O. ディゴーンスカヤ:交響的断章(1945年), DSCH社―(1)

12月2日の記事に記したように、さっそくショスタコーヴィチの交響曲第9番の初稿とされる交響的断章(1945年)の初出版譜(DSCH社)にある論文を訳出してみた。最低限の意味が通じればよいと開き直り、訳の精度は悪く、また日本語としてもこなれていないが、何卒ご容赦いただきたい。なお、それなりの分量があるので、2回に分けてエントリーする。



この度出版される管弦楽曲は、2003年の末に本報の著者によって、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの文書保管所1の未確認の手稿の中から発見された。自筆譜は、以下の編成による管弦楽総譜で構成されている:2 Fl. picc., 2 Fl., 3 0b., C. ingl., Cl. Picc. (Es), 3 Cl. (B), Cl.b., 3 Fag., C-fag., 4 Tr-be, 4 Cor., 4 Tr-ni, 2 Tube, Timp., T-ro, P-tti, Sil., V-ni I, II, V-le, V-c., C-b.

外観は、二つ折り両面6枚の大判の総譜用五線紙(「PASSANTINO BRANDS No.30-30 Staves; printed in the U.S.A.」46.5×31.8)にショスタコーヴィチの自筆で書かれており、作曲家自身が1~24のページ付けをしている。自筆譜は322小節から成り(内1小節は斜線で消されている)、黒(最初の192小節)と青いインクで書かれている。小節線は鉛筆で書き込まれている2。最初のページには、速度表示:Allegro non troppo、調性:変ホ長調、4/4拍子であることが記されている。練習番号は、1~16(その先は書き込まれていない)まである。書き込みは24ページの終わりで中断している。したがって、残りは紛失したか書かれなかったのだろう(後者の方がよりありそうである)。

五線紙は、歌劇『賭博師』の自筆ピアノ・スコア(1942年末~1943年初めの日付がある)の中にはさみこまれていた。この2つの手稿の見た目(黒と青のインク、筆跡、紙)の類似性は、これらが間違いなく同時期に書かれたことを示している。問題の時期に時間的に近いこともあって、ショスタコーヴィチの実現されなかった交響曲の構想を調べることは、第9交響曲(周知のように、複数の段階に分けて書かれた)へとつながった。そしてこの手稿をこの交響曲の未完の初稿と特定することができた。


交響曲第9番 変ホ長調 作品70は、1945年8月2日に書き始められ、同月30日に完成した。しかし1944年という早い段階で、ショスタコーヴィチは、ドミートリイ・ラビノーヴィチとの個人的な会話において、彼が新しい交響曲(戦争交響曲三部作の荘厳で記念碑的な最終作)について構想を練り始めたと述べた。「適当な素材を見つけることができ、恥ずかしげのない真似事をしようとしていると疑われることを恐れないのならば、オーケストラに加えて合唱と独唱のためにその交響曲を書きたいと思っている3。」

同時代人の証言によると、ショスタコーヴィチは1945年1月15日4にスケッチを書き始めた。「1945年1月半ばに、」と彼の生徒であった作曲家エヴゲーニイ・マカロフは回想する。
「ドミートリイ・ドミートリェヴィチは、第9交響曲を書き始めた。私達は、以下のようにしてこのことを知った。火曜日、私の思い違いでなければ、1月16日に、私達はドミートリイ・ドミートリェヴィチの家で勉強していた。彼が私達の作品をチェックした後、私達は雑談を始めた。私は、彼の主要作品においてほぼ全ての最初の楽章がなぜ遅いテンポなのか、ドミートリイ・ドミートリェヴィチに尋ねてみた。ドミートリイ・ドミートリェヴィチは、それを説明しようとはしなかった。あるいは、説明できなかったのかもしれない。彼はただ、これがうまくいった方法なのだと言った。「しかし」、と、彼は付け足した。「私にも速いテンポの第1楽章はあります。たとえばピアノ・ソナタ第2番や、書き始めたばかりの新しい交響曲などです。新曲の第1楽章は速いものになるでしょう。とても速い、ではなく、速い 、つまりAllegro moderatoです。」後ほど、彼が交響曲の作曲をつい最近、実はその前日(筆者注:すなわち、1月15日。)に始めていたこと、そして提示部が既に書き上げられていたことが明らかになった。1週後、私達は交響曲の進捗状況を尋ねた。ドミートリイ・ドミートリェヴィチは、展開部の半ばまで仕上げていた。「作曲は大変だ」と、彼は言った。「というより、書くこと自体に多くの時間を取られているのです。私は、直接スコアに書き下しています。交響曲は、壮大なトゥッティで始まります5。」


