生きてきた時代の息吹を生き生きと伝えてくれるものばかりで、眺めているだけで脳内にあの美しい音楽が再生される。

やはりお買い得とは言い難いものの、訳文も読み易く、よほど関心の方向が違わない限り、広くお薦めしたい一冊である。

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バーンスタインの還暦記念アルバム他

  • チェーザレ:ラ・ヒエロニマ、グアンゲーヌ:コンチェルト、ショスタコーヴィチ:24の前奏曲より第13~15番、J. S. バッハ:コラール前奏曲「われを憐れみたまえ、主なる神よ」 、ヴィヴァルディ:ソナタ ホ短調、スノン:祈り ドゥエー (Tb) グアンゲーヌ (Org) (Disque Corelia CC 78030 [LP])
  • A 60th Birthday Salute to Leonard Bernstein バーンスタイン/ニューヨークPO他 (Columbia AS 493 [LP])
Ars Antiqua / Mikrokosmos Mail Order Co.からの12月到着分。

金管楽器奏者については不案内なため、ドゥエーの名をインターネットで検索してみると、様々な楽曲のトロンボーン用編曲の編曲者として少なくない数の情報がヒットした。結局のところトロンボーン奏者としての評価はよくわからなかったが、聴き手を圧倒するような輝かしさはないものの、柔らかく伸びやかな音色は十分な魅力を有している。オルガンとの組み合わせも素晴らしく、この編成ならではの調和した響きには、凡百のヒーリングミュージック以上の癒しを感じる。アルバムの選曲においても楽器の特性が考慮されており、トロンボーンという楽器を味わうに不足のない内容である。


バーンスタインの還暦記念アルバムは、てっきりファン筋では有名な音盤だと思っていたが、インターネットでざっと検索してみても目ぼしい情報に当たらなかった。もっとも、語りの部分はともかく、収録されている演奏はいずれも既発売の音源のようなので、よほどのファン以外の関心を引かないということもあるだろうし、敢えて紹介するほどの内容ではないということなのかもしれない。アルバム内容は、以下の通り:
【A面】
  • CBS Music(E. ローレンス指揮)
  • 自身の音楽人生を語る
  • 交響曲第1番「エレミア」
  • 「オン・ザ・タウン」
  • 「ウェスト・サイド物語」より「シンフォニック・ダンス」
  • ビゼー:「アルルの女」第2組曲より「間奏曲」のリハーサル
【B面】
  • 芸術と政治を語る
    • コープランド:バレエ「ビリー・ザ・キッド」
    • ショスタコーヴィチ:交響曲第7番
  • 「ペンシルヴェニア通り1600番地」より「このハウスを大切にしましょう」
  • ミサ曲より「神は言われた」
  • 作曲中の作品について
  • 「チチェスター詩篇」第1楽章
適当なタイミングでアナウンサーのナレーションが入り、ラジオ番組のような構成になっている。内容を見れば一目瞭然、バーンスタインが自身を指揮者ではなく、作曲家として強く意識していることがよく分かる。

本盤をオーダーしたのは、いうまでもなくB面に収録されたショスタコーヴィチに関する講演目当て。CBSテレビで放送された1959年のソ連公演のドキュメンタリー番組の一部分のようだが、この講演自体がソ連で行われたものかどうかは、手持ちの情報だけでははっきりと断定できない(ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください)。この時のモスクワ公演では、「答えのない問い」(演奏前に解説した上で“アンコールに応えて”二度演奏した)や「春の祭典」を演奏したコンサートが一種のスキャンダルを引き起こしたとして語られることが多いが、ショスタコーヴィチの交響曲については、演奏したのが第5番なのか第7番なのかも情報が錯綜している有様で、この辺りはいつかきちんと整理しておきたいところではある。

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ショスタコーヴィチ:室内交響曲(カントロフ指揮)など

  • ショスタコーヴィチ(バルシャーイ編):室内交響曲、シューベルト(マーラー編):弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」 カントロフ/オーヴェルニュCO (Denon 33CO-1789)
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第15番 シュラー/シカゴSO (1979.12.6~8 放送録音)
  • 名古屋フィルハーモニー交響楽団第288回定期演奏会(チャイコーフスキイ(バルシャーイ編):弦楽四重奏曲第1番より「アンダンテ・カンタービレ」、ショスタコーヴィチ(バルシャーイ編):室内交響曲(弦楽四重奏曲第4番)、ショスタコーヴィチ:交響曲第5番) バルシャーイ/名古屋PO (2003.1.25 録画 [CBC])
私が公開しているショスタコーヴィチのHPは、基本的には自分自身のために情報を整理しているという意味合いが強い。不特定多数に公開している結果として、見知らぬ誰かにとって何らかのお役に立っていることもあるのだろうが、掲載している情報に対する指摘や新たな情報提供など、公開しているメリットも主として私自身が最も享受していると実感している。

中でも、私が見つけられずにいる音盤や書籍に関する情報提供は少なくなく、そのいずれもが私にとって有難いものであることは、今となってはこのHPの存在意義もそれほどなくなっていると思いつつも、漫然と維持し続けている大きな動機であったりもする。

昨年末、それまでにも何度かやり取りのあった方から、私が所有していないCDを中古屋で見つけたとのメールを頂戴した。その方のご厚意で、当該音盤を確保して頂くと同時に、その方が所有されていた録音および録画を視聴させて頂く機会に恵まれた。ここに深謝の意を表すると共に、せっかくなので簡単な感想を書き留めておきたい。

