『戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実』(新潮社, 2014)

1月30日のエントリーに続き、ナチス・ドイツによるレニングラード封鎖を扱った本をもう一冊読了。この本は、ショスタコーヴィチの交響曲第7番のレニングラード初演に至る顛末を、初演に携わったオーケストラ(現サンクト・ペテルブルク交響楽団)や指揮者のエリアスベルクをはじめとする音楽家達に焦点を絞って記述した労作である。封鎖の軍事的な経緯や歴史的観点からの叙述は最小限で、それもソ連の資料を中心にまとめられているだけに、レニングラード包囲戦におけるソ連側の不手際などはほとんど描かれていないが、本書の主題はあくまでも極限状況下における音楽家達の生き様にあるので、そうした史実の類は別の文献で補えばいい。

「あとがき」で著者自身が述べているように、当初は小説として書き始められたものが編集者の意見を取り入れる形でノンフィクションへと方針転換されたとのことで、これまでわが国ではまとまった形で紹介されることのなかった封鎖下の音楽事情について残された記録を丹念に辿りつつも、突如として戦争にまきこまれたレニングラードのオーケストラが苛烈な状況下で第7交響曲の演奏を果たすまでのストーリーには著者の主観的な思い入れが多分に反映されている。

第7交響曲は、ソ連社会に翻弄された波乱万丈なショスタコーヴィチの生涯の中でも、とりわけ輝かしいエピソードに彩られた作品である。さらにヴォルコフの『証言』で反体制的な“真意”が込められているかのように取り上げられたことで、現代の私達にとっては素直に心を動かされることに何か抵抗のようなものを感じてしまう作品でもある。この点について著者の態度ははっきりしている:「彼(註:ショスタコーヴィチ)が大空襲や砲爆撃の下、死と隣り合わせで作曲していたことを考え合わせると、作品に暗喩や皮肉を込める気持ちの余裕などなかったろう、というのが私の見方だ」(p.242)。これは私自身の考えとも同じなのだが、後付けの論理で下手に深読みしないことで、むしろ単純明快かつ説得力のあるストーリーが構成されているのが好ましい。

レニングラード初演に至る辛苦を知れば知るほど、演奏会に馳せ参じないばかりか、歴史的な演奏会に対する反応が素っ気ない電報一通でしかないショスタコーヴィチに対して否定的な感情を抑えきれない著者の筆致も至極当然のこと。もちろん、当時の状況下でショスタコーヴィチがどこまで自由な行動をとり得たのかについては議論の余地はあるだろうが、そもそも大作曲家が人格者である必要などどこにもない。

日本語で読むことのできる資料としても十分な価値があるが、それ以上に音楽の持つ力の大きさを感動的に伝えてくれる素敵な(というにはあまりに陰惨ではあるが)“物語”に仕上がっているところが、本書の最大の魅力であろう。

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シュペーテ弦楽四重奏団第4回公演を終えて


4/12の西宮公演から一ヶ月経ち、録音や録画の編集も終わり、ようやく心穏やかに振り返ることができるようになったので、シュペーテ弦楽四重奏団の第4回公演について、簡単に反省をしておきたい。

まずは、日本福音ルーテル西宮教会聖アグネス教会の皆様に、心からの感謝を申し上げます。建物の素晴らしさはもちろんのこと、私達の道楽に対して細やかなお心遣いと過分なまでのご協力を賜り、今回も成功裏に演奏会を終えることができました。さすがに私達4人だけでは、当日の様々な準備を整えることは到底無理で、両教会の皆様なくしては演奏会そのものが成立しませんでした。また、事前の広報についてもお力添えをいただきました。あらゆる点で素晴らしい場をお貸しくださったことに御礼を申し上げるとともに、今後とも末永くお付き合いさせていただきたく存じます。

また、西宮公演は約120名、京都公演は約170名と、これまでで最も多くのお客様に足をお運びいただきました。もちろん、義理(笑)で来て頂いた方も少なくありませんが、出演者とは個人的な面識のないお客様の割合が高いことを、私達はとても誇らしく感じております。次回演奏会の案内を希望される方には「芳名カード」を書いていただいておりますが、毎回来て頂いている方のお名前を拝見することは、大きな励みでもあります。演奏会は、聴衆なくしては成立しません。特に、西宮公演では演奏会が始まって早々、1曲目の1楽章でいきなり奏者にアクシデント(指がつってしまい、演奏を続けることができなくなってしまった)が発生し、一旦舞台から引き上げるということがありましたが、舞台上で当惑していた私達を温かい雰囲気で包んでくださったおかげで、5分程度の中断を挟んだ後も、妙な気負いを感じることなく演奏を続けることができました。こうした素敵な聴衆に恵まれたことは、私達にとって何よりの財産です。これからもご支援賜りますよう、お願い申し上げます。