交響曲の冒頭を聴いた音楽家達は、それを「精力的なテンポを持つ、英雄的な長調の、勝利の音楽6」で、ナチスの最終的な敗北と戦争の終わりを目前に控えた社会の雰囲気に応えた作品だと記した。作曲家がこの交響曲を突然中断し、「そして結局再開することはなかった」ことが分かっている。その後1年以上の沈黙を経て彼は、上述した第9交響曲に次いで別のヴァージョンを書き始めたが、それもまた未完成に終わったと述べている7

しかし、ショスタコーヴィチが第9交響曲の破棄されたヴァージョンに一度“戻った”ことを示す事実がある。1945年の春、作曲家は彼のところにいたイサーク・グリークマンに、「そのスケール、叩きつけるような感情、そして息をのむような動きにおいて荘厳な第1楽章の草稿を見せた。彼はおよそ10分間演奏し、その交響曲に関する多くの事柄、特に、多くの人がベートーヴェンの第九と比較してしまうであろうその番号が悩みの種であると言った8。」グリークマンの日記は、この出来事の正確な日付(1945年5月16日)を与える。またその直後に、この作品に対する作曲家の態度について今まで知られていなかったニュアンスも詳しく書き留められている。「私は、散歩から戻って来たばかりであった。ドミートリイ・ドミートリェヴィチは、スコアを書いている…彼は新しい第9交響曲の草案をざっと見て、それがそれほど悪くないと悟った。『もちろんのこと、これは酷い出来です。でも、人が期待するほどは悪くない。』それから、曖昧な笑顔を浮かべながら神経質に書斎を行ったり来たりして、突然言い出した。『ひどい出来だが、プロコーフィエフ以外の他の作品よりは、たぶんましでしょう。』私は、彼が書いたものを演奏してくれるように頼んでみた。彼は、ピアノ演奏用に書いていないために弾くのが困難だと言った後でピアノの前に座り、鉛筆で走り書きした数枚の楽譜を置いて9、弾き始めた。テンポはAllegro。速く、神経質に緊張した行進曲が、聴こえてくる。流れるような力強いフレーズは一つの音塊に凝集し、全ては極めて正確かつ求心的である。行進曲風のリズムと刺激的な拍動、交響的な激情の持続的な流れは、気分を高揚させる。“一般大衆”に媚びるような、陳腐な小節は一つもない。交響曲は1945年1月15日に書き始められたが、数カ月の間、ショスタコーヴィチはそれに手を入れていなかった10。」



  1. 現在の書架番号は以下の通り:rec. gr. 1, section 1, f. 295

  2. スコアを清書する時はいつも、ショスタコーヴィチは小節線を鉛筆で書いた。若い頃に身に付いた習慣に、彼は生涯を通して忠実であった。かつて、映画音楽「馬あぶ」に取り組んでいるショスタコーヴィチを見たヴェニアミン・バスネルによると、彼は「まず、オーケストレイションにとって特に重要なことを示すスケッチとして、いくつかの旋律線で全体のテクスチャーを描いた。それから、事実上の清書を作った。ただし、小節線は書き込まなかった。彼は各小節を上から下まで書き、定規を使ってきちんと小節線を引き、とても速く、そしてとても手際よく書き続けていく。」(S.M. Khentova, In Shostakovich's World, Moscow, 1996, p. 191, in Russian)

