O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(1)

2010年12月2日および2011年1月4日の記事で言及した、ブラガの「セレナータ」の編曲の楽譜に掲載されている論文を訳出してみた。長文のため、7回に分割してエントリーする。



ほぼ半世紀の間、チェーホフの「黒衣の僧」は読書家、作曲家、そして思想家としてのショスタコーヴィチの心を占めていた。しかし、彼の人生における一種の“ライトモチーフ”となっていたものの、それが舞台音楽の形をとることはなかった。チェーホフの散文(と「黒衣の僧」)に対する作曲家の例外的に深くて熱心な内省1は、期待されたような歌劇の傑作として結実しなかった。

実現することのなかったこの組み合わせに関する情報(それは、ショスタコーヴィチの作曲家人生におけるとても興味を惹かれるエピソードであり続ける)は、断片的でわずかなものしかない。それでも、いくつかの新しい資料が示唆するように、今まで気に留められることのなかった詳細を明らかにするだけでなく、更なる分析が必要とされている。

ショスタコーヴィチが「黒衣の僧」について言及したのは、知られている限りにおいて1926年1月1日が最初である。ボレスラフ・ヤヴォールスキイに宛てた手紙2の中で、ショスタコーヴィチは初めて自分をコーヴリンになぞらえた。「私は総じて夢というものを信じませんが、12月31日から1月1日にかけての夜、私を何か不安にさせるような夢を見ました。その夢はとても平凡なもの3でしたが、それでも、あなたにお話ししてみようと思います。私が砂漠を歩いていると、突然、白衣を纏った“年配の修道僧”が私の方へやって来ました。『今年は、あなたにとって幸せな年になるだろう』と、彼は言いました。この瞬間、私は非常に喜んで跳び起きたのです。前の晩は午前3時に寝たというのに、嬉しさのあまり朝まで寝付くことができず、何度も寝返りを打ちました4。なんて不思議なことでしょう!私は今、チェーホフの小説『黒衣の僧』のことを考えています。そして、コーヴリンがこのような大喜びの状態で、どうしたらよいのか分からなくなっていたことを思い出しています5。なんて不思議なことでしょう!」

ここから分かるように、プーシキンの詩「預言者」やそこに登場する“6つの羽を持つ天使”の特徴と結びつく白衣が暗示することは、若きショスタコーヴィチによって明確な解釈を与えられている。すなわち、白衣を纏った“年配の修道僧”は、「黒衣の僧」に関係しているということだ。近年の研究成果を踏まえると、ショスタコーヴィチの夢は、アレクセーイ・スヴォーリンに宛てた1894年1月25日付けの手紙の中に書かれたチェーホフ自身の夢の自由な解釈とも考えられる。「私は『黒衣の僧』を、陰鬱な考えなどではなく、穏やかな内省のもとで書きました。(中略)私は修道僧が野原に浮かんでいる夢を見、朝起きるとすぐにそのことをミーシャ6に話しました」。チェーホフの小説の主人公が作家の夢の中に出てきたということを、ショスタコーヴィチは1925年末の時点で知っていたのだろうか?もしそうだとすれば、そのような文脈においては、彼自身の夢は非常に重大な意味を持つことになる。つまり、ヴォルテールに倣えば「もしそれが存在しないなら、それを発明しなければならない」ということだ。もちろん、“元ネタ”との明らかな類似は除去されている。そして、黒衣の僧にわざと白を着せ、野原を砂漠に入れ替え、また「平凡なもの」と断ることで、夢(彼がそれに大きな重要性を与えようとしたことについては、疑う余地がない)の持つ意味を軽く感じさせようとしたのは、ショスタコーヴィチがしたことなのだろう。不誠実と非難されることを覚悟の上で、次の仮定を検証してみたい。若き作曲家が見た美しくも象徴的な初夢が、ロマンティックな借用である彼の想像力が生み出した虚構でしかないということは、あり得るだろうか?彼は、お気に入りの作家に自分をなぞらえたいと願い、また同時に、文学上の事実を自分の伝記の出来事とするために、その夢を発明したのだろうか7?今のところ、この疑問に対する答えは得られていない。しかし、夢の重要性は他にあるはずだ。1926年(交響曲第1番の初演と大成功の年である)になる大晦日のショスタコーヴィチと「黒衣の僧」との出会い(それが創作か夢かはさておき)は、彼の創作活動と人生の一ページとなるべくしてなったに違いない。

その後の15年間、チェーホフの小説に対するショスタコーヴィチの興味が減退することはなかったという、明確な根拠はない。しかしながら、1943年までには既に、ショスタコーヴィチが歌劇の題材として「黒衣の僧」の筋書きを検討していたことが明らかである。作曲家は、彼の生徒であったレヴォリ・ブーニンに、舞台音楽に対する最初の試みとして、「黒衣の僧」を執拗に薦めた。後に、ブーニンは次のように回想している。「私が交響曲(1943年)を書き終えた後、ドミートリイ・ドミートリェヴィチは、チェーホフの小説『黒衣の僧』に基づく短い歌劇を作ってはどうかと提案しました8」。