カントロフ/オーヴェルニュ室内Oのアルバムは、確か『ショスタコーヴィチ大研究』(春秋社, 1994)巻末のディスコグラフィに掲載されていたものの、今に至るまで店頭で見かけることのなかった音盤。率直に言ってそれほどの期待感もなく、積極的に捜索に乗り出してこなかった(というより、念頭になかった)こともあり、未入手のまま放っていたもの。一聴して、その怠惰と不見識を猛省。録音当時(1987年)としては相当に進歩的な、現代の演奏流儀に近いアーティキュレイションや音色へのこだわりを持った美演である。併録の「死と乙女」と同じアプローチでショスタコーヴィチをまとめあげていることは、現在ではさして驚くほどのことではないが、まだソ連が健在で、体制寄りの解釈でも『証言』的な解釈でも、おどろおどろしいアクの強い押しつけがましさを持った演奏が主流だった当時において、この種の「純音楽的」な演奏を自然体で実現していたことは、驚異的な先見性と言って過言ではないだろう。良い意味で期待を裏切られた。


シュラーの放送録音は、冒頭に1973年にシカゴで行われたショスタコーヴィチのインタビューの一部が収録されている(これは、ノースウエスト大学の名誉博士号を授与された際に行われた)。この演奏自体は1979年とクレジットされているので、この時の演奏というわけではない。初演からそれほど時間の経っていない演奏ということもあり、楽曲の賑やかさや楽しさといた側面に解釈が偏っていることは否めないが、逆にそれゆえに屈託のない陽気な音楽に仕上がっているとも言え、先入観に囚われていると見過ごしがちな作品のある面を再認識させてくれるという点で、とても面白い演奏であった。

バルシャイ/名フィルの録画は東海地方ローカルでのみ放映されたものであり、寡聞にしてこのような番組があったことすら知らなかった。演奏そのものは、オーケストラの技術的な制約がバルシャイの音楽的な意思と折り合いがつかない箇所も少なくなく、録画で視聴する分には必ずしも手放しで絶賛できる仕上がりとは言えないが、団員の集中度あるいは燃焼度はカメラ越しでもよく伝わってくるので、おそらく会場では舞台から放出されるエネルギーに圧倒されたことだろうと、当日の聴衆を羨ましく思う。この番組の最大の見どころは、ドキュメンタリー部分。バルシャイのインタビューは、他の機会に彼が語っていることと共通している内容が多く、そこに新味を感じることはないものの、リハーサル時の映像が惜しみなく収録されているところが極めて貴重で素晴らしい。バルシャイの指示は技術的な観点のものが多く、捉えようによっては、名フィルの技量に不満を持っているように感じられなくもないが、そうした技術的な細々とした指摘こそがバルシャイの音楽の本質だと私は考えるので、このリハーサルの断片は音楽家バルシャイの姿を見事に捉えた映像だと感じ入って観た。

結局のところ、一人で蒐集し得る情報には限りがある。インターネットでの僅かな情報発信を契機に、多くの同好の士と交流できることは、望外の喜び。皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます。

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O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(5)その1

5. ショスタコーヴィチと脚本家達:脚本への関与の程度


さて、いわゆる「歌劇『オランゴ』の台本」とみなされる二つ目の史料に戻ろう。それは「アレクセーイ・トルストーイ・A. スタルチャコフ/オランゴプロローグ」と記されている75。この文書は、紙質も大きさも異なる8枚の紙片に書かれた、トルストーイの自筆草稿およびタイプ原稿である。原稿の内容は、歌劇「オランゴ」のプロローグの台本全文である。それは、ショスタコーヴィチの自筆譜にある歌詞と同一ではない。分かりやすくするために、両者を表にして示す(最小限の編集を施している)。トルストーイの手書き部分は、斜体で示す:


ショスタコーヴィチトルストーイ



アレクセーイ・トルストーイ・A. スタルチャコフ


オランゴ
[序曲]プロローグ



序曲。幕。背景は、ソヴィエトの宮殿の荘厳な輪郭画。舞台の後方は、階段の踊り場。そこには、街の明かりで輝く背景に対面して、衛兵の像が立っている。宮殿のガラスの壁を通して、満員の円形劇場が見えている。合唱とオーケストラも、そこにいる。合唱の一部は、階段の踊り場に立っている。前方には、広々とした演壇がある。数台の食卓。