さて、以下は私個人の所感。

今回は、ハイドン、ベートーヴェン、モーツァルトという、これ以上ないほどの王道プロ。知名度がそれほど高くないハイドンの作品74-1にしても、多くの聴き手にとって耳慣れた響きであることには違いなく、決して少なくない技術的な難所を清潔にクリアしつつ、いわば教科書通りに楽曲をまとめ上げる一連の過程に対して要求される水準が必然的に高くならざるを得なかったことは、もちろん楽しくもあったが、やはり大変だったというのが正直なところ。まるでコンクールの一次予選のようなプログラムは、本当に勉強になった。克服できなかった課題は多々あるものの、いたずらに練習期間を長くしたからといって演奏の質が無限に上がるわけではなく、その意味では、現時点で私達に可能な上限に到達できたとは思う。

気がつけば結成から5年が経とうとしているが、いわゆる阿吽の呼吸といった点で、これまで一緒に過ごしてきた時間の重みを感じることができた。練習の過程では随所でメンバー間のイメージが共有されなかったりもしたが、落としどころを探って収斂していく方向性については、練習の開始当初から概ね一致していたように思う。一方で、言わなくても分かるが故に磨き上げに不足した箇所も無きにしもあらず。個々の技術向上もさることながら、“弾ける”箇所のアンサンブルの精度をさらに高めることの必要性も感じた。

本番でしか得られない音楽的経験というものは確かにあるようで、2公演の間で練習を積むことは実質的にできないにもかかわらず、演奏のまとまりや仕上がりは、明らかに2回目の方が上回る(過去の公演でも同様)。自主公演の経験もささやかながら重ねてきた以上、1回目の公演の音楽的な内容も、もう少し高められるとよいのだが。

とにかく弾くだけで精一杯だったハイドン(結局、正確に弾ききれなかったのは悔しい)、作品が内包するぎこちなさを若々しい力感に昇華しきれなかったモーツァルト。どちらも遊びで通すだけなら何度も弾いてきた“よく知っている”作品だが、こうして時間をかけて丹念に取り組んだことは、それだけ素晴らしい体験となった。そして、「大フーガ」。練習開始から数か月は、ひたすら倍ほども遅いテンポで曲の構造を把握するのに費やしたが、スコアを見て勉強するだけでは気がつかなかったベートーヴェン独特の論理みたいなものを体得できたことが、何よりの収穫。溢れんばかりの生命力は、大フーガと置き換えられた第13番の終楽章と同一のもので、表面的な前衛性やロマン・ロラン的な仰々しい闘いの図式に囚われているだけでは見過ごしてしまいそうな、隅々まで情熱的で愉しい音楽であることを身体で感じ取れたのは、いささか無謀ではあったが自分達の手で演奏したからこそ。

アンコールは、ヴォルフの弦楽四重奏曲 ニ短調から第2楽章(スケルツォ)。今回は両公演の間に復活祭を挟む形になったため、聖歌/讃美歌はそれぞれ別のもの。西宮公演は教会讃美歌77番「さかえとほまれ」、京都公演は聖歌184番「あまつ神の子ら」。

次回公演は、来年4月頃に今回と同じ会場で計画しています。曲目は、スメタナの弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」とベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の2曲です。私はVaを弾きます。是非また足をお運びくださいますよう、お願い申しあげます。

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大阪フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会

井上道義首席指揮者就任披露演奏会 大阪フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会
  • チャイコーフスキイ:ヴァイオリン協奏曲
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第4番
2014年4月4日(金) 神尾真由子(Vn) 井上道義(指揮) フェスティバルホール
わが国のスター指揮者の一人、井上道義氏が大フィルの首席指揮者に就任した。その披露演奏会の初日に足を運んだ。もちろん、目当てはショスタコーヴィチの交響曲第4番。仕事帰りに当日券でふらっと聴きに行こうと思っていたので、前売り分が早々に売り切れたのを知って少し焦ったが、無事に入場することができた。改築後のフェスティバルホールは初めてだったこともあり、井上氏の等身大(?)立て看板があちこちに置かれたエントランスの大階段から、祝祭的な雰囲気を楽しんだ。当然のことながら、客席は満席状態。決して集客力が高いとは言えないプログラムであることを考えると、井上氏の、そして大フィルの人気の高さを改めて実感した。結論から言えば、非常に素晴らしい、満足度の高い演奏会であった。感想をまとめるのをすっかり失念していて、一か月以上も経ってからの間の抜けたエントリーであるが、ご容赦いただきたい。