1943年にもまた、「チャイコーフスキイに関する考察」という小論の中で、ショスタコーヴィチはチャイコーフスキイとチェーホフがよく似た“人生における悲劇の感覚”を共有していることに注目し、長編小説「黒衣の僧」は「まるでソナタとして書かれているといってもいいほど、ロシア文学のなかでも最も音楽的な作品である9」という、後に有名になった寸評をした。1960年には、作家の生誕100年を記念する「他に並ぶ者はいない!」という記事で、ショスタコーヴィチは以下の意見を明言した。「私は、チェーホフの長編小説『黒衣の僧』が、ソナタ形式で作られた作品だと見なしている10」。



  1. 以下の文献を参照のこと:Bartlett R. ‘Shostakovich and Chekhov’ in Shostakovich: Mezhdu mgnoveniem i vechnostyu [Shostakovich: Between the Momentary and the Eternal]. L. Kovnatskaya(編). SPB. 2000.

  2. GSCMMC(グリーンカ記念国立中央音楽文化博物館), f. 146. rec. gr. 3249. 以下の文献では、n. 3250と間違って記載されている:Dmitry Shostakovich, v pismakh i dokumentakh [Dmitry Shostakovich, in Letters and Documents]. I.A. Bobykina(編). M. 2000. p.51. 活字に起こされた原稿の不正確さを考慮し、この手紙は著者の直筆から引用した。

  3. 前掲書では、「悲しい(печален)」(!)と間違って引用されている。

  4. 前掲書では、「床に伏していた(провалялся)」と間違って引用されている。

  5. この最後の部分は、彼自身のコメントによって、ショスタコーヴィチが明らかにそれと意識しないまま、2つの異なるチェーホフの小説(「黒衣の僧」と「芝居がはねて」)からのエピソードを繋ぎ合わせていることを示している。物語の主人公達は、同じような状況(夜に、そして一人で)で、未来にさらに大きな喜びが得られるという予感のある、同じような大いなる喜びの感覚を経験する。次の2つの文章を比較してみてほしい。「彼(コーヴリン)はソファに腰をおろして、自分の全存在を満たしているわけのわからぬ喜びを抑えながら、両手で頭をかかえた。それからまた部屋のなかをひとめぐりすると、仕事にとりかかった。けれども、本からえられるさまざまな思想は彼を満足させなかった。なにかとてつもなく大きい、果てしのない、驚くようなものが欲しかった。明けがたになって彼は服をぬぎ、しぶしぶベッドに横になった。やっぱり眠らなければ!」(Chekhov A.P. Sobr. Soch [Collected Works] in 12 vols. M. 1962. v. 7. pp. 300-301)、「彼女(ナージャ)は(中略)考えながら嬉しくてならず、あらゆることが好もしく、すばらしいように思われた。喜びは彼女にささやいた――それはまだまだすべてではないよ、もうすぐもっともっとよくなるよ、といって。(中略)彼女は庭や、暗やみや、澄みきった空や、星がたまらなくなつかしくなった。(中略)彼女はベッドのほうへ近寄って腰をおろし、自分を悩ますこの大きな喜びを持てあまして(下線は筆者による。O.D.)、ベッドのもたれにかかっている聖像に目をやって言うのだった。『神さま! 神さま! 神さま!』」(同上. pp. 80-81.)

  6. Chekhov A.P. Sobr. Soch [Collected Works] in 12 vols. M. 1964. v. 12. p. 43.

  7. このような可能性を示唆するのは、V. M. ボグダーノフ=ベレゾーフスキイに宛てた16歳のミーチャ・ショスタコーヴィチによる1922年8月26日付けの手紙の中にある“借用”の同じような例である。「今、私の2人の隣人は、名前を検討しています。スミールヌイは、いくつかの魅力的な名前を提案しています。ゴレンドゥハ、ソッシイ、モーキイ、ホザザートなどです」(ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 3, sec. 1, rec. gr. 2)。ゴーゴリの「外套」からの次の箇所と比較してほしい。「お袋は(中略)モーキイとするか、ソッシイとするか、それとも殉教者ホザザートの名に因んで命名するか、とにかくこの三つのうちどれか好きな名前を選ぶようにと申し出た」(Gogol, N.V. Sobr. soch. [Collected Works] in 6 vols. M. 1959. v. 3. p. 129)。このことが、歌劇「鼻」を作曲するずっと前から、ショスタコーヴィチが現実の会話の代わりにゴーゴリ風の文言を日常生活に取り込もうとしていたことを表している可能性は、大いにある。

  8. Bunin R.S. ... With profound gratitude. Sovetskaya muzyka[Soviet Music]. 1976. n. 9. p. 15.(Dmitry Shostakovich v pismakh i dokumentakh [Dmitry Shostakovich in Letters and Documents]. p. 52. からの引用)

  9. Literatura i iskusstvo [Literature and Art]. 1943. 7 November.(Shostakovich o vremeni i o sebe: 1926-1975 [Shostakvoch about Himself and his Times: 1926-1975]. M. Yakovlev(編). M. 1980. p. 108. からの引用)

  10. Literaturnaya gazeta [The Literary Gazette]. 1960. 28 January.

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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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