O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(2)

これら2つの文言は、文学の専門家の間でも一字一句変更することなく、しばしば引用された。しかしながら、ショスタコーヴィチと文芸評論家のニコラーイ・フォルトゥナートフとの間で「黒衣の僧」に関して1971年末に交わされた往復書簡(議論は、フォルトゥナートフが主導した11)は、予想外の解釈を引き起こした。その解釈には、慎重な検討が必要であるように思われる。ここで、フォルトゥナートフによって示され、さらに今まで知られていなかった情報によって確定された、事実の正確な前後関係を示そう。

往復書簡のきっかけとなり、フォルトゥナートフの「チェーホフの散文の音楽性(形式分析の試み)12」の元になったのは、「黒衣の僧」の構造的特徴に関するショスタコーヴィチの評言(「まるでソナタとして書かれている」、「ソナタ形式で作られた」)であった。「著者フォルトゥナートフから、ドミートリイ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチへ。ゴーリキイ、1971年」という献辞が添えられた論文の抜き刷りが、その評言に対する返礼として、ショスタコーヴィチへと送り届けられた13。1971年12月3日にバルビーハで書かれた礼状の中で、作曲家は、自分にはどうしようもない状況のために返信が遅れたことを詫びた(「私は重い病に伏しています。2ヵ月の間、入院していました。今は、サナトリウムで回復しているところです14」)。その手紙ではフォルトゥナートフの論文を非常に賞賛している。「とても面白い論文をありがとうございました。そこには、チェーホフと音楽に関する極めて価値ある正確な考察が含まれています」。手紙や文章を書く時のショスタコーヴィチの姿勢を知っている者ならば、これらの言葉が誠実かつ善意から書かれていることに何の疑いも抱かないだろう。そこに用いられている最上級の表現(“とても”面白い、“極めて価値ある正確な”)は、その手紙が儀礼的で形式的な、何も意味を持たない返信と解釈する余地を除外する。特に、作曲家が礼儀正しさを遵守するために形式的にはぐらかすような感謝の表現をとる時の、よく知られたケースを考慮するならば、それはなおさらのことである15。すなわち、1971年1月の初めにショスタコーヴィチがイサーク・グリークマンに語った「受け取った手紙を読むことは不愉快で面倒であり、同時にまたそれに返信することは拷問でしかない16」という言葉を考えると、フォルトゥナートフの論文に対する彼のコメントは、丁重で特別な関心を示しているものと見なし得る。

この時までに彼の論文は発表されていたが、フォルトゥナートフはこの問題について往復書簡を続けた。それは、「黒衣の僧」の構造に関するショスタコーヴィチの定義の中に、彼が見出した矛盾点に固執したからであった。ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスで最近発見されて初出版された12月12日付けのフォルトゥナートフの手紙を、以下に全文掲載する。
親愛なるドミートリイ・ドミートリェヴィチ


ご丁寧なお手紙、どうもありがとうございました。そして、私の論文に対するあなたの評価は、チェーホフの短編小説の構造的特徴についてのあなたの考察と同様、私にとって極めて大切なものです。この非常に独創的で素晴らしい考察は、間違いなく、私達が必要としているチェーホフの批評研究の分野を確立することの一助となり、文献学的研究に積極的な刺激を与えるものです。そして、その観点を拡大することで、チェーホフの“音楽的”才能の理解に近付き得るのです。

私には、完全に解決していない一つの疑問があります。私は、是非ともあなたのご意見を伺いたいと思います。それは、この疑問を解消させてくれるのが、唯一あなただけだからです。


「黒衣の僧」の構造に関するあなたの解釈に、異なる見解が含まれることを、どのように説明すればよいのでしょうか?1943年のチャイコーフスキイに関する素晴らしい文章(読み返す度に、私に喜びを与えてくれます)の中で、「黒衣の僧」について、あなたは「まるでソナタとして」書かれてた作品だと述べられています(問題の記事は、「チャイコーフスキイに関する考察」, 文学と芸術, 1943年11月7日)。しかしながら、エイブラム・ダーマンの著書(Chekhov's Mastery, M. 1959)には、次のような記述があります。「D. D. ショスタコーヴィチは、その構成という点において『黒衣の僧』が交響曲のように作られていると考えている(p. 117)」。残念なことに、後者で触れられている発言の参照元は示されていません。それは個人的な会話の中でなされたのか、それとも大勢の人の前でおっしゃったことなのか、あるいは出版物からの抜粋なのか、よく分かりません。あるいは、一般の文学愛好家を対象とはしない特別な分析だったのでしょうか?しかも、ソナタあるいは交響曲というのは循環的な形式で、ソナタ形式そのものの構造とは本質的に異なります。作品について考察を深める過程の異なる段階でなされた「黒衣の僧」に関するこれらの定義には、あなたにとって重要な、特定の結論や手法に由来する隠された意味があるようにも思えます。ここで何らかの推測をすることはできますが、それは仮説以上のものではありません。この“進化”すなわち、「黒衣の僧」の構造とソナタ形式との間の類似性を指摘した定義の変化を説明することができるのは、あなただけなのです。以上が、私にとって疑問の残る点です。