人々は、あちらこちらを歩き回っている。



宮殿内と会談の踊り場で、人々は歌っている。




バス労働は呪いだ。合唱パンは、呪詛で塩辛い。

奴隷の不幸な運命だ。
それは、敵意と共に飲み下された。



牡牛と人間は、永遠に



同じだ。

鉄のベルトは解き放たれ、
鉄のベルトは解き放たれ

黒の覆いはほどかれ、
黒の覆いはほどかれ、

奴隷のシャツは捨て去られた。
奴隷のシャツは捨て去られた。

灰に、
灰に、

塵と灰に
塵と灰に

焼かれた、
焼かれた

囚われの世紀は。
囚われの世紀は。
合唱灰に、

塵と灰に


焼かれた


囚われの世紀は。





バス恐ろしくも輝かしい闘いの中で
恐ろしくも輝かしい闘いの中で

奴隷は自らの祖国を見つけた。
我々は自分達の祖国を見つけた…

労働者を呪うものは、
労働者を呪うものは、

労働者を捕えるものは、
労働者を捕えるものは、

取り除かれ、
取り除かれ、

消え去り、
消え去り、

古いおとぎ話、
古いおとぎ話、

悲しい真実の物語となったのだ。
悲しい真実の物語となったのだ…




合唱労働者を呪うものは、


労働者を捕えるものは、


昔のおとぎ話、


悲しい真実の物語となったのだ。





バス解放された労働者階級が
その祖国の名は

その祖国の名である。
解放された労働階級、である。

国土を飾ろう、
国土を飾ろう、

春の衣服で、
春の衣服で、

太陽が織り成す
太陽が織り成す

光の衣服で。
光の衣服で。

理性で、光で、
理性で、光で、

聡明な喜びで


国土を飾ろう。
国土を飾ろう…




合唱国土を飾ろう、


春の衣服で、


太陽が織り成す


光の衣服で。


理性で、光で、


聡明な喜びで


国土を飾ろう。





(トランペット奏者は、舞台上でトランペットを吹く。トランペットが合唱をかき消す。人々は、演壇に歩み寄る。



ヴェセリチャクが演壇の上に現れる。彼はポスターを指さす。)
ヴェセリチャク次の出し物です。どうぞ、ご覧ください!有名なオランゴ、猿人をお見せいたしましょう。ヴェセリチャクどうぞ、ご覧ください!(机に座っている外国人達に向かって)こんばんは、外国の人民の皆さん。私どもの祝典はお気に召しましたでしょうか?さて、次の出し物―有名なオランゴ、猿人をお見せいたしましょう。
合唱オランゴ、オランゴ!(群衆の中から)オランゴ…オランゴ…
外国人1是非とも猿人を!さあ、珍しいものを見せてくれ。外国人1(机に座って)是非とも猿人を。珍しいものを見せてくれ。
外国人2名高い珍品の一つと聞いているぞ。外国人2名高い珍品の一つと聞いているぞ。
ヴェセリチャク我々の地には数多くの珍しいものがありますよ。アルハンゲリスクからバクーにかけて並ぶ1万の油井、ヴォルガ川の下流にあるカムイシン・ダム、クバンの30万ヘクタールに及ぶ稲作地帯、7年制の教育。280の新しい都市、フランツ・ヨーゼフ耕作地の温室、数千万キロワットの出力を持つアンガラ川の水力発電所。モスクワには、もはや南京虫はいません。ヴェセリチャク我々の地には数多くの珍しいものがありますよ。(早口で)アルハンゲリスクからバクーにかけて並ぶ1万の油井、カザフスタンの太陽エンジン、ヴォルガ川下流のダム、[取り消し線:アンガラ川の水力発電所、アゾフ海の稲作地帯。この代わりに以下が挿入されている:ベロモルカナル[白海・バルト海運河]、7年制の学校]。クズバス(クズネツク)やマグニトゴルスク、数千の新しい都市、フランツ・ヨーゼフ耕作地の桃、モスクワ港…

わかっておりますよ。椅子に座ったままで、不思議なものを見たいのですよね。我々のバレエ団のスター、世界の八番目の不思議、ナスチャ・テルプシホロヴァが踊りを披露させていただきます。彼女がつま先で立つと、106歳の老人も踊り始めるのです。さあどうぞ、音楽を。
わかっておりますよ。椅子に座ったままで、不思議なものを見たいのですよね…(踊り場を指さす。そこに、イヴァーノヴァ22世が姿を現す。)さあどうぞ、音楽を、イヴァーノヴァ22世です。
合唱ナスチャ、どうぞ。[取り消し線:ナスチャ、ナスチャ…どうぞ、どうぞ…]イヴァーノヴァ22世…
ヴェセリチャク平和の踊りです!ヴェセリチャク平和の踊りです。
ナスチャ[踊り]イヴァーノヴァ(刈入れ人の踊り。観衆は踊りに引き込まれる。その踊りは、赤軍の男の踊りに、そして水兵の踊りに変わっていく。合図。全軍の踊り。雷鳴。全力をふるう。踊りの大詰め―友好。歓喜。[“ナスチャによる”に取り消し線が引かれ、“イヴァーノヴァによる”が挿入されている]鎌を持った踊り。彼女は、葡萄の房を刈り取る。彼女は、鎌を空中に投げる。虹が現れる。踊りは最高潮に達する。)

ヴェセリチャクお気に召しましたか?ヴェセリチャク(外国人達に向かって)皆様、喜んでいただけましたか?
外国人1面白くなかったね。外国人1面白くなかったね。
外国人2この音楽は、耳に向かって15年間もきしり続けているように聞こえるぞ。外国人2この音楽は、耳に向かって15年間もきしり続けているように聞こえるぞ。
ヴェセリチャク私は困惑しておりますよ、ご客人!もう少し穏やかに、もう少し優しく、指揮者同志よ…皆様は、子守唄をご所望だ…ヴェセリチャク私は困惑しておりますよ、ご客人!もう少し穏やかに、もう少し優しく、指揮者同志よ…皆様は、子守唄をご所望だ…眠りに誘ってくれるようなものを。

[オーケストラは、金切り声のような和音を奏でる。]
(オーケストラから、金切り声のような響きがする。)
合唱オランゴ、オランゴ、オランゴを見せてくれ!オランゴ、オランゴ…オランゴを見せろ…
ヴェセリチャクオランゴ…皆さんは「オランゴ」とおっしゃる。でも、それがどんなものかはご存知ないでしょう。オランゴは猿人の生ける例なのです。それは人間と類人猿、ピカントロプスとの失われた環です。このことについて、偉大なダーウィンはこのように言っています:「それは見つかるんだ、畜生め!」ヴェセリチャクオランゴ、オランゴと皆さんはおっしゃる。でも、それがどんなものかはご存知ないでしょう。オランゴは猿人の生ける例なのです。それは人間と類人猿、ピカントロプスとの失われた環です。このことについて、偉大なダーウィンはこのように言っています:「それは見つかるんだ、畜生め!」



(数名の軍人が、図表を持ち出してくる。年配の動物学者が数枚のチョコレートを持って登場する。彼の後ろから洗練されたヨーロッパ風のスーツ76を着たオランゴが入ってくる。)