  3. D. Rabinovich, Dmitri Shostakovich - Composer, Foreign Languages Publishing House, Moscow, 1959, p. 96 (M. Iakubov, “D.D. Shostakovich. The Ninth Symphony. Transcription for Piano in 4 Hands”, in: New Collected Works, Vol. 24, DSCH Publishers, Moscow, 2000, p.106 からの引用)。上記の会話がいつなされたかについて、確かなところはわかっていない。ゲーンリフ・オルローフ(G. Orlov, The Shostakovich Symphonies, Leningrad, 1961, p.220, in Russian 参照のこと)とマナシール・ヤクーボフは、1944年春だと推測している。しかし、元の出典では日付は示されていない。

  4. 第9交響曲に関する最初期のメモは、1944年になされたと考えられる。異なる作品のための散在しているスケッチや草稿の中で、将来の第9交響曲の調性、すなわち変ホ長調で書かれた3つの未確認のスケッチ(文学・芸術に関するロシア国立文献保管所 (RSALA), rec. gr. 2048, inv. 1, f. 63, sheet 17)が注目に値する。それらは、18段、34.8×27.4の五線紙に、青いインクで書かれている。インクと紙(落丁を含む)は、第9交響曲に先立つ作品―ピアノ三重奏曲 作品67(RSALA, rec. gr. 2048, inv. 1, f. 28)及び弦楽四重奏曲第2番 作品68(グリーンカ記念国立中央音楽文化博物館, rec. gr. 32, f. 74)―で作曲家が使用したものと同一である。これらの作品は、いずれも1944年に作曲された。したがって変ホ長調のスケッチも、同じ年のものだとほぼ確定され得る。スケッチに記された主題の特徴は、大規模な交響曲の構想を示している。この記述に符合する1944年の構想が、第9交響曲であった。

  5. E.P. Makarov, Diary (Recollections of My Teacher D. D. Shostakovich), Moscow, 1998, p. 22 (in Russian).

  6. D. Rabinovich, 前掲書.

  7. 同上。

  8. Letters to a Friend. Dmitri Shostaovich to Isaak Glickman, Moscow, St. Petersburg, 1993, p.70 (in Russian).

  9. グリークマンは、1つだけ間違っている。第9交響曲の初稿のためのスケッチは、鉛筆ではなくインクで書かれている。本報の著者は、グリーンカ記念国立中央音楽文化博物館にあった未整理のショスタコーヴィチ草稿の中から、3枚の18段(35~26)スコアを発見して再構成した。それは黒いインクで仕上げられていて、余白には楽器編成が書き込まれており、特に重要なことは、作曲家によって「15/I 45」と日付が書かれている。音楽的な見地からは、その草稿はドミートリイ・ショスタコーヴィチの文書保管所にあるスコアと一致し、第9交響曲の決定稿のためのスケッチ(現在の書架番号は以下の通り:グリーンカ記念国立中央音楽文化博物館, rec.gr. 32, f. 2153)であることに疑いの余地はない。「15/I 45」という日付は、そのスコアの素性を確定するに至る決定的な要因であった。

  10. ドミートリイ・ショスタコーヴィチの文書保管所、rec. gr. 4, section 2, f.1, sheets 1 rev., 2, 2 rev。グリークマンの記述は、ショスタコーヴィチが第9交響曲の2度目の試みを、明らかに1月に始められた初稿への回帰として考えていたとする推測を可能にする。ドミートリイ・ラビノーヴィチはこれとは異なり、他の版が存在するという証拠など何もないと断定している。1945年5月に作曲家がスコアに手を入れたという事実は、手稿譜のインクの色が異なるということで確認される。193小節以降は、黒ではなく、青色のインクで書き込まれている。交響曲のスケッチは黒のインクで書かれているが、青色のインクによる修正の痕跡もある。

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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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