私の深い敬意と、あなたの健康と速やかな快癒を何よりも願いつつ

フォルトゥナートフ

12. XII. 197117


この論証的な手紙に対するショスタコーヴィチの返信は、モスクワから1971年12月23日に投函された。それは簡潔で短く、そして明快なものである。彼は自分の記事のことだけは、確かに覚えている。「チェーホフの小説『黒衣の僧』のことを思い起こせば……私は、この作品がソナタのように作られていると書きました。この私の考えがどこで引用されたかは知らないし、覚えてもいません」。手紙の調子からは、随分昔にしたコメントに関して長々とした議論をすることを、ショスタコーヴィチが明らかに渋っていることがはっきりと分かる。そのコメントは衝動的に生まれたものであり、彼の意志に反して文学界の学術的研究に“波紋”を巻き起こすような「進化」や「考察を深める過程」だとか「隠された意味」などは何もなかったのである。彼に押しつけられた音楽学者や画期的な考えの先駆者としての役割は、作曲家にとって明らかに不愉快なものだった。手紙の調子は総じて礼儀正しいとはいえ、断固とした否定(「私は知らないし、覚えてもいません」)から露わになるのは、多忙で疲れているところに、彼にとっては副次的で、特にこの時点においてはほとんど興味のないことを思い起こされたことによる苛立ちである。手紙の形式的な礼儀正しさ(そして、その話題を終わらせたいという明白な望み)を確認することは、表面的にはそれほど重要ではないが、実際には大きな意味を持つ。フォルトゥナートフへのショスタコーヴィチの3通の手紙の内、これはタイプされたものに手書きの署名がされた唯一のものである。このような手紙は、概して、ショスタコーヴィチが口述したものを秘書がタイプするか、標準的な文例に従って秘書が作文するかのどちらかであり、作曲家はそれに署名をしたのである。12月23日の手紙には 作曲家の話し口調を見出すこともできる。したがって、恐らくは、前者のパターンだろう。

フォルトゥナートフの著書によると、彼はショスタコーヴィチに、未解決の問題や定義についてさらに詳しく述べた3通目の手紙を送った。それは、1972年1月12日付けの予想外に愛想の良い返信(この時は、手書きであった)を受け取った後のことだった。ショスタコーヴィチは、フォルトゥナートフの説得力がある議論に同意し、彼の“当を得た訂正”に感謝した(フォルトゥナートフはショスタコーヴィチとは異なり、「黒衣の僧」のソナタ風の性格について、相当な時間を費やして考えていたのだ!)。そして、以下のようにまとめた。「私は、“まるでソナタとして”ではなく、“まるでソナタ形式のように”と書くべきでした。より正確に言うならば19、『黒衣の僧』は、ソナタ形式で書かれている、となるでしょう」。これをもって、往復書簡は打ち切られる。そしてその後、手紙の交換が再開された様子はない。

アメリカの研究者ロザモンド・バートレットによる論文では、ショスタコーヴィチとフォルトゥナートフとの往復書簡の“流れ”は、以下のように解釈されている。「……チェーホフ研究家のエイブラム・ダーマンは、作家についての本を出版した。その中では、ショスタコーヴィチが『黒衣の僧』が交響曲のように書かれていると言ったと主張されている。ダーマンの誤りは、別の文芸評論家ニコラーイ・フォルトゥナートフを刺激して、作曲家が意味したものを正しく明らかにするためにショスタコーヴィチに手紙を送ることに至らしめた。ショスタコーヴィチの返信は、フォルトゥナートフにチェーホフの散文の音楽性に関する論文の執筆を促した。その中で、彼は特に『黒衣の僧』に集中した。その論文は、1974年にフォルトゥナートフの著作をまとめた本に収録されて出版された。結果として、『証言20』の中で『わたしがこのこと(チェーホフの散文が持つ音楽性に関する理論)を打ち明けたある文芸学者は、それを学術論文に書きさえした。“当然のことながら、それはすっかり混乱したものとなった”』と述べた時、ショスタコーヴィチが思い浮かべていたのはフォルトゥナートフのことだと推測されるに違いない。作曲家は、さらに付言している。『文芸学者たちが音楽について書こうとすると、いつでもしどろもどろになるが、それでも、その論文はなにかの学術的な文集に掲載された』21」。