ヴェセリチャクこの美男をご覧あれ。


ひどい、ひどい、獣だ。

動物学者手足の長さと顔面角、動物学者手足の長さと顔面角、

牙と体毛の存在…
牙と体毛の存在…

木のブロックで彼の頭を叩くことができます。でも
木のブロックで彼の頭を叩くことができます。でも

全くダメージはありません。彼の頭骨は固いのです。
全くダメージはありません。彼の頭骨は固いのです。

全ての特徴は、彼が獣、猿人、
全ての特徴は、彼が獣、猿人、

すなわち重要な環であることを明らかにしています。
すなわち重要な環であることを明らかにしています。

皆さん、そのことは私達と、
皆さん、そのことは私達と、

二足歩行の森に棲んでいた先祖とを関連付けるのです。
二足歩行の森に棲んでいた先祖とを関連付けるのです。

私は、海外でもこのことについて
私は、海外でもこのことについて

話そうとしました。
話そうとしました。

しかし、すんでのところでやめました…
しかし、すんでのところでやめました…

彼には、理性のひらめきがあります。
彼には、理性のひらめきがあります。

彼はナイフとフォークを使って食事をし、
彼はナイフとフォークを使って食事をし、

鼻を鳴らし、あくびをし、「チジック=ピジック」を演奏し、さらに、
鼻を鳴らし、あくびをし、「チジック=ピジック」を

「エ‐ヘ‐ヘ」と言ったりもします。
ピアノで弾き、「エ‐ヘ‐ヘ」と

鼻を鳴らし、あくびをし、「チジック=ピジック」を演奏し、
言ったりもします。

さらに、さらに、さらに、


「エ‐ヘ‐ヘ」と言ったりもします。




(スザンナが入場し77、演壇に背を向けて、外国人達のいる机に座る。)

[動物学者]あくびをしろ、オランゴ!動物学者あくびをしろ、オランゴ…
オランゴア!オランゴ(あくびする。)
合唱は、は、は、は、は、は、は!は、は、は、は…
動物学者鼻を鳴らせ!動物学者(チョコレートを投げつけて)鼻を鳴らせ。

[オランゴは、鼻を鳴らす。]オランゴ(鼻を鳴らす。)
合唱ヒバリみたいだ、面白いぞ!は、は、は、は!ヒバリみたいだ…面白いぞ…
動物学者「チジック=ピジック」を弾いてみろ!動物学者「チジック=ピジック」を弾いてみろ。

[オランゴが演奏する。]オランゴ(「チジック=ピジック」を弾く。)
合唱人みたいだ!人みたいだ…
動物学者その向こうに外国からのお客人がいる。向こうへ行って礼儀正しく、ヨーロッパ人のように、「エ‐ヘ‐ヘ」と言ってみろ。動物学者その向こうに外国からのお客人がいる。向こうへ行って礼儀正しく、ヨーロッパ人のように、「エ‐ヘ‐ヘ」と言ってみろ。
オランゴエ‐ヘ‐ヘ…オランゴ(スザンナの背後へと向かう。)エ‐ヘ‐ヘ…
合唱は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は。

スザンナ助けて、助けて!スザンナ(振り向く。)助けて…
オランゴあああ赤毛のああああばずれめ!オランゴ(吠える。)あああ赤毛のああああばずれめ…
合唱獣がしゃべっている、獣がしゃべっている!獣がしゃべっている…
スザンナあぁ、助けて!スザンナジョージ78、勘弁して。許して…
オランゴこなごなに、ひひひ引き裂いてやるぞ!グルルル…オランゴこなごなに、ひひひ引き裂いてやるぞ…(彼女に駆け寄る。)


スザンナあああー…(力なく。)
合唱オランゴ、戻れ!オランゴ、戻れ、オランゴ、戻れ…


オランゴ(威嚇するように辺りを見回す。外国人1および2は、銃を取り出す。)
外国人1および2女性を助けろ!撃つぞ。外国人1ここには、ごまかし…策略…悪意…がある。


外国人2女性を助けろ、さもなくば撃つぞ…
合唱血を流す必要はない。血は見たくない…
ヴェセリチャク銃を選択するという主張には説得力があります。しかし、問題を解決する方法としては時代遅れですね。ヴェセリチャク銃を選択するという主張には説得力があります。しかし、皆さん、問題を解決する方法としては時代遅れですね。
オランゴグルルル…

ヴェセリチャク地上であれ、海上であれ、空中であれ、軍備縮小することをお勧めいたします…
…地上であれ、海上であれ、空中であれ、軍備縮小することをお勧めいたします…
オランゴグルルル…

合唱獣を飼い馴らせ!

ヴェセリチャク新しい方法を提案いたします。
…他の方法を試してみましょう。
合唱音楽だ、音楽だ、音楽だ!音楽だ、音楽だ…
オランゴグルルル…

ヴェセリチャクナスチャ、ナスチャ、おとなしくする踊りを踊って!

[ナスチャが踊る。]イヴァーノヴァ(獣をおとなしくする踊りを踊る。)

オランゴ窒息しそうだ、この動物の皮の中で窒息しそうだ。オランゴ(おとなしくなって)窒息しそうだ、この動物の皮の中で窒息しそうだ。
動物学者皆さん、このショーを中止しなければなりません。獣が、非常に興奮してしまいました。動物学者皆さん、このショーを中止しなければなりません。獣が、非常に興奮してしまいました。



(オランゴを向こうに追いやる。)
スザンナここから出て行きましょう、疲れましたわ。こんな恐ろしい出会いを、誰が想像できたことでしょう!スザンナ(外国人達に向かって)行きましょう、疲れましたわ―こんな恐ろしい出会いを、誰が想像できたことでしょう…
群衆の中からの声何が起きたんだ?外人の女性が言っている恐ろしい出会いとは、何だ?何が起きたんだ?外人の女性が言っている恐ろしい出会いとは、何だ?
ヴェセリチャク大丈夫ですよ、獣は落ち着きました。モスクワの空気は、鎮静剤よりもよく効きます。どうかこのまま、このままで、このプログラムの追加の演目としてオランゴの物語をお話しください。彼は何者なのか、誰が彼を森で捕まえたのか、そしてどうしてあなたを見て取り乱して人間の声で話し出したのか。ヴェセリチャク(スザンナに向かって大丈夫ですよ、獣は落ち着きました。モスクワの空気は、鎮静剤よりもよく効きます。どうかこのままで、このプログラムの追加の演目としてオランゴの物語をお話しくだるようお願いします。彼は何者なのか、誰が彼を森で捕まえたのか、そしてどうしてあなたを見て取り乱して人間の声で話し出したのか…
合唱お願いだ、お願いだ!お願いだ、お願いだ…
スザンナなぜ、昔の闇を覗こうとするのです?もう全て忘れてしまいましたわ。スザンナなぜ、昔の闇を覗こうとするのです?もう全て忘れてしまいましたわ。



