『クレムリンへの手紙』


  • ソルジェニーツィン, A. I.・江川 卓(訳):クレムリンへの手紙, 新潮社, 1974.
学生時代に所属していた京都大学音楽研究会が創立60周年を迎えるにあたり、同窓会が記念誌を編纂するとの連絡が届いた。内輪の気楽な文集ということもあり、自分自身の勉強を兼ねてロシア音楽史の概要をまとめてみようと、4月末の締め切りに向けて3月頃から準備を始めた。結局、締め切りには2週間ほど遅れて、3~4000字程度という指定を大きく超過する1万字強の原稿を提出した次第。編集担当の方々には多大なご迷惑をおかけしたことを、この場を借りてお詫びしたい。

ニコラーイ一世時代の教育大臣ウヴァーロフが提唱した「正教・専制・国民性」という国民教育のスローガンは、その政治的あるいは思想的な意味や意義はともかく、ロシア文化を理解するキーワードとしては、それをよく要約したものだと思う。記念誌への投稿文では、この3つの観点からロシア音楽史を整理しようと構想したのだが、4月25日の記事でも少し触れた「正教」の勉強に時間がとられてしまい、結局「国民性」が焦眉となるグリーンカの登場までしかまとめることができなかった。この調子で10年毎の記念誌に書き続けるとすれば、ショスタコーヴィチに到達する頃には還暦を迎えることになりそうだ。大風呂敷を広げてしまった、としか言いようがない。さらに恐ろしい(でも楽しみ)なのは、17世紀以前のロシア音楽は僕にとって未知の領域で、順序が逆である感は否めないが、文中に取り上げた様々な作曲家や作品の数々をこれから聴き尽くしていかねばならないことである。

話を戻すと、残る「専制」については、それが音楽作品の内容に直接関わってくるような時代にまで記述が届かなかったので、ロシア文化にそういう要因があることを示唆するにとどまった。それでも、何らかの言葉を連ねるには、最低限の勉強をしなければならない。何冊か手持ちの本を読み直していると、亀山郁夫氏の『熱狂とユーフォリア』(平凡社, 2003)の中に引用されていた、ソルジェニーツィンの言葉が印象に残った。
しかし、一世紀以上にもわたってその全精力を専制との闘争に捧げてきたロシアのインテリゲンチヤにしても、あれほどの尨大な犠牲を払って自分のために、一般民衆のためにいったい何を獲得しただろうか?むろん、逆の結果である。してみると、ロシアにとってこの道は誤まりであり、もしくは時期尚早であると認めなければならないのではないだろうか?おそらく、予測可能な将来については、われわれが望むと否とにかかわりなく、そのように予定すると否とにかかわりなく、ロシアはどのみち専制を運命づけられることになるのではないか?ひょっとしたら、ロシアはいまようやくそこまで成熟したのではないだろうか?
すべては、今後われわれを待っているのがいかなる専制であるかにかかっている。専制そのものが耐えがたいのではなくて、耐えがたいのは、日々押しつけられるイデオロギー的嘘なのだ。我慢がならないのは、専制というよりはむしろ横暴と無法、それも、各地区、各州、各部門に一人の権力者がいて、すべてが彼の個人的意志、それもしばしば無学な、冷酷な人間の意志によって行なわれる、度しがたい無法状態なのだ。(p.66)
これは、『クレムリンへの手紙』からの一節である。せっかくの機会なので、古本を取り寄せて読んでみた。

この文書は、『収容所群島』がKGBに押収され、自身が逮捕され、国外追放に至る前夜に書かれた。中ソ対立の最中、祖国の危機を憂いた政治的な背景を持つ文学作品とでもいったところか。