既に明らかになっている状況が、ここでは歪曲されていることが分かるだろう。実際には、上述したように、フォルトゥナートフに論文を書く“気にさせた”のは“ショスタコーヴィチの返答”(往復書簡の前に論文が執筆されているので、このような返事がその時点で存在することはあり得ない)ではなく、チェーホフの長編が持つ“ソナタのような性質”についての作曲家の短い感想だった。フォルトゥナートフの論文「チェーホフの散文の音楽性」は、1974年ではなく、1971年に初出版された。フォルトゥナートフがエイブラム・ダーマンの著作を知ったのは、彼の論文が既に出版された後のことである(前ではない)。ショスタコーヴィチは、練り上げた“理論”がまとめられた包括的な内容の手紙をフォルトゥナートフに書くことはなかった。そしてその理論は、彼らの往復書簡から明白であるように22、もともと存在しなかったし、小説の詳細な音楽的分析を“打ち明ける”ほどの深い議論もしていなかった。ショスタコーヴィチは、フォルトゥナートフの論文にとても満足していた。それゆえに、文芸評論家が表面上“すっかり混乱した”と後になって言うことはあり得なかったのだ。それどころか、フォルトゥナートフの主要な分析結果の少なくともいくつかについては、作曲家が完全に賛同していたことを示している証拠がある。たとえば、フォルトゥナートフの論文中、物語の要約を扱った章では、次のように記されている。
「ここで、“第二主題”が現れる。


『……彼(コーヴリン)は衝立のむこうに寝ているヴァルヴァーラ・ニコラーェヴナを呼ぼうとして気力をふりしぼって言った

「ターニャ!」

彼は床に倒れた。両手を突いて身を起こしながら、もう一度呼んだ。

「ターニャ!」

彼はターニャに呼びかけ、露にぬれた豪華な花々の咲いている大きな果樹園に呼びかけた。庭園に、毛むくじゃらの根のはえた松木立に、ライ麦畑に、自分のすばらしい学問に、自分の青春に、勇気に、喜びに呼びかけ、あれほど美しかった人生に呼びかけた。……』」


次に、これらの文章を最近公開された文書と比較してみよう。「ヴィクトール・ペトローヴィチ(ボブローフスキイ)は、ショスタコーヴィチがチェーホフの長編『黒衣の僧』にソナタ形式を感じていることに気付いていた。その考えは彼を惹きつけ、また興奮させた。そして一度、折を見て、彼はこの問題について直接ショスタコーヴィチに尋ねてみた。『そうです、そうです!最後に、コーヴリンは「ターニャ、ターニャ!」と呼びかけます。これが、再現部の第二主題なのです23』。

ショスタコーヴィチとフォルトゥナートフとの往復書簡が、なぜこのような混乱を引き起こしたのだろうか?理由は2つあるように思われる。第一に、フォルトゥナートフがこれらの書簡を公表していたことがほとんど知られていなかったこと、そして第二に、疑わしい出典、たとえば「証言」が用いられたことである。書簡が公開される9年前の1979年に「証言」が出版されたことを考えれば、この問題に関する情報の混乱は容易に説明され得る。本が出版された時点では、ヴォルコフと、したがって、彼のもう一つの自我である“ショスタコーヴィチ”は、往復書簡の存在も、そして当然ながらその内容やドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスにある文書(フォルトゥナートフの手紙と1971年の論文の抜き刷り)について何も知らなかった。



  1. 以下の文献を参照のこと:Fortunatov N. ‘Tri neizvestnykh pisma Shostakovicha [Three Unknown Shostakovich's Letters]’. Muzykalnaya zhisny [Musical Life]. 1988. no. 14. p. 13. ショスタコーヴィチの手紙は、ファクシミリとタイプ原稿で掲載されている。

  2. 初出は以下の通り:Fortunatov N.M. ‘Muzykalnost chekhovskoy prozy. (Opyt analiza formy)’. Filologicheskie nauki: Nauchniye doklady Vysshey Shkoly [Philological Studies: Research Papers of Establishments of Higher Education]. M. 1971. No. 3.

