O. ドンブロフスカヤ:ヨハン・シュトラウスのポルカ「観光列車」のドミートリイ・ショスタコーヴィチ編曲版の刊行について, DSCH社―(1)

ショスタコーヴィチが1941年にオーケストレイションしたシュトラウスのポルカの演奏会形式の初演は、レニングラード・フィルハーモニー大ホールで1978年9月18日に行われた。演奏は、ゲンナーディイ・ロジデーストヴェンスキイ指揮のレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団であった。ポルカは演奏会の最後に演奏された。この演奏会の前半では、ショスタコーヴィチの未完成の歌劇「賭博師」が初演され、後半ではヨハン・シュトラウスの作品にスポットが当てられた:「アフリカの女」によるカドリーユ、ワルツ「コヴェント・ガーデンの思い出」、そして3曲のポルカ「狩りの合図」、「百発百中」、ショスタコーヴィチによる“音楽的に独創的で見事にオーケストレイションされた皮肉なミニチュア”「新聞売りの踊り」(S. スロニームスキイの批評1において「観光列車」がこう呼ばれている)が取り上げられた。シュトラウス=ショスタコーヴィチのポルカは、およそ35年もの間書架の中で埃まみれになっていたものが再び日の目を見ることになった。1979年に録音され、ショスタコーヴィチの未出版作品や忘れられた作品を数多く復活させたシリーズである「From Manuscripts of Different Years」の中に収録2されて1980年にリリースされた。1981年8月14日には、ロンドンのアルバート・ホールにおけるプロムナード・コンサートで国外初演された(ゲンナーディイ・ロジデーストヴェンスキイ/BBC交響楽団)3

ドミートリイ・ショスタコーヴィチの文書保管所とDSCH出版社は、ショスタコーヴィチがオーケストレイションしたヨハン・シュトラウスのポルカ「観光列車」を初出版する。これは、イリーナ・ショスタコーヴィチが1993年末にロンドンのサザビー・オークションで手に入れ、モスクワのドミートリイ・ショスタコーヴィチの文書保管所で架蔵してきた自筆譜(rec. gr. 1, section 1 (“Shostakovich's Music Author's Manuscripts”), f. 316)に基づいている。
「ポルカ」の著者の原稿は、18段の総譜用五線紙8枚(全部で10枚あるが、最後の2枚は白紙である)に書き込まれている:五線紙は二つ折りで、しっかりとした糸で綴じられて冊子状にされている。作曲者によって1~16のページ番号が振られている。五線紙のサイズは、34.5×25.8cmである。自筆譜は痛んでおり、紙は黄ばんでページの角が折れ、横の折り目に沿って裂けている。最初のページは特に経年劣化しており、冊子になっている他のページから完全にはがれている(当然、最後の白紙のページもはがれている)。

ショスタコーヴィチは、上のマージンの中央に「ポルカ」、右側に「ヨハン・シュトラウス」と書き込んだ。楽譜の左上方には、何者かの手によって「D. D. ショスタコーヴィチによるオーケストレイション」と記されている。作曲家は、総譜の最後の段(16ページ)に、「DShostakovich / 4 II 1941」という署名と日付「DShostakovich/4 II1941」を書いた。

楽譜は、とても濃い青のインクで書かれている:練習番号、ボウイングや強弱の指示、最終ページの署名と日付は、薄い青のインクで書かれている。小節線は、いつものように定規を使って鉛筆で引かれている。12ページで、ショスタコーヴィチはピッコロのために手書きで最上段にもう1段を追加している。五線は定規を使った鉛筆書きで、小節線も同様である。

全122小節の総譜中、修正は3箇所だけである:練習番号2の2小節前のトランペットでスラーが斜線で取り消されている。練習番号3の2小節前の第1ヴァイオリンにおいて、3つの音符が部分的に消されている。練習番号6の2小節目のピッコロが消されて、小節全体に斜線が引かれている。

ショスタコーヴィチの手稿には、太い青鉛筆で指揮者への指示が書き込まれている:練習番号7の数小節前のヴァイオリンとヴィオラに、アクセント(>)が付けられている。練習番号10では、管打楽器の6段にcresc.が書かれている。最初のページの最上部には、同じ青鉛筆で「No.16 1/2」と書かれている。これは明らかに、演奏順に関する指示である。

筆跡からは、草稿が非常に速く、恐らく一気に書かれたと考えられる。速記で書かれているので一見気がつかないが、にも関わらず注目に値するこの速さからは、ポルカが一気にオーケストレイションされたことが明らかになる。この速さは、筆圧がどんどん弱くなり、終わりに近づくにしたがって徐々に薄くなっているという事実から、明白である。


