『ラフマニノフ ―明らかになる素顔―』(ユーラシア・ブックレット, 2012)

甘美な旋律に彩られたヴィルトゥオージックなピアノ曲の作曲家であり、録音で聴くことのできる前時代の伝説的なピアニスト、といった辺りが、私にとってのラフマニノフ像であり、恥を忍んで正直に言えば、ピアノが弾けない私には一定以上の興味が抱けない音楽家であった。大学1回生の時にエキストラ出演した某大学オケで交響曲第2番を弾いた時も、その叙情が過剰であるように感じられて楽しめなかったし、サークルの少なくない数の仲間が夢中になってラフマニノフ作品に挑んでいるのを聴いても、音が多いなぁとしか思わなかったくらいだ。私自身は音楽学とは全く無縁ではあるものの、筆者が「はじめに」で「学者は理屈をこねるのが好きなので、理屈と接点を持たない作曲家とはくみしにくいのです」と指摘しているように、理屈で音楽を聴いていたということだろう。

明確な転機があったわけではない。年齢を重ねたからだろうか、19世紀ロシア音楽を爛熟させ、かつ洗練させたラフマニノフの音楽は、ごく自然に私の心を打つようになっている。とりわけ数々の歌曲の魅力は、グリーンカから現在に至るまでのロシア音楽の中でもトップクラスに位置づけられてしかるべきものだと思っている。著者の言う「距離を置きたがる研究者たち、甘美な旋律に酔う聴衆、楽譜を通して冷静に向き合う演奏家……この三者のラフマニノフの捉え方は著しく乖離しています」という状態が、私の中で解消されつつあるということなのだろうか。

客観的なデータを元に、これまでに確立されてきた人物像を一新するような見解を打ち出すのは、一柳氏の得意とするところだが、このわずか60ページ程度の本でも、氏の本領が存分に発揮されている。ロシア音楽史に対する広範で俯瞰的な知見を踏まえつつ、ラフマニノフという作曲家、そして演奏家を的確に位置付けようとする姿勢は、それだけでラフマニノフの真正な評価に対して大きく寄与するものだろう。

本書の欠点は、ブックレットという紙数の制約に起因する物足りなさだ。一通りの論点は網羅しているものの、いずれも紹介程度の紙数しか割かれていないために、もっとまとまった形で踏み込んだ記述を読みたいと思ってしまう。逆に言えば、それだけの魅力があるだけに、いかにももったいない。また、著者の主張を端的に伝えるためには仕方ないのだろうが、新しい知見を提示するに、十分な根拠をもって論理展開する余裕がないために、独断的な印象を受けなくもない(この点に関して、私は他の著作を読んだ経験から著者を信用していることを申し添えておく)。

私は、音楽家の評伝というのは、その人の音楽を聴きたいという気持ちを多くの愛好家に喚起するものでなければならないと考えている。その点で本書は、優れた評伝と呼ぶに値する内容を持っている。もちろんそれは、学術的な意義を損なうものではない。近い将来、相応の分量をもった著作をまとめられることを、大いに期待したい。

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NHK交響楽団第1755回定期公演

  • ショスタコーヴィチ:交響曲第1番、チャイコーフスキイ:弦楽セレナード、ボロディーン:歌劇「イーゴリ公」より序曲、「ポーロヴェツ人の踊り」 フェドセーエフ(指揮) (2013.5.17 録画 [NHK ETV(2013.8.4)])
  • チャイコーフスキイ:バレエ「くるみ割り人形」より小さな序曲、行進曲 円光寺雅彦/東京フィルハーモニー交響楽団 (録画 [NHK ETV(2013.8.4)])
NHK Eテレの「クラシック音楽館」で8月に放送されたN響定期公演の録画を、いまさらながら視聴した。完全に時機を逸したエントリーではあるが、私自身の「覚え書き」であることが目的のブログゆえ、ご容赦いただきたい。

これまでにも、日本の複数のオーケストラに客演したことのあるフェドセーエフだが、N響への客演は初めてとのこと。番組冒頭で初共演についてのインタビュー映像が流れたが、穏やかな口調でオーケストラへの讃辞を述べていたこともあり、演奏への期待が高まる。

結論を先に言えば、その期待は満たされなかった。極めてロシア的でありつつも極めて機能的だったソ連時代から歳月を重ね、晩年を迎えたフェドセーエフは、個性的なテンポ設定の元に大小の楽曲構造を大掴みに捉えることで局所的な完璧さを犠牲にしてまでも大局的なうねりを生み出す独自の様式を確立している。オーケストラは違えど、フェドセーエフの意図する音楽作りに違いはない。したがって、複雑に絡み合うアンサンブルの技術的な彫琢や、個々のフレーズに対する自発的な思い入れの類は、オーケストラに委ねられる。残念ながら、この公演におけるN響は、その役割を十分に果たしていたとは言い難い。

たとえば、ショスタコーヴィチ。繊細な線が複雑に織り成す神経質な響きの背後に潜む、19世紀ロシア音楽の末裔であることを強く意識させる甘美な響きこそが、フェドセーエフの解釈の肝である(プログラム構成からも、それは明らかだろう)。フェドセーエフの指揮が楽曲の叙情的な要素に傾倒しているのは、初期ショスタコーヴィチに独特の線的なアンサンブルを全面的にオーケストラに任せているが故のこと。細かい瑕はさておき、とりあえず破綻なくまとめるといった程度の意識しか感じられないオーケストラからは、ショスタコーヴィチの響きが聞こえてこない。当然の帰結として、フェドセーエフの甘美な歌い回しは音楽の中に居場所を見つけることができない。

これに比べると、後半の2曲は魅力的な旋律群が主役の楽曲だけに、フェドセーエフの意図するところを理解するのは容易だったのだろう。重心の低い響きで迫力満点に歌い上げられたロシア音楽は、客席を沸かせるには十分なもの。とりわけチャイコーフスキイは、N響弦セクションの総体的な水準の高さを誇示するような立派な演奏だった。とはいえ、指揮以上のニュアンスが感じられない無表情さも随所で気になったのは事実。ボロディーンなどは、単に盛り上がるだけではない、もっと陰影に富んだ作品のはず。そしてその陰影を表出するのは他でもない、実際に音を出す奏者自身のはずだ。

放送時間の残りに挿入された「くるみ割り人形」からの2曲については、特に何もない。

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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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