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O. ディゴーンスカヤ:ショスタコーヴィチと「黒衣の僧」, DSCH社―(3)

ともあれ、フォルトゥナートフとの往復書簡は、ショスタコーヴィチに長編「黒衣の僧」への新たな興味を喚起した。彼がこの小説について次に言及したのは、知り得る限りでは1972年9月のことである。明らかに、この直前、作曲家は小説を再読している。彼はコーヴリンに対して、以前よりも強く親近感を持った。そして、歌劇の構想はより具体的な形をとった。彼は、長い物語の鍵となるエピソード(黒衣の僧の最初と最後の登場の前)で言及されるG. ブラガの「セレナータ」の楽譜を捜し、それを編曲しようと心に決めた。

「……1年以上もの間、私はただ1つの音符も書いていません」と、彼は1972年9月22日にジューコフカからボリース・ティーシチェンコに宛てた手紙の中で述べた。「この説明をどうすれば良いのか、それはとても難しい問題です。自分の健康との戦いでの結果かもしれません。もう1年以上タバコも吸っていませんし、お酒も飲んでおりません。チェーホフの『黒衣の僧』でコーヴリンは、『自分の健康に気を使うことは創作の喜びを消してしまうことを意味する。もし、マホメットやシェイクスピアが、飲むのは牛乳だけ、食べるのはオートミールのみであったならば、そういった彼らからあのような業績なんてきっと残らなかっただろう」と言っていました。『黒衣の僧』は私に強い印象を与えてくれました。正確には、この作品を読み返すたびに、強烈な印象を湧き上がらせてくれるのです。(中略)この作品の中ではブラガのセレナータについての紹介があります。つい先日、実は私はこの素晴らしい作品と知り合うことができました25」。

「セレナータ」の楽譜を手に入れた後26、ショスタコーヴィチは誕生日である9月25日に編曲を終え、署名をして「25 IX 1972」という日付を書き加えた。6ヶ月後の1973年4月11日、イサーク・グリークマンとの会話の中で、ショスタコーヴィチは「セレナータ」について「将来の歌劇の核」として言及した。そして翌4月12日、イサーク・グリークマンは日記に以下の内容を書き記した。「昨晩、私はD.D.に会いにレーピノへ行った。(中略)私達はあれやこれや、そして音楽についても語り合った。D.D.は、自分でまとめた好奇心をそそるような考えを表明した。『しかるべき箇所で使われるなら、あらゆる音楽は良いものです。私は以前、モスクワで「三姉妹」を見に行きました。劇中で、チェーホフの時代の流行り歌が聞こえてきます。この何てことのない音楽は、非常に大きな印象を与えたのです。これは、その音楽がしかるべき箇所で使われたからなのです』。それからD.D.は、『黒衣の僧』で大変重要な役割を担うブラガの『セレナータ』に長らく興味を持ってきたと話してくれた。D.D.は、次のように言った。『最近、私は「黒衣の僧」に基づく歌劇を作曲しようと考えています。それで、「セレナータ」の楽譜を見つけてくれるように頼みました。チェーホフの示唆により、この「セレナータ」の音楽は感動的でさえあるように思われました。それもまた、しかるべき箇所で使われているからです。私は、将来の歌劇の核を見つけたとさえ思いました。しかし、「黒衣の僧」には動きがほとんどないので、歌劇にするにはとても難しい題材です』27」。

「セレナータ」の編曲(ソプラノ、メゾソプラノ、ヴァイオリン、ピアノのための)を完成させると28、ショスタコーヴィチは若い歌手と演奏家―G. ピサレンコ(ソプラノの)、K. モルグノヴァ(メゾソプラノ)、O. カガーン(バイオリン)、E. レオンスカヤ(ピアノ) ―に、それを練習して演奏し、録音してくれるように頼んだ。1972年末から1973年初めにかけて、ネジダーノヴァ通りのショスタコーヴィチのアパート(Flat 23, No. 8/10, block 2)で、チェロのD. フェルシトマンが参加してピアノの低音部を増強した形で、その編曲は演奏された。作曲家は立ち会うことができず、電話でその演奏を聴いた29。「証言」の中で、この出来事が以下に示すような特徴的な書き方で記述されていることに注目されたい。「わたしのところにはすでにその(「セレナータ」)録音もある。若い音楽家たちにそれを録音するように頼んだのである30」と、この本の文学的主人公である“ショスタコーヴィチ”は語っている。この主人公は、演奏されたのが「セレナータ」の原曲ではなく編曲であったことを、明らかに知らない。ちなみに、ショスタコーヴィチの編曲については、この本の中で全く触れられていない。そこで、次のような疑問が生じる。「将来の歌劇の核」である「セレナータ」の完成した編曲が存在するという重要な事実が、なぜ「黒衣の僧」についての議論から漏れているのだろうか?それを説明できるのは、ヴォルコフも、したがって、ヴォルコフの“ショスタコーヴィチ”も、そのことについて何も知らなかったとすることだろう31