音楽家達が語るこの編曲の由来は、ショスタコーヴィチが素早く書き上げたことを確かなものとする。また、手稿の最後に書かれている日付は、この作品が演奏された公演の正確なリスト作りを可能にする。

この作品は、「ジプシー男爵」がどのように制作され、それにショスタコーヴィチがどう参画したのかについて、今まで知られていなかった事実を提起する。この問題は、N. A. ブラジンスカヤによって初めて指摘された4

1940年秋5、レニングラード・マールイオペラ・バレエ劇場(Малегот、旧ミハーイロフスキイ劇場)はヨハン・シュトラウスの喜歌劇「ジプシー男爵」を上演した。「面白い公演となることが期待された」と、劇場の芸術監督で公演の指揮を務めたボリース・ハーイキンは回想した。「それは、喜歌劇の範疇を超えたものだった。大編成で第一級のオーケストラに大人数の合唱、最高の職人達によって見事にデザインされた壮麗なセットと衣装が準備された。第3幕では、プロデューサーのA. N. フェオナ6がバレエ用の小曲、すなわちポルカ(「新聞売りの踊り」)を追加することに決めた。この曲は、パロディーの才能に長けた踊り手、ガリーナ・イサーエヴァ7が踊ることを想定していた。私はレニングラード・フィルハーモニーの図書室へ行き、J. シュトラウスのポルカを探した。そこの司書は、次のように答えた:『ここには約200曲が揃っていますので、お好きなものをお選びください』。有名でよく知られている曲を除外して私は非常に魅力的なポルカを見つけ、司書にコピーをとってもらった。この曲を使うことで、とても良い踊りとなるように思われた…

オーケストラと共に、このポルカを演奏する時が来た。私は、今度はオーケストラの演奏譜のために、再びフィルハーモニーへと行った。すると、このポルカのパート譜がないことが判明した。規則通りのDa capo以外に何も指示のない、2ページのピアノ・スコアしかなかったのだ。私は、何をするべきだろうか?私はショスタコーヴィチに電話し、私の窮状を話した。すると、彼はすぐにやって来た。私は、彼にポルカを見せた… 彼は何も言わずにピアノ・スコアを手に取り、去り際に言った:『明日、また帰ます』。翌日、彼は総譜を持ってやって来た8。」

ハーイキンの回想は自筆譜の末尾にある日付と一致するので、この出来事が極めて短い時間で展開したことが分かる。すなわち、オーケストレイションは、1941年2月の2日間で仕上げられた:2月3日にハーイキンはシュトラウスのポルカのオーケストレイションをショスタコーヴィチに依頼し、2月4日にショスタコーヴィチは完成した総譜を指揮者に持ってきた。たとえ回想録の作者の記憶が10年後の時点で正確でなく、この出来事がそれほど速く展開しなかったと仮定したとしても、それでも非常に速く起こったと言わざるを得ない。なぜならば、2月22日に行われた初演9はわずか2週間ほど後のことだったからだ。したがって、シュトラウスのポルカが1日(2月4日)で、一気にオーケストレイションされたと考えるに足る正当な理由がある10


大成功を収めた「ジプシー男爵」の公演で、「ポルカは、巨大な人気を博した」と、ハーイキンは書いている。「オーケストラは、その曲をいつも繰り返し演奏した。その後オーケストラは、シュトラウス自身がオーケストレイションした別のポルカをアンコールとして演奏することに決めた。しかし、それはたった2度演奏されただけだった。人気が出なかったのだ。シュトラウスの鮮やかなオーケストレイションでさえ、ショスタコーヴィチの後では退屈に聴こえた11。」

ショスタコーヴィチのオーケストレイションは、Малеготで行われた「ジプシー男爵」の初演の批評の一つで言及された:「…ポルカはドミートリイ・ショスタコーヴィチの卓越した技術と味わいをもってオーケストレイションされている。その音楽に合わせて、ガリーナ・イサーエヴァは鋭敏な感受性と滑稽な優美さをもって踊るのだ12。」

ショスタコーヴィチ自身は、マールイ劇場で「ジプシー男爵」を観に行った1946年1月29日13まで、自分のオーケストレイションを聴くことはなかった:「彼が自分の素晴らしいオーケストレイションでシュトラウスのポルカを(初めて)聴いた時、彼はとても喜んだ」と、回想録の作者は述べている14