  3. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスにおいて、本報の著者によって発見された。現在の書架番号は以下の通り:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 8. rec. gr. 248.

  4. フォルトゥナートフのタイプ原稿版では、2つの文はピリオドで間違って分割されている。

    ショスタコーヴィチは、1971年の9月17日から11月16日まで入院中していた。彼は退院してすぐにバルヴィハへ行き、12月18日までそこに滞在した。(Dombrovskaya O. ‘Geokhronograf D.D. Shostakovicha (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: issledovaniya i materialy [‘D.D. Shostakovich's Geochronograph: (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: studies and documents]. Ed.-comp. L. Kovnatskaya, M. Yakubov. M. DSCH. 2005. p. 206 参照のこと)

  5. 例証として、今まで知られることのなかった同時期のタイプ打ちの手紙を2通引用する。これらは、ショスタコーヴィチの秘書R.E. コルンによって、どちらも同じ1971年8月23日(明らかに、往復書簡に対応していた日である)に用意された。一つは、音楽学者L.S. ムハリンスキイに宛てたものである。「……“お手紙”、どうもありがとうございました。返事が大変遅くなりまして、申し訳ありませんでした。健康状態が悪かったのです」。もう一つは、出来が疑わしい詩に音楽をつけて欲しいという、作曲家への数多い申し出の一つに対する返信である。「……お気遣いと、同封していただいた詩に感謝いたします。(中略)残念ながら、私は体の具合が悪いので、せっかくのお申し出を受けることができません」。どちらの手紙も、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスで発見された。

  6. Glikman I.D. Journal VIII. Entry for 11 January 1973 (ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 4, sec. 2, rec. gr. 8.

  7. 現在の書架番号は以下の通り:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス, f. 3. sec. 2, rec. gr. 9.

  8. この手紙は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスに配架されていない。

  9. フォルトゥナートフ版では、「もっと良いのは」と間違っている。

  10. 出典:Testimony: The Memoirs of Dmitri Shostakovich by Solomon Volkov. London. 1979.

  11. Bartlett R. ‘Shostakovich and Chekhov’. D.D. Shostakovich. Sbornik statey k 90-letiyu so dnya rozhdeniyab [D.D.Shostakovich. Collection of Articles to Mark the 90th Anniversary of the Composer's Birth]. L. Kovnatskaya(編). SPB. 1996. p. 348.

  12. R. バートレットは、無意識にフォルトゥナートフを踏襲して、「『文学新聞』に寄せた『黒衣の僧』のソナタ形式に関するショスタコーヴィチの簡潔な解説は、明らかに真剣な思索の結果である 」と考え、この点についてヴォルコフの「証言」を引用している。そこでは、“ショスタコーヴィチ”がチェーホフの物語のソナタ形式に関する長大な理論を作り上げている。「……そこには、導入部、第一主題と第二主題を含む呈示部、展開部などがある」(R. Bartlett Shostakovich and Chekhov p. 350 からの引用)。しかしながら、教科書的な定義に一致するようなソナタ形式の解釈にはそれほど真剣な検討は必要なく、ヴォルコフ自身、すなわち「証言」の著者の能力の範囲内であるように思われる。

  13. Chigaryova E.I. ‘V.P. Bobrovsky o muzykalnoy organizatsii v rasskazakh i povestyakh Chekhova (po arkhivnym materialam) [V.P. Bobrovsky on the musical organization of Chekhov's long stories and tales (based on archive documents)’. Iz lichnykh arkhivov professorov Moskovskoy Konservatorii [ From the personal archives of Moscow Conservatoire professors]. 2nd ed. Sb. 52. G.V. Grigoriyeva(編). M. 2005. pp. 33-34. 残念ながら、本文にはこの注目に値する対話が行われた正確な時期について記載がない。

    再現部の第二主題(「ターニャ、ターニャ!」)についてのショスタコーヴィチのコメントは、随分昔に抱いた突発的で(唯一の!)直感的な感覚で、その感覚が、チェーホフの長編のソナタ形式に関する彼の論文にまとめられたのだと推測してみることもできるだろう(そうだと主張するつもりはない)。いずれにせよ、間違いなく“詳細な分析”を期待していたボブローフスキイとの会話において、ショスタコーヴィチが思い出したのはこのことだけであった。

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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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