(アルマン・フルーリが、群衆の中から話す)
アルマン私が思い出させてさしあげましょう。アルマン私が思い出させてさしあげましょう…
ヴェセリチャクどちら様ですか?ヴェセリチャクあなたは、どちら様ですか?
アルマン私は、発生学者のアルマン・フルーリだ。アルマン私は、発生学者のアルマン・フルーリだ。あの猿人の父で…
ルネ私は、彼の娘です。オランゴは私の継兄弟なんです。彼のことを思い出して、身震いがしています。ルネ(はっきりとした口調で)私は、彼の娘です。オランゴは私の継兄弟なんです。彼のことを思い出して、身震いがしています。
ポール・マッシュどんな結果になろうと、さらに何がしかのお話をさせていただきましょう。私は、新聞記者のポール・マッシュです。この歓迎会を楽しんでおります。喜んで、2、3の小話をお話いたしましょう。オランゴは、私の生徒です。彼は、素晴らしい新聞記者でした。悲しいかな、全ては昔のことです。彼の人生は、途方もないものです。ポール・マッシュどんな結果になろうと、さらに何がしかのお話をさせていただきましょう…私は、新聞記者のポール・マッシュです。この歓迎会を楽しんでおります。喜んで、2、3の小話をお話いたしましょう…オランゴは、私の生徒です。彼は、素晴らしい新聞記者でした。悲しいかな、全ては昔のことです。彼の人生は、途方もないものです…
ヴェセリチャクここにいらっしゃるのが、主要な登場人物です。残りはアマチュアの一座から補充いたしましょう。ヴェセリチャクここにいらっしゃるのが、主要な登場人物です。残りはアマチュアの一座から補充いたしましょう。

[行進曲が奏でられる。]
(行進曲。俳優達が登場する。))


ヴェセリチャクここに、過去に起こった全ての出来事のお面があります。どれでもお好きなのを選んでください。


俳優達の合唱笑おう、笑おう



この面白い



オランゴと呼ばれる



猿人の話を…


ヴェセリチャク笑い声、笑い声、笑い声とは何でしょうか?たとえば、多忙な男が犬のように疲れて座っている。突然―うめき声をあげる。彼の腸はよじれ、胃はひどく痙攣する。顔色はビートのように赤くなり、涙が眼から流れ出る。口は大きく開き、ハ、ハ、ハ(うめき声)と言う…つまり、肉体的な信号とでもいったものです。しかし、それにもかかわらず、笑い声は…気分を一新させ、若返らせ、束縛し、苦悩させ、喜ばせ、衝突を解決し、同化を助ける…


俳優達の合唱笑おう、笑おう



サルの手で人生を何とかしようという



無駄な試みを。

ヴェセリチャクプロローグが長くなりましたので、俳優達がしびれを切らせています。観客の皆さんはなおさらですね。私達は、皆さんに歌と踊りで面白いお話をいたしましょう。雑種のオランゴがどのように生まれ、戦争に参加し、パリに戻り、何をして、何が起こったのか? どうしてソ連に行ったのか、どのようにして人目にさらされたのか、どのように結婚したのか、誰が、何が彼を壊したのか、いかにしてГОМЭЦの長が彼をハンブルクで150ドルで買ったのか。始めましょう!始めましょう!始めましょう!ヴェセリチャクプロローグが長くなりましたので、俳優達がしびれを切らせています。観客の皆さんはなおさらですね。私達は、皆さんに歌と踊りで面白いお話を演じましょう。雑種のオランゴがどのように生まれ、育ち、帝国主義の戦争に参加し、パリに戻り、何をして、何が起こったのか? どうしてソ連に行き、何が起こったのか、どのように誰と結婚したのか、どのようにして人目にさらされたのか、誰が彼を救おうとし、何が彼を壊したのか、いかにしてГОМЭЦの長が彼をハンブルクで150ドルの現金で買ったのか…始めましょう…



(全員が、舞台の後方を見る。)


合唱(背景と踊り場にて)

笑おう、笑おう
世界は美しく、調和している

この面白い
変化は、世界の摂理だ…

オランゴと呼ばれる
門を広く、広く開けよ

猿人の話を。
解放された世界に向けて…
合唱笑おう、笑おう
世界の歴史は

この面白い
今日

オランゴと呼ばれる
偉大な巻物を紐解くのだ…

猿人の話を。
門を広く、広く開けよ
ヴェセリチャク笑おう、笑おう
解放された世界に向けて。

サルの手で人生を何とかしようという


無駄な試みを。

合唱笑おう、笑おう

ヴェセリチャク笑おう、笑おう


この面白い


オランゴと呼ばれる


猿人の話を。


笑おう、笑おう


サルの手で人生を何とかしようという


無駄な試みを。

合唱笑おう、笑おう[以下略]





[幕](幕)

  1. 世界文学研究所手稿部, rec. gr. 43, inv. 1, f. 474, sheets 5-12 of arch. pag.
  2. 「洗練されたスーツ」への言及は恐らく、ヴィルヘルム・ハウフによる有名な小説「若いイギリス人」(別名「猿人」)で、「若いイギリス人」が衆目にさらされる場面と関連している。この小説の終わりで、人であることを熱望しているオランウータンは、長らく地方の上流社会を煙に巻いてきた謎に包まれたよそ者の助けを借りて、彼のスキャンダラスな振る舞いに反する「洗練されたスーツ」を着て祝賀舞踏会に現れる。オランゴの作者は、恐らくこの小説を知っていたのだろう(筆者は、この点に注意を喚起してくれたN. A. ブラジンスカヤに謝意を表する)。
  3. トルストーイが「あらすじ」では、オランゴの妻をゾーヤ・モンローズと呼んでいたことを思い出されたい。著者はこの名前を、自作に登場する2人のヒロイン(華やかな高級売春婦と、道徳観念のない権力を愛するいかがわしい婦人)の近似性ゆえに、一時的に使ったのだろう。ヒロインの名前をスザンナに変更した時、実現することのなかった劇「オランゴ」と小説「ガーリン技師の双曲線」との間に存在する近似性を、いくぶん弱めたのだ。そこでは、世界を支配し、道徳的な堕落を極めた才能ある悪党達は、壊滅的な打撃を受け、原始的な存在へと姿を変えられてしまう:小説のエピローグで無人島にいることに気付いた「失脚した」ガーリンは、檻の中で階級的憎悪に取り憑かれたオランゴと同じ獣的な生活を送ることを余儀なくされる。
  4. オランゴに対してつけられた「ジョージ」という名は、「あらすじ」には現れていなかった。それは当然のことである:プロローグの文章は、後で書かれたのだから。