私の中でチャイコーフスキイの協奏曲は完全に前座扱いだったが、神尾さんのしっとりとした節度と深みのある抒情的な独奏が素晴らしく、すっかり聴き惚れてしまった。これ見よがしに歌い上げることも、華麗な響きに溺れていたずらに興奮することもない、まさに真正のロシア音楽。こういうチャイコーフスキイは、ギレリスとムラヴィーンスキイによるピアノ協奏曲第1番の録音(Russian Disc)くらいでしか聴いたことがない。この音楽作りだと慣例的なパッセージの改変はやらずに楽譜通り弾くのかと思ったが、そこはごく一般的な扱いであった。第1楽章のカデンツァ後の一部に独奏もオーケストラも集中力を欠いた箇所はあったが、概ね筋の通った堅実な仕上がりで、客席も大いに沸いた。ただ、冒頭のヴァイオリン・パートのパッセージに代表されるように、パートあるいはオーケストラ全体として響きのまとまりに欠けるのはオーケストラにとって早急に克服すべき課題であろう。さらに、いわゆる“お仕事”的な演奏に陥る瞬間も多々あり、指揮者の求めに応えきれていなかった(あるいは、あまり応えるつもりがない?)のも不満。演奏頻度の極めて高い超有名曲ゆえに気持ちは分からなくもないが、せめて独奏のテンションに寄り添うくらいはして欲しいところ。

さて、メインのショスタコーヴィチ。この曲は2000年にも同じ顔合わせで演奏されているが、その時は聴きに行けなかったので、15年近くの時を経て(その間にショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏も敢行している)井上氏の解釈がどのように深化したのかを比較することはできないが、TVで放映された全曲演奏時の演奏(2007年12月)を思い起こす限り、解釈の基本線に大きな変化はないようだ。『ショスタコーヴィチ大研究』(春秋社, 1994)の序文で「四番はそのあまりにエゴイスティックな音楽の服装がいくらタコ好きな私もくさくて近づきたくない。いくら才能が大きくても、もろにみせつけ、ひけらかされれば僭越ながら私、降ります。」と書いていた人とは同一人物とは思えないほど、心からの共感に満ち溢れ、生気の漲ったスケールの大きな名演であった。プラウダ批判との絡みで陰鬱な悲壮感のような側面が強調されることも少なくない作品だが、プラウダ批判の記事が発表される前に書き始められたショスタコーヴィチの“初期作品”であることを忘れてはならない。傍若無人で八方破れなやりたい放題の音楽は、何よりとても楽しい。井上氏の指揮はこの楽しさが全編を貫いているのだが、それは彼の個人的な資質とも一致しているからか、“やり過ぎ”にすら思える演出が全てツボにハマっている。指揮台の上で飛び跳ねながら奔放な身振りでオーケストラの持てるエネルギーを最後の一滴まで絞り出そうとする井上氏に対して、オーケストラも(チャイコーフスキイとは打って変わって)極めて献身的に応えていた。技術面でのあら探し的なことはいくらでもできるが、紛れもないショスタコーヴィチの音がホールに鳴り響いていたことに対しては、率直に讃辞を送りたい。ただし、練習時間の大半が第1楽章に費やされたのか、第2楽章以降では楽想の急激かつ頻繁な転換を十分に咀嚼できていない感が否めない瞬間も少なからずあったのは残念。

終演後、井上氏と言葉を交わすことができたのだが、大熱演の疲れも感じさせず、私の顔を見るなり「コーダの最後に突然出てくるH-A-Cって音型だけどね、突然気付いたんだよ。これ、ロシア語で読んだら『われら』なんだよね」と目を輝かせて語ってくださった。私個人は、たとえば第12番のEs-B-Cなどの“音名象徴”に対して積極的な興味を持たないのだが、全曲を通して登場する様々な動機とは無関係の音型が、最後の最後(練習番号255と256のコントラファゴット、259のハープ)に意味ありげに現れるのは確かで、そこに何らかの意味を投影することが無意味だなどと言下に切り捨てることもできない。“われら(主格はмыで、насは生格/対格)”といえば、まずは1921年に書かれたザミャーチンの『われら(Мы)』である。ソ連国内では出版されないまま、ザミャーチンは1931年にパリに移住してしまうが、地下出版の形で読まれていたようなので、一級の文化人であったショスタコーヴィチがこの小説の存在くらいは知っていたとしてもおかしくはない。また、『証言』の第4章、アメリカ訪問のくだりで出てくる「彼(スターリン)は『われわれ』というように自分のことを呼んでいた(中公文庫版, p.263)」という一節も、思い出される。これらを踏まえて、第4交響曲のコーダを文学的に解釈することは十分可能であろう。井上氏による生き生きとした、若々しく時に荒々しい生命力に満ちた演奏は、それゆえにコーダの苦々しい不条理さが印象的で、その鍵となるH-A-C音型の解釈に思いを馳せつつ帰途についた。

素晴らしいスタートを切った井上&大フィルが、今後さらに刺激的な音楽体験をさせてくれることを期待したい。

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プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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