またハーイキンは、シュトラウスのポルカと関連した別の出来事についても書いている:「…1975年、ショスタコービッチはこのポルカのことを思い出した。彼はその総譜を持っていなかったので、総譜を作成し直して欲しいと頼まれた。私は何とかしようと、Малеготに走った。35年が過ぎており、公演に参加した者は誰もいなかった。それでも、図書館は総譜のコピーを作成してくれ、私はショスタコーヴィチにそれを渡すことができた。手稿譜は、劇場にある… もしうまいこと保管されるのであれば、極めて少数の者しか知らないこの手稿譜を、ショスタコーヴィチの他の自筆譜に添付しておけばよいだろう15。」ハーイキンが言及したこのコピーがその後どうなったかは、知られていない。しかし幸運にも、自筆譜はショスタコーヴィチの他の自筆譜に添付されて、1993年以降、文書保管所にある16
「Поезд удовольствий」は、ショスタコーヴィチが1941年にオーケストレイションしたシュトラウスのポルカ・シュネル「Vergnügungszug」のタイトルの正確なロシア語訳である。英語(「The Pleasure Train」)、フランス語(「Train de Plaisir」)、イタリア語(「Treno di Piacere」)の訳は、出版社のカタログに見出すことができる 17

ヨハン・シュトラウスは1863~4年の冬にポルカ「観光列車」を作曲し、産業協会に献呈した。当時は、コンスタンチノープルやカイロ、さらに東方の遠くへ行くのと同様に、オーストリアやヨーロッパの町への電車や蒸気船を使った旅行が、オーストリアでとても人気があった。1864年の1月中旬、「パリの夕べ、ウィーンの夕べ」と称された3日間に渡る壮大な祭りが挙行された。そこでは、パリからウィーンへの電車旅行が予定されていた。シュトラウス兄弟は、この企画に主催者として関わった。1864年1月19日、ヨハン・シュトラウスと彼のオーケストラは、ホーフブルク王宮のホールで行われた舞踏会にて、ポルカ「観光列車」を初演した18


しかし、オーケストレイションを行ったショスタコーヴィチは、そうした事情は知らなかったのかもしれない。ポルカを選ぶ時、ハーイキンはその表題や作曲の経緯にほとんど興味がなかった(「私はポルカを探した」「私は非常に魅力的なポルカを見つけた」)。ポルカの作者の名前が、作曲家自身の意思で2ページのピアノ・スコアに記されていなかったことはあり得るだろう。そしてまた、ショスタコーヴィチも自分の総譜にそれを書き込まなかった。またポルカの原題は、このオーケストレイションに関する1940年代あるいはそれ以降のいかなる記述においても、全く触れられなかった。ポルカの演奏用のコピーを図書館がどのようにして作成したのかについてのハーイキンの回想録中の記述が、注目される。ショスタコーヴィチもこのコピーを用いてオーケストレイションをし、そこには表題が書かれていなかった、というのが最もありそうなことである。そもそも、このコピーは特定の目的のために作成された:第一に踊りの公演準備をするため、そしてショスタコーヴィチにオーケストレイションを依頼するためである。しかしながら、彼はシュトラウスの標題作品のオーケストレイションではなく、既に上演されていた特定のテーマによるバレエ音楽、すなわち「新聞売りの踊り」のオーケストレイションを依頼されたのだ。

シュトラウスの総譜を見なかったので、ショスタコーヴィチは鉄道ベル(シュトラウスの総譜では、グロッケンシュピールになっている)や車掌の警笛(シュトラウスの総譜では、「車掌の角笛」と指定されている)のような要素を、当然ながら無視した。そもそも、これらはピアノ・スコアには反映されていない。公演の演出では列車が描かれた19が、ショスタコーヴィチがオーケストレイションの際に「鉄道の」標題に影響されたとは考え難い。第2幕(第3幕ではない)で電車が通り過ぎたところで、ポルカが挿入された。この状況自体が、ショスタコーヴィチが直面した締め切りと同様に、作曲家が公演について前もって知らされていたと信じるに足る根拠となり得ない。



  1. S. Slonimsky, “Premiere of The Gamblers by D. Shostakovich”, Sovetskaya muzyka, No. 1, 1979, p. 75.

  2. Melodiya, 1980, C 10-14415-16.

  3. D.C. Hulme, Dmitri Shostakovich: A Catalogue, Bibliography, and Discography, 3rd ed., Scarecrow Press, 2002, p.187. を参照のこと。ヒュームのカタログには、シュトラウスのポルカ「観光列車」について、いくつか誤った情報がある:ポルカのドイツ名の英訳に間違いがある(正しくは「The Pleasure Train」);楽器編成に間違いがある(正しくはホルン4、シロフォン、シンバル);オーケストレイションがなされた年が間違っている(正しくは1941年)。また、ソ連で最初のレコードの番号も間違っている(正しくはMelodiya, 1980, C 10-14415-16)。

  4. N.D. Braginskaya, “D.D. Shostakovich in the World of Classical Operetta”, in: Dmitri Shostakovich. Studies and Documents, Issue 2, Edited and compiled by O. Digonskaya and L. Kovnatskaya, DSCH, Moscow, 2007 (in Russian).