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスには、歌劇「黒衣の僧」の計画32と台本の草稿33が保管されている。それらは、作曲家が口述したものをイリーナ・アントーノヴナ・ショスタコーヴィチが筆記したものである。1973年のものと考えられる34これらの草稿は、2幕か3幕の歌劇を作曲しようとする元々の計画を示している。計画の草案は、劇の処理を検討した過程が反映されており、初めて公開されるものである。

1)計画


第1場はなし

第2場


コーヴリンがバルコニーに腰をおろしている。本を読んでいる。

ブラガの「セレナータ」。

「黒衣の僧」の伝説と、彼との出会い。

喜びに満ちた夕暮れ。

コーヴリンの部屋。第1場のすべて。

ペソーツキイの論文。

休憩


第2幕

第1場


B. M.(黒衣の僧)と会う。会話。

コーヴリンとターニャ。求婚

ペソーツキイがコーヴリンについてターニャに話す。

夕食。B. M.との会話。(?)[“第1場のすべて”と書いた箇所に矢印]


第2場


ペテルブルグ

不眠。B. M.。

ターニャが、B. M.との会話を耳にする。

休憩


第3幕

第1場


田舎にて。

コーヴリンは健康を取り戻す。口論。


第2場


クリミア。


第3場


クリミア。セヴァストーポリ。

または


第1幕


I. 導入。

「セレナータ」

II. B. M.との出会い。

ターニャへの求婚


第2幕


I. ペテルブルグ。B. M.。

II. 田舎。T.(ターニャ)との破局。

III. クリミア。B. M.。死。


2) 歌劇「黒衣の僧」の計画


第1幕


導入(医師とコーヴリン)。

コーヴリンとターニャの会話。

ターニャは客人に合流するために退出する。コーヴリンはペソーツキイに引き止められる。

コーヴリンとペソーツキイの会話。両者共に家の中に入る。

バルコニーにいるコーヴリンは、客間から流れるブラガの「セレナータ」を聞く。

ターニャがバルコニーの上に出てくる。コーヴリンは、彼女に黒衣の僧の伝説について話す。ターニャは、その話を好まない。両者共に家の中に入る。コーヴリンは家を出て、川に向かう。
黒衣の僧が現れる。


第2幕

第1場


コーヴリンは、公園で黒衣の僧と話す。

ターニャが公園に現れる。コーヴリンは彼女に求婚する。ペソーツキイは、コーヴリンについてターニャに話す。


第2場


町にあるコーヴリンの自宅。
黒衣の僧との夜間の会話。ターニャが起きて、コーヴリンの妄言を聞く。


第3幕

第1場


田舎で。ターニャとの口論。破局。


第2場


クリミア。到着。ヴァルヴァーラ・ニコラーェヴナは、就寝する。ターニャの手紙。自分自身に対する腹立たしさ。バルコニーにいるコーヴリン。ブラガの「セレナータ」。黒衣の僧の登場。コーヴリンの死。


3) [計画]


第1幕・第1場


コーヴリンとターニャの会話。(ターニャは客人に合流するために退出する。コーヴリンはペソーツキイに引き止められる。)

コーヴリンとペソーツキイの会話。(両者共に家の中に入る。)