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O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(4)その2

このように、スタルチャコフのあらすじでは、オペラは3幕で構成されている:文章は、アラビア数字で番号が振られた3つの部分に分けられている。これと対応するように、スタルチャコフが書いた表題の最終版にある「5幕の諷刺オペラ」という箇所が、トルストーイが原稿全体を校正する際に用いた青鉛筆で線を引いて取り消されている。あらすじの最終段落を考慮すると、それがすべてトルストーイによって提案されたもので、話がまだ続くことを想定していることから、トルストーイはオペラが3幕以上になると予想していたと結論付けられるだろう。しかし、彼が書いた筋書きの続き(オランゴの転落と遺伝的な心への回帰)には、番号が振られなかった―作者は、それを追加の幕として計画せずにエピローグの類とみなしたのか、あるいは単に番号を振るのを忘れたのかのどちらかだろう。おそらくは、エピローグをつけるという構想が、トルストーイにプロローグ(実際、後にショスタコーヴィチが音楽を作曲している)を書こうと考えさせたのだろう。歴史的な出来事を背景にオランゴの生涯を演じるという話を通して、プロローグで各自の過去を明らかにしながら登場人物達が顔を合わせる場面は、筋書きの点においてオペラの結末(エピローグ?)と関連付けられ、全体の構造を循環的にしている。しかし、幕数の問題は未解決のままである:4幕とエピローグなのか、3幕にプロローグとエピローグなのか、それとも5幕なのか?どの形でも、契約書の要求(「4~5幕の」)は満たされる。しかし、この時点でトルストーイが最終的な決断を下すことができなかったのは明白で、表題から疑問の残る部分を単に消しただけであった。

雑種の養父の名であるジャン・オルだけでなく「オランウータン」にも由来し、それゆえに「二重の遺伝的母体」を有することを意味する明解で関連性を持った簡潔な主人公の名前を思いついたのがトルストーイであることも、明らかである。スタルチャコフは主人公を「雑種」か「ルースの息子」とだけ呼んでいる。オランゴという名前が最初に現れるのはトルストーイの修正においてで、文章の真ん中ほど、第2幕である:「ジャン・オルの、あるいはオランゴの最初の輝かしいデビュー記事は、ドイツの服従に関するものであった」69。作者はいくつかの固有名詞の変更もした70が、アルベール・デュラン、エルネスト・グーロー(結局、後にアルマン・フルーリに改名された)、彼の娘のルネ、そして類人猿ルースの名は、そのままにされた。

蔵書カードにある1930~1931年という日付71は、正しくは1932年6月5日とされるべきだろう。それから数日の内に、トルストーイの修正が完了した。しかしこの日付もまた、トルストーイが大きく取り消し線を引いており、疑問を提起している。1932年5月17日の契約書によると、作家達は6月1日までにボリショイ劇場の理事会にあらすじ(完成した概要)を手渡すことになっていたことを、思い出されたい。さらにまた、経験豊富な作家達が決められた締め切りに間に合わせることができなかっただけでなく、締め切りを過ぎてからもなお彼らが作業を始めたという疑問も残る。なぜなのだろう?契約書にあるオペラのテーマとオランゴの筋書きとの間に関連がないことも、驚くべきことである。主人公のグロテスクで恐ろしいイメージと、世界の大変革期に彼が辿った数奇な運命は、たとえこじつけにしても、「革命と社会主義建設の過程における人間の成長」とは解釈され得ない!オランゴは、宣言されたテーマとはむしろ反対の内容であるとも受け取られる。その意味するところは逆転している:成長ではなく堕落、人間ではなく猿人、ロシアではなく西側の資本主義社会、革命と社会主義建設ではなく国際的な反動気運とブルジョア的理想の腐敗の激化といった具合である。これらの事情―「オランゴ」の執筆作業における時間的な経過と、契約の中できっちりと決められた枠組みを不可解なまでに逸脱したその「テーマ」―は、作家達と作曲家が、当初は十月革命記念のオペラとは全く異なる物をボリショイ劇場に提出しようと計画していたのではないか、そしてそれは何らかの理由で完成にまで至らずに重大な局面で歌劇「オランゴ」に置き換えられたのではないか、という仮説を脳裏によぎらせる。

筆者は、この仮説を確認する史料を発見することができた。蔵書目録には、次のようにある:「トルストーイ, A. N.・スタルチャコフ, A. パルチザンの息子. オペラ台本. 構想. A. スタルチャコフによる自筆原稿およびタイプ原稿」。括弧の中には、「ショスタコーヴィチ?」という記述と1932年5月30日の日付が書かれている72。このファイルも、2つの文書から成っている。一つ目は、トルストーイとスタルチャコフが台本を書き、「シェスタコーヴィチ」(ママ)が音楽を担当した歌劇「パルチザンの息子」のあらすじのタイプ原稿である。この原稿にはスタルチャコフによる修正の跡があり、「1932年5月30日 A. スタルチャコフ」(1~2枚目)と自署されている。二つ目は、オペラの第1幕の細かな筋書きについて、スタルチャコフが手書きで書いた草稿(sheets 3~5)である。タイプ原稿にもスタルチャコフの直筆にも、トルストーイによる書き込みはない。