  5. 同上, pp. 60-61.

  6. アレクセーイ・ニコラーェヴィチ・フェオナ(1879~1949):オペレッタ俳優および演出家。

  7. ガリーナ・イヴァーノヴナ・イサーエヴァ(1915~):バレエ舞踊家。1931年以来、マールイ・オペラ劇場のソロ・バレリーナを努める。1954~1960年、Малеготのバレエ監督。ショスタコーヴィチのバレエ「明るい小川」(1935~1936)では、女学生ガーリャの役を演じた。

  8. B. Khaikin, “Unfinished Book”, in: Conversations about Conductor Skills. Articles, Moscow, 1984, pp. 90-91 (in Russian).

  9. N. ブラジンスカヤが、初日の日付を確定した(N. Braginskaya, 前掲書, p. 68)。

  10. I. グリークマンは、彼の出版された日記「友への手紙」の注釈の中で、特に歳月を経た記憶というものが、いかに信頼できないかについて述べている。これは、1941年の出来事について、グリークマンが1990年代になって書いたものである:「J. シュトラウスの見事な熟練の技を考え、ドミートリイ・ドミートリェヴィチは初め、この話を断った。しかし、最後には指揮者のねばり強い要請に譲歩したのだった」(Letters to a Friend. Dmitri Shostakovich to Isaac Glikman, Moscow, St. Petersburg, 1993, p. 307, in Russian)。

  11. B. ハーイキンがS. M. ヘーントヴァに宛てた1976年12月12日の手紙(S. Khentova, Shostakovich. His Life and Creative Work, Vol. 1, Sovietsky kompositor Publishers, Leningrad, 1985, p. 518 からの引用)。
    この手紙からは、ショスタコーヴィチの「ギャラ」がいくらだったのかも知ることができる:「私は、オーケストレイションにいくら払うことができるかを調べるために、劇場の会計主任に電話をした。会計主任は答えた:『100ルーブルまでです』。」

  12. I. Glikman, “The Gypsy Baron (premiere at the Maly Opera Theatre)”, Leningradskaya pravda, No. 61 (7854), 14 March 1941, p. 3. ここの引用は、N. ブラジンスカヤの本(P. 85)ではなく、元の新聞から行った。ブラジンスカヤの記述では、軽微な変更が加えられている。

  13. 彼が公演を観に行ったとしてN. ブラジンスカヤが示した日付(N. Braginskaya, 前掲書, p. 85 を参照のこと)は、D. D. ショスタコーヴィチの1946年1月29日の日記で確認される:「19時30分。Малеготでジプシー男爵」(ドミートリイ・ショスタコーヴィチの文書保管所, rec. gr. 4, section 1, f. 2, sheet 16)。

  14. I. Glikman, Journal I, 1946年2月1日の記事, ドミートリイ・ショスタコーヴィチの文書保管所, rec. gr. 4, section 2, f. 1, sheet 7 (rev.). O. ディゴーンスカヤは、現在I. D. グリークマンの日記の出版準備をしている。

  15. B. Khaikin, 前掲書, p. 92.

  16. ヒュームは、彼のカタログの187ページで、総譜のもう一つのコピーを謄写版印刷された総譜と誤って記載している。それは、N. P. ロジデーストヴェンスカヤによって作成された手書きのコピーである。その表紙には、献呈文が書き込まれている:「親愛なるゲネーチカの誕生日4/V-69に。」その筆写の元となった出典は分からないが、このコピーはショスタコーヴィチの総譜と完全に対応する。この自筆譜について熟考する機会を与えてくれたことについて、G. N. ロジデーストヴェンスキイに感謝の意を表する。

  17. オーストリア産業協会の援助を受けて出版されたピアノ・スコアのオーストリア初版の表紙には、絵の中に次のように記されている:Vergnügungszug. Polka (schnell) für das Pianoforte, Op. 281, C.A.Spina, Wien, s.a.;「The Pleasure Train」は、オーストリア版総譜(Doblinger, Wien, 1998)の序文の中に記されている;Train de Plaisir, Polka, Op. 281, A. Buttner, St. Petersburg, s.a.;Treno di Piacere, Galop, Op. 281, R.Stabilimento Ricordi, Milano [Napoli-Roma-Firenze-Londra], s.a.

  18. オーストリア版スコアのNorbert Rubeyによる序文:Doblinger, Wien, 1998.

  19. このことは、ハーイキンがD. ショスタコーヴィチに宛てた1975年2月16日の手紙の中で書いたものである:「第2幕の初めに、列車はどこか遠くの土手を通り過ぎました。この幕の終わりには、列車は反対方向に去っていきました」(N. Braginskaya, 前掲書, p. 87 からの引用)。

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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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