バルコニーにいるコーヴリン。ブラガの「セレナータ」。

ターニャがバルコニーの上に出てくる。伝説。ターニャは伝説を好まない。

彼女は家の中に入る。

コーヴリンは川に向かう。

B. M.の登場。


第2幕・第1場


公園にて。B. M.との会話。

ターニャとの会話。求婚。

ペソーツキイとターニャの場面。


第2場


ペテルブルグ。

B. M.との会話。ターニャが目覚める。


第3幕・第1場


田舎にて。口論。破局。


第2場・クリミア


到着。ヴァルヴァーラ・ニコラーェヴナ。

バルコニーにいるコーヴリン。ターニャの手紙。

自分自身に対する腹立たしさ。ブラガの「セレナータ」。B. M.の登場。

コーヴリンの死。



1975年の春までに、歌劇の計画にはさらなる変更が加えられた。ショスタコーヴィチは、自分自身で満足な台本を書くことができなかったので、音楽学者で脚本家のアレクサーンドル・メドヴェージェフに、1幕物の歌劇の台本を2つ書いてくれるように頼んだ。その内の一つが、「黒衣の僧」だった。メドヴェージェフによると、この問題について初めてショスタコーヴィチと対面して話をしたのは、3月18日のレニングラードだった。それは、Malegot劇場でモイセーイ・ヴァーインベルグの歌劇「マドンナと兵士35」の初演があった翌日のことだった。「私は、作曲家の早口で少し皮肉な口調を覚えている」と、A. メドヴェージェフは回想する。「『私は、あなたに2つの歌劇の台本を書いて頂くよう、お願いしたいのです……扱っている題材は陰鬱ですが、作家(ゴーゴリとチェーホフ)は悪くないです。2つの歌劇は、いわば、ひとつ屋根の下にあるようなものです(ショスタコーヴィチは、自分の手で斜めの屋根を作るような仕草をした)。一つ目は、「肖像画」。主役は、悲劇的な結末を迎えます。彼は精神を病み、死にます。幕。休憩。聴衆には、ロビーで休憩をとらせ、レモネードを飲ませてください。そして、「黒衣の僧」。もう一つの、かなり陰鬱な物語です。しかし、これらは古典なのです。古典!…そういうことなのです。私は、この作品について長らく考えてきました。今は、上演時間が問題です。(中略)私は、何よりもそれぞれ1時間と1時間5分の長さの2つの歌劇を仕上げたいのです 』。彼は、二部作を書きたかったのだ。しかし、歌劇全体でどれほどの長さになるのだろう?私はそれを、まさしく“象をマッチ箱にはめ込む”試みと呼んだ。そして、台本を書き始めて2回目の相談の際に、私は彼に言った。『ドミートリイ・ドミートリェヴィチ、これは実現不可能です』。『はい。それは、私も感じています。こういう場合、どうすればよいかご存知ですか?筆が進むままに書くのです!その結果、2曲が同じ屋根の下にはいられなくなるかもしれません。それでも構わず、書き続けるのです』36」。



  1. 以下の文献を参照のこと:Laurel E. Fay. Shostakovich: A Life. Oxford University Press. 2000. p. 274.

  2. Pisma Dmitriya Dmitriyevicha Shostakovicha Borisu Tishvhenko ( s kommentariyam i vospominaniyami adresata) [Letters of Dmitry Dmitriyevich Shostakovich to Boris Tishchenko] (with commentary and reminiscences of the addressee). SPB. 1997. p. 41. からの引用。

  3. ショスタコーヴィチの「日記」(ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4. sec.1, rec. gr. 6)には、9月21日と22日の書き込みがない。このことは、作曲家がモスクワの郊外のジューコフカにある別荘で、この2日間を過ごしたことを示している。通常、彼は日記を持ち歩くことはなく、それゆえに、日記を書かなかったのである。したがって、ショスタコーヴィチが「セレナータ」の楽譜を受け取ったのは、手紙から推測される9月21日ではなく、ジューコフカに出発する前の20日だったとも考えられる。そして、その楽譜を一緒に持っていったので、ショスタコーヴィチは翌9月21日に楽譜を見ることができたのである。

  4. Glikman I D. Journal VIII (ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4, sec. 2. rec. gr. 8. sh. 28). この会話についてよく知られた記述(Pisma k drugu: Dmitry Shostakovich - Isaaku Glikmanu [Story of a Friendship:The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman]. M. SPB. 1993. p. 293)は全く正確ではなく、ブラガの「セレナータ」と、「三人姉妹」の「チェーホフの時代の流行り歌」とを混同している(以下を参照のこと:Shostakovich v pismakh i dokumentakh [Shostakovich in Letters and Documents]. p. 52)。

  5. 「セレナータ」の編曲において、ショスタコーヴィチは「黒衣の僧」の文中で示されている楽器編成に従った、という意見がある。したがって、S. ヘーントヴァは、以下のように書いている。「直ちに、彼は『セレナータ』の編曲に取りかかった。楽器編成は、チェーホフが記したように、ソプラノ、コントラルト、ヴァイオリン、だった」(Khentova S.M. Shostakovich: Zhizn i tvorchestvo [Shostakovich: Life and Work]. v. 2. Len. 1986. p. 507)。ヘーントヴァは、事実上、M. ヤクーボフを引用している。「彼の編曲において、ショスタコーヴィチはチェーホフによって示された楽器編成に従っている。すなわち、ソプラノ、コントラルト、ヴァイオリンである」 (以下のレコードの解説を参照のこと:D. Shostakovich. Iz rukopisey raznykh let [D. Shostakovich. From Manuscripts of Different Years] series: Melodiya 1987. Stereo. S10 26 307 004. ただし、この解説では「Коврин」が「Ковригин」と間違って記載されている)。しかし、どちらの引用にも、ショスタコーヴィチの編曲にピアノが入っていることに言及していない。