5月17日の契約においてボリショイ劇場の理事会に「あらすじ」を提出する締め切りとして示された6月1日の直前にあたる、1932年5月30日という日付を読み取ることは容易である。。筆者は、スタルチャコフのタイプ原稿が事実、まさに「あらすじ」であると確信している。直筆原稿は、劇の第1幕が書き始められていたという事実を証明する。そしてその劇は、十月革命15周年にショスタコーヴィチの音楽をつけて舞台にかけられる予定だったのだ。

「パルチザンの息子」の筋は、平凡で単純なものである(アルタイの貧しい人々の中世風の意識を克服するために奮闘するソヴィエトの科学者達、「緑」の保護者達と黄砂との対決、ソヴィエト体制の素晴らしさに気付いて「誤った」父親を裏切る「優柔不断な」学校教師の感情的な苦難と最終的な選択)。独創性や複雑さ、あるいは真の劇的な性質はなかったにもかかわらず、それは「記念」のありきたりな筋書きに容易に適合し、契約に明記されたテーマを完全に反映したものであった。しかし、誰がこの構想の成就を妨げたのだろうか?5月30日から6月5日の数日の間に何かが起こり(あるいは、誰かが強硬な意見を言明し)、それゆえに「パルチザンの息子」の執筆が中止されたことに疑う余地はない。台本作家達は、明らかに彼らの作ったあらすじに満足していた。そしてボリショイ劇場は、それを受理した(そうでなければ、スタルチャコフは第1幕の詳細な展開を書き始めることはなかっただろう)。そこで、ショスタコーヴィチと、進行中の作業について彼が言わなければならなかったであろうことが、疑問点として残る。彼は「記念」作品の運命を決定する権利も有していたし、どうやらそれを利用した節もある。彼は自分の意見を言い、作品の取り換えを要求し、そして忘却の向こうから「オランゴ」を掘り起こしたのだ。

1932年7月19日、ショスタコーヴィチとスタルチャコフの親しい友人であるガヴリイル・ポポーフは、自分の日記に書いた:「…6月12日以来、トルストーイとの関係は、彼がしたことによって損なわれている。私自身とトルストーイ、スタルチャコフとの間に交わされた共同合意に基づいて私が約束し、私がそのジャンルを熱烈に推したおかげでスタルチャコフが記憶の奥底から掘り起こすことになった悲劇的オペラ・ファルサのテーマは、突然(!)ショスタコーヴィチのために(!?!)ボリショイ劇場に売られたのだ(!)。私は、これら全てが既成事実となった後で知らされた。彼がこそこそと振る舞ったことが明らかになると、トルストーイは、私がこのテーマを断った理由は恐らく締め切りに間に合わせることができないと思ったからだろうという噂を広めているのだ…73

1932年7月にポポーフが書き記した、スタルチャコフによって構想され、ショスタコーヴィチに与えられた(ボリショイ劇場に売られた!)トルストーイとスタルチャコフによるオペラのテーマとは何だったのだろうか?この問題は、スタルチャコフの古い小説から想起された、すなわち「スタルチャコフが記憶の奥底から掘り起こすことになった」歌劇「オランゴ」とのみ関連付けられるだろう:スタルチャコフとトルストーイとショスタコーヴィチの三者は、この時点で第三のオペラの構想を持っていなかった。第一に、ショスタコーヴィチは既に「パルチザンの息子」は拒否しており、判明したところによれば、その筋書きはポポーフが主張しているものからはずれている。第二に、「パルチザンの息子」は「悲劇的オペラ・ファルサ」のジャンルという要求には明らかに合致しない。対照的に「オランゴ」には、そのジャンルの特徴が完全に与えられている。加えてポポーフは、「オランゴ」の締め切りはきちんと明記されてすらいなかったにもかかわらず、「恐らく間に合わせることができないと思った」締め切りに言及している。締め切りは、ほぼ決まっていたのだ。

さらに重要な証拠もある。1932年[6月]25日の日記で、直接の目撃者であるL. A. シャポーリナは、記念オペラに関する5月末から6月にかけて起こった事柄の詳細を書き留めている:「2回に渡る交響曲のリハーサルが行われたモスクワから戻ったユーリィ[・シャポーリン]は、数名の知人のところへ行った。彼はポポーフとトルストーイらの元を訪れ、夕方には再度ポポーフのところに会いに行かなければならないと言った。G. N.は、脚に腫瘍ができて寝込んでいた… 彼は私達(私達に加えて、アラポフとボグダーノフ=ベレゾーフスキイが同席していた)に次のようなことを話した。5月の終わりに、彼はトルストーイとスタルチャコフに対して彼がいかに笑劇を書きたいと思っているかを話した。スタルチャコフは額を叩いてこう言った:『笑劇に抜群の話がありますよ。私が1930年に書いた話です』。ポポーフはその話がとても気に入り、トルストーイの要求に応えて翌日には劇場理事のブッフシュタインに会いに行き、彼の関心を引いた。彼はその構想にとても惹かれたので、マリイーンスキイ劇場の要請で既に書き始めていた作品と同時に、このオペラ・ファルスを書くことを夢見た。彼は体調を崩し、6月6日にはトルストーイが、台本を書くと約束をしたスタルチャコフとショスタコーヴィチが滞在していたモスクワへと旅立った。

