『ショスタコーヴィチ評盤記 II』


  • 中川右介・安田 寛:ショスタコーヴィチ評盤記 II, アルファベータ, 2009.
『ショスタコーヴィチ評盤記』(2007年)の続編を、今さらではあるが読了した。

著者(?)の2名が2007~8年にリリースされたショスタコーヴィチ作品の新譜を片っ端から聴き、忌憚のない感想や意見を言い合う対談形式の内容で、『クラシックジャーナル』誌に連載された記事に若干の加筆・修正を施したもの。前著と合わせても4年間という限られた期間ではあるが、その間の音盤データが網羅的に(もちろん、それが完璧でないことは著者らも認めていることだが)記録されているという点で、コレクターにとって有用な資料であることは言うまでもないだろう。アラ探し的に読めば、記述の中にはごく些細な間違い(たとえば、ディズニー映画の「ファンタジア2000」で使われているのがピアノ協奏曲第2番の第2楽章と記されている(P.45)が、正しくは第1楽章)もあるが、その程度のことは自分で補完できるような層が主たる読者なのだろうから、本書の価値を損なうようなものだとは思わない。

それにしても、ここまで論ずる対象を絞り込んだ企画が、同人誌ではなく、一般の出版社から発刊され、一般の書店に並ぶということが何より面白い。実際、前著以上に“楽屋オチ”風な二人の世界が濃密に展開されているので、この独特の雰囲気を許容あるいは受け流すことのできない読者は本書を敬遠しても仕方のないところだろう。ただ、そのハードルさえ越えてしまえば、なるほどこういう聴き方もあるのかと、新たな視点(もちろん、それに対する賛否は人によってまちまちだろうが)を少なからず提供してくれる書物だと言える。僕自身は、本書に出ている新譜の多くが未聴ながらも、十分に楽しんで読み通した。

ちょっとだけ気になったのは、本書のpp.102~103(2007年7月分)にある次の記述について:
中川
(前略)この曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)の若い女性による演奏は、去年何種類も聴いて、開放型と内向型とに分類できたけど、これは、どっちでもないというか、要するに、オイストラフを目指しているみたいなんだよね。だから、ショスタコーヴィチにおけるピリオド奏法という、新たな傾向。
安田
ピリオド奏法?
中川
そう。ソ連時代の奏法が、ショスタコーヴィチにおいてはピリオド奏法となる。誰かがブログにそう書いていた。
安田
なるほど。ソ連時代のロシアならではの特色ある演奏とはどういうものか、まだコンセンサスはありませんが、話としては面白いと思います。(後略)
この「だれかのブログ」が僕のこのブログだなどという自意識過剰なことを言いたいのではないが(そもそも、その当時はブログの形をとっていなかった)、僕自身も似たようなことを書いたことがある。それは、ベートーヴェンQによる弦楽四重奏曲第7~9番の世界初演ライヴ(meldac MECC-26019)について「ショスタコーヴィチにおいては、これがまさにピリオド楽器によるピリオド解釈ということになるのだから。」と述べた2003年8月18日の記事である。

僕のこの記述は、実のところ、渡辺和彦氏が何かの記事で書いていたことの受け売りである(出典を探してみたが、すぐには見つからなかった。単行本ではなく、雑誌記事だったのかもしれない)。この“ピリオド楽器によるピリオド解釈”という表現には、楽器(弦楽器ならば弦の種類など)および奏法(弦楽器ならば主にボウイングの流儀)の時代様式と、楽曲の捉え方(=解釈)の時代的な特徴という2つの要素が含まれる。本書の著者らは、後者の要素についてのみを取り上げて“ピリオド…”と言っているようだ。それは、p.145(2007年11月分)の記述などからも明らかである:
安田
(前略)昔の演奏をそのまま聴くような、内的な充実感がある演奏でした。世界が二つあった時代、大きな物語があった時代のショスタコーヴィチのオーラが感じられる演奏でした。(中略)
中川
それを、ピリオド奏法というんだよ、ショスタコーヴィチにおける。