    小説の中でブラガの「セレナータ」が描写される箇所(それは、二度聞こえてくる)でも、ピアノについては言及がない。以下の通りである。「客間ではそのとき、ターニャがソプラノを、令嬢たちのひとりがコントラルトを、例の青年がヴァイオリンを受けもって、ガエターノ・ブラーガの名高いセレナーデを練習していた」および「とつぜん、バルコニーの下の階で、ヴァイオリンが鳴りだして、ふたりのやさしい女の声が歌いはじめた」。しかし、チェーホフが家庭内で音楽を演奏する場合には当たり前のこととして、ピアノ伴奏を扱ったということも考えられる。「ペソーツキー家にはしばしば、ほとんど毎日のように近所の令嬢たちがたずねて来ては、ターニャとピアノをひいたり、歌をうたったりした」。

  6. 1972年12月3~31日および1973年1月4日~2月7日の間、ショスタコーヴィチは入院していた(以下を参照のこと:O. Dombrovskaya. ‘Geokhronograf D.D. Shostakovicha (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: issledovaniya i materialy [‘'D.D. Shostakovich's Geochronograph (1945-1975)’. Dmitry Shostakovich: Studies and Documents] L. Kovnatskaya, M. Yakubov(編). p. 207)。ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスには、この演奏の録音が保管されている。そこには、電話口で夫に語りかけるI.A. ショスタコーヴィチの声も録音されている。「ミーチャ、準備ができたわよ」。

    この編曲の公開初演は、1983年にキエフ・フィルハーモニーで行われた。演奏は、L.A. シェフチェーンコ(S)、L.P. フィラトヴァ(MS)、M.L. ベズヴェルフニイ(Vn)、S.M. ヘーントヴァ(Pf)であった。(以下を参照のこと:Khentova S.M. Shostakovich: Zhizn i tvorchestvo [Shostakovich: Life and Works]. v. 2. p. 508.)

  7. Bartlett R. Shostakovich and Chekhov. p. 350. からの引用。

  8. R. バートレットは、ブラガの「セレナータ」に関する「証言」のエピソードを考慮して「作曲家の言葉は……信頼できる」と述べている(Bartlett R. Shostakovich and Chekhov. p. 349)。しかし、上述したことに照らしてみれば、そのような記述には根拠がないように思われる。

  9. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4. sec. 2. rec. gr. 11. I.A. ショスタコーヴィチによって筆記された歌劇(2幕7場)の別の計画は、GSCMMCに保管されている(以下の文献に掲載されている:Dmitry Shostakovich v pismakh i dokumentakh [Dmitry Shostakovich in Letters and Documents]. M. 2000. p. 53)。

  10. ドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴス. f. 4. sec. 2. rec. gr. 12, 13.

  11. I.A. ショスタコーヴィチによると、メモ自体には日付が記されていない。S.M. ヘーントワも同様に、1973年ということを間接的に示している。「歌曲集(筆者註:『M.ツヴェターエヴァの詩による6つの歌曲』(8月7日完成)のこと。)を書き終えて、作曲家は1週間の休暇をとった。彼は、チェーホフの再読に没頭した(筆者註:おそらく、中断していた『黒衣の僧』の作曲を再開しようと考えたためか?)(Khentova S.M. Shostakovich: Zhizn i tvorchestvo [Shostakovich: Life and Work]. v. 2. p. 559.)。ヘーントヴァはショスタコーヴィチと個人的に会話した事柄に基づいているのだろうが、その根拠が示されていないので、この記述を全面的に信用する訳にはいかない。同時に、それを無視することもできない。

    1973年4月、先に述べたように、ショスタコーヴィチはグリークマンに語った。「『黒衣の僧』には動きがほとんどないので、歌劇にするにはとても難しい題材です」。これは、ブラガの「セレナータ」の編曲の後、実際に歌劇の準備、たとえば構想をまとめたり、台本の初稿を書いたりといったことが実行されたことを意味するとも考えられる。

  12. M. ヴァーインベルグの歌劇「マドンナと兵士(Зося)」は、A. メドヴェージェフの台本に作曲された。

  13. Budayeva T. “Genii... ne nuzhny”: nerealizovannye opernye zamysly D.D. Shostakovicha [“Geniuses are not wanted”: D.D.Shostakovich's unrealized opera projects] (manuscript, pp. 16-17) からの引用。Medvedev A.V. Tezisy doklada, prochitannovo 29 iyunya 2004 v Dome-muzee A.P. Chekhova v Melikhovo [Theses of a paper, read on 29 June 2004 at the A.P. Chekhov House-Museum, at Melikhovo]. p. 1.(著者からドミートリイ・ショスタコーヴィチ・アーカイヴスに寄贈された)も参照のこと。現在、A.V. メドヴェージェフは彼のメモに基づいた記録の出版を準備している。そこでは、歌劇「肖像画」と「黒衣の僧」の台本について1975年3~6月にショスタコーヴィチと話した内容が含まれる。彼との個人的な会話において情報を提供して頂いたことを、深く感謝する。

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プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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