「彼らがモスクワから戻ってきた時、トルストーイとスタルチャコフはポポーフに会いに行き、彼らがその物語をマリノフスカヤに提示し、そのことを聞いたミーチャ・ショスタコーヴィチがとても喜んで、他のテーマについては何も聞きたくないと言った、ということをポポーフに話した。結果として、彼らは笑劇のテーマを、ショスタコーヴィチのためにボリショイ劇場に売ったのである。彼らは戻ってくるとガヴリイル・ニコラーェヴィチのところへ行き、あたかも都合の悪いことは何も起こらなかったかのように、全て事後になってから話したのだった:彼らはマリノフスカヤにテーマを話し、その場に居合わせたミーチャ・ショスタコーヴィチがそのテーマをとても気に入ったので、他のオペラは書くつもりがないと言って、そのテーマを欲しがった、という風に。しかしながら、その時モスクワにいたユーリイは、トルストーイが前もって筋書きを渡した上でショスタコーヴィチと共にモスクワへやって来たのだと主張している。一方、何も知らされていなかったポポーフは、2週間かけてオペラの創作に取り組んでいた。全ては、容易に説明され得る。ボリショイ劇場の理事会は、『優等生』シャポーリンとショスタコーヴィチ、そしてシェバリーンを記念公演に参加させることを決定した。ショスタコーヴィチがこの記念公演に参加することで、いくらかの資金を手に入れることができた。したがって、台本作家達がポポーフと交わした口約束は、あまり意味をなさなかった。しかし、誰も他の物語を思いつくのに十分な想像力を持ち合わせていなかった。ユーリイは、トルストーイとゴーリキイのところで昼食をとった。トルストーイは自分がどのようにしてコミック・オペラの台本を書いているかについて話し始めた。それに対してゴーリキイは、セルヴィンスキイが書いた似たような話を読んだことがあると言い返した。この言い合いは、極端に不愉快な結果に終わった。翌日、ユーリイはトルストーイに会いに行き、彼が記者と一緒にいるのを見た(記者については、後にその場に居合わせたスタルチャコフによって誤りが指摘された)。記者が退出すると、アレクセーイ・ニコラーェヴィチは怒りを爆発させた:『一体全体、どうしてやつらはセルヴィンスキイの物語だなんて言うんだ。盗作の件で4度目の法廷になんて行きたくないぞ!』(「機械の反抗」「皇后の陰謀」他のことを指している)。ユーリイが、オペラはスタルチャコフが1930年に着想した物語のテーマに基づいて書かれていることを表明した手紙を編集部に宛てて書くことを思いつくまで、彼らは非常に悩まされたのだ74」。

状況の道徳的な雰囲気や微妙なニュアンスは、いくつかの日付と同様に、極端に曖昧で特別な注釈が必要である。しかし謎の「コミック・オペラ」に関しては、「オランゴ」でしかあり得ないことに疑う余地はない。ポポーフの日記には書かれていない追加の事実((1)報道から明らかになっている、記念公演に参加する者の名前(ショスタコーヴィチ、シャポーリン、シェバリーン)、(2)「セルヴィンスキイの話」(すなわち、「オランゴ」の文学上の兄にあたる劇「パオ=パオ」)への言及、(3)「スタルチャコフの物語」に関する告知の中で与えられている情報)は、このことを明白に示している。また、ショスタコーヴィチが偶然に聞いた(あるいは特別に彼に委託された)物語に、すぐに創造的な予感に誘われ、熱烈な関心を寄せたことについても、確信できるだろう。
  1. これは、スタルチャコフが創作作業の初期段階においてオペラの名前(「オランゴ」)を含む表題を原稿に書き込んだのではなく、次の段階においてトルストーイが原稿に加筆した後で、主人公の名前を「見つけた」(おそらくは議論の結果であろう)ということを意味している。
  2. スタルチャコフの案では、オランゴの養父ジャン・オルはアンリ・ピトゥとされていた。トルストーイがとりあえずゾーヤ・モンローズという名(トルストーイの小説「ガーリン技師の双曲線」(1925~1927)のヒロインの名)を与えた亡命ロシア人で雑種の結婚相手は、元々カルナウーホヴァ(ファースト・ネームはトルストーイの修正の跡を通して判読することはできない)と呼ばれていた。ショスタコーヴィチの自筆譜では、彼女はスザンナと呼ばれている。
  3. ゴーリキー記念世界文学研究所手稿部便覧によると、「オランゴ」の台本にはもっと早い日付[1910年代]が与えられている(以下を参照のこと:Guide to the Record Groups of the Manuscript Department of the RAS Gorky Institute of World Literature, Iss. 1, Personal depositories, RASIWL, Moscow, 2000, p. 242, in Russian)。
  4. 世界文学研究所手稿部, rec. gr. 43, inv. 1, f. 476. ゴーリキー記念世界文学研究所手稿部便覧には、アレクセーイ・トルストーイとアレクサーンドル・スタルチャコフによる「パルチザンの息子」の台本に関する情報は掲載されていない。
  5. G. Popov, From Literary Inheritance, Edited and compiled by Z. A. Apetian, Moscow, 1986, p. 246 (in Russian).からの引用。 校訂報告では、以下のように述べられている:「D. D.ショスタコーヴィチは、A. N. トルストーイとA. O. スタルチャコフが手掛けた「悲劇的オペラ・ファルサ」のテーマによるオペラを書かなかった」(同上, p. 401)。これは、一部分だけ正しい:ショスタコーヴィチはオペラに着手したが、完成させなかった
  6. ロシア国立図書館手稿部, rec. gr. 1086, f. 2, sheets 83rev.-85. L. V. シャポーリナの日記は判読済みであり、現在はV. N. サージンによって出版準備中である。筆者は、この日記の断片を指摘してくれたL. G. コフナツカヤと、この史料を詳しく調べて引用することを許可してくれたV. N. サージンに感謝する。
    原文では、この書き込みには1932年5月25日の日付があるが、それはおそらくペンが滑ったのであろう。文章の内容と既知の時系列との比較から、L. V. シャポーリナの書き込みは6月25日以前にはなされ得ないことが分かる。この時までに、「オランゴ」の最初の短い告知がRabochii i teatr(No. 17)に掲載されている。しかし、台本作家達はいくつかの情報を提供する機会を持っており、次の告知(No. 18)ではA. スタルチャコフの物語について、実際に情報を明らかにしたのだった。

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プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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