ところが、文中のあちこちに、まるで現在の日本を預言しているかのような記述があり、愚かな政治というのは国や民族や時代を超越した人類普遍の原理なのかもしれないと、妙に感心した。以下、特に心に残った箇所を、抜粋してみる:
われわれは、かちとられた男女同権と幼稚園をしきりと自慢するが、すべてこれらが家庭の崩壊と引きかえに得られたものであることは隠している。実を言えば、女性の同権とは、男性と同数の職、同数のポストを占めることにあるのではなくて、たんに、これらすべてのポストから女性が締め出されてはいないことを意味するだけなのである。現実問題として男性の賃銀は、家族に二人とか、四人とかの子供を抱えている女性が別個に賃銀をもらわなくてもすむほどの額、女性がその家事労働と心づかい以上に、さらに金銭をもって家庭を維持しなくてもすむような額でなければならない。相次ぐ五カ年計画に少しでも余分の人手を得ようとして、われわれは男性に対してかつてそのような額の賃銀を支払おうとはしなかった。したがって家庭の崩壊と破産は、五カ年計画に対してわれわれが支払っている悲惨な代価の一つなのである。(pp.50~51)
ソ連・中国国境ですでに最初の砲声がとどろきはじめてから、わが国の民族意識の不足、不明確さにともなわれた二重の不安定状態に陥らぬよう、自戒されるがよい。(p.57)
わがロシアにおいては、まったくの不慣れのために、民主主義はわずか八ヶ月―― 一九一七年の二月から十月までしか存続しなかった。立憲民主党と社会民主党の亡命者グループで、いまだに存命している人たちは、今日でもまだそれを誇りにしており、外的な力が彼らのその民主主義を亡したのだと言っている。だが実際には、その民主主義は彼らの恥辱だったのだ。彼らは野心満々それを呼号し、約束したのだったが、実現されたのはわけのわからぬ、むしろマンガ的な民主主義であって、民主主義への準備ができていなかったのはまず第一に彼ら自身であり、ましてやロシアにはその準備などあるはずもなかったのである。(pp.64~65)
われわれは、四年ごとに政治家のみならず全国民がほとんどあげて選挙戦にかかりきりになり、大衆におもねり、これによって大きな利益を得るのは、国内の諸グループにもまして、むしろ諸外国の政府であるといったような、あるいは、裁判所が自身に保証された独立をないがしろにして、困難な戦争のさなか国防省の文書を盗み出して公表した人間を、世論の過熱におもねって無罪と宣言するような、そのようなでたらめな≪民主主義の放埓≫の傾倒者ではない。また、確立した民主主義のもとでさえ、その運命的な岐路の選択が情緒的な自己欺瞞の結果によって、あるいは、二つの大政党にはさまれた人気のない少数党に由来する偶然的な勢力関係の変化によって行なわれることがしばしばであり、けっして多数意志を表明するとはいえないこの取るに足らぬ勢力差の逆転から(多数者の意志にしても虚偽の方向を取ることは免れない)、国家的なさらには世界政策の最重要な問題が決定される場合がいくつも見られる。…(中略)…それより何より、もっとも尊敬すべき民主主義が洟たらしのテロリストの一団の前にまったくなすすべも知らないのである。(pp.63~64)
とりわけ、最後の引用文の末尾にある“洟たらしのテロリストの一団”という表現は、「事業仕分け」という名の狂乱を現在進行形で見せつけられている我々にとっては、圧倒的な迫力をもって胸に響く。

訳者である江川氏の訳注も充実したもので、この表現の背景にドストエーフスキイの『悪霊』があることが指摘されている。ソルジェニーツィンは文中で「一億の人間」という表現を引用しているが、これは『悪霊』の中でピョートル・ヴェルホーヴェンスキーが仲間を扇動する言辞の一節である:
ぼくは諸君に質問します、諸君はどちらを取りますか――社会主義小説を書いたり、何千年も先の人類の運命をお役所式に紙の上で予定したりする悠長な方法ですか。ただしその間に専制政治は、まっすぐに諸君の口にとびこんでくるはずのところ、諸君が受けそこなって素通りさせている焼肉をぱくぱくと呑みこんでしまいますがね。それとも諸君は、その方法はどうであれ、ついには束縛を解き放って、自由の天地に人類自身が自分たちの社会を築きうる――それも紙の上にではなく、現実に築きうる機会を与えるような、そういう早急な解決を支持しますか?《一億の首》うんぬんとさわがれていますが、これはまあ比喩にすぎないとしてもですよ、のんびりと紙上の空想にふけっているうちに専制政治が百年かそこらの間に一億はおろか、五億もの首を食いつくしてしまうとしたら、その《一億の首》だって恐れる必要がどこにあります?(『悪霊』下巻, pp.63~64)
本ブログでは、僕個人の政治的・思想的な主張を、なるべくしないようにしている。とはいえ、全てが狂っているとしか言いようのない現在の政治状況に照らして、このソルジェニーツィンの文書を読むならば、それが一流の文学者の手によるものだからこそより一層、辛辣でありながらも深刻かつ真摯な思考の気高さに強く心を揺さぶられる思いがする。

本書には、同時期の文書『嘘によらず生きよ』も収録されている。その末尾は、デカブリストの蜂起(1825年)の2年前にプーシキンが書いた詩の一節で締められている:
草を食め、おとなしい民よ!
正義の呼びかけも きみらを目醒ませはしない。
家畜の群に自由の贈りものが何になる!
屠殺され、毛をむしられるが、きみらには相応!
子々孫々 かれらが伝える遺産は
小鈴のついたくびきと 長鞭のみ!(p.124)
僕は一人の人間として、プーシキンに軽蔑されるような人間ではありたくないと、己の無力さを自覚しつつもそう思う。

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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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