ネイガウスやロストロポーヴィチの伝説的なレッスンの様子を聞き知っている人ならば、広範な文化的知識を背景に楽曲の構成や意味、気分を捉える、ロシア独特の楽曲解釈の伝統を知っていることだろう。それが現在でも主流なのか、あるいはより即物的な解釈法にとって代わられているのかは、僕ははっきりと知らない。ただ、解釈の流儀そのものが変化していなかったとしても、その文化的・社会的背景が時代と共に変化する限り、ショスタコーヴィチが作品を生み出した当時の楽曲解釈(=ピリオド解釈)が本質的に再現されることはあり得ない。それゆえに僕は、当時の録音(それを、ショスタコーヴィチが認めていたにせよ、いなかったにせよ)をショスタコーヴィチ作品を知る上で貴重な記録として重視することが多い。しかし、そのことと演奏の良し悪し(あるいは好き嫌い)とは直接的にリンクしないのは当然のこと。“絶対-相対”という表現に違和感はあるが、pp.232~233(2008年9月分)で述べられているのは、おそらくこのことなのだろう:
安田
(前略)我々のような古くからのショスタコーヴィチ聴きは、チェロ協奏曲の演奏というと、どうしてもロストロポーヴィチの呪縛からは逃れられないと思います。(中略)ロストロポーヴィチの演奏の価値が、〈絶対的〉なものという認識はなかなか崩れませんでした。今のオタク用語でいえば〈神〉ということになるんでしょうが。
中川
ヴァイオリン協奏曲においてはオイストラフがそうだったね。
安田
まさにそうで、その〈絶対的〉な演奏というのは、以前のビューローで中川さんがオイストラフの演奏を〈ピリオド・アプローチ〉と表現したのと同じ概念だと思います。〈絶対的〉ということは、結果的にそれが成功であったとしても失敗であったとしても、多くのチェリストがロストロポーヴィチの演奏を規範としようとしたことにもよく表れていると思います。(中略)九〇年代に入ると、ロストロポーヴィチのような〈絶対主義的〉な演奏から離れた、いわば〈相対主義的〉なアプローチもぼちぼち出はじめ、成功するものも多くなっていきます。(後略)

ただ、ピリオド奏法あるいはピリオド・アプローチというからには、それが再現可能なものであるはずだ。単に「強い思い入れが伝わる」演奏が、ロストロポーヴィチやオーイストラフの演奏を彷彿とさせるからといって、それをピリオド解釈と称することはできないだろう。僕が“ピリオド奏法”と言う場合には、主として楽器の奏法のことを念頭に置いている。たとえばヴァイオリンであれば、オーイストラフ時代のロシア流儀のボウイングというのは、一昔前のジュリアード音楽院の流派のボウイング、あるいはクレーメルの圧倒的な影響下にある(少々乱暴な括り方だが)点描的な音の出し方、さらにはブロン門下生の粘着質な音づくりなどとは明らかに異なる。独自の魅力を持ちつつも、今となってはある種の古めかしさも感じさせるこのボウイングを再現することこそが、「ショスタコーヴィチにおけるピリオド奏法」なのだと思う。

本書では興味を惹かれる考え方が少なからず披露されているのだが、この“ピリオド奏法”の例のように、言わんとしていることの意味は雰囲気で想像がつくものの、十分に吟味されているとまでは言いきれないものもある。対談の記録なのだから、それで当然なのかもしれないが、ちょっと惜しい気もする。

HMVジャパンHMVジャパン
スポンサーサイト

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D.

comment

Secre

プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新記事
カテゴリ
タグツリー
★ トップ(最新記事)
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
人気記事ランキング
RSSリンクの表示
リンク
音盤検索
HMV検索
検索する

音楽関係のブログ(リンク・更新状況)
PopUp WikipediaⅡ
記事中の気になるキーワードをマウスで選択してください。Wikipediaからの検索結果がポップアップ表示されます。
Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター