O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(2)

2. 経緯:ショスタコーヴィチ、ボリショイ劇場、「十月プロジェクト」


来る十月の祭典に総力を挙げて、ボリショイ劇場は記念年の年初からプログラムを練り始めた。1月31日に劇場の理事(副支配人のボリース・サモイーロヴィチ・アルカーノフ)と詩人デミャーン・ベドニイは、5幕からなる英雄叙事劇「鍵」(ベドニイによる同名の読み物に基づく)の制作について契約を結んだ10。この作品は、「十月革命15周年を記念してГАБТ(国立アカデミー・ボリショイ劇場)に上演が課せられた音楽作品11」の雛形となるものであった。契約条項によると、詩人は1932年3月15日までに台本を書き上げることになっていた。すぐに、作品の説明を伴った告知がなされた:「『鍵』には、不死鳥、魔法のテーブルクロス、空飛ぶ絨毯などのおとぎ話の表象を用いて、人民が具体化した国家的な希望が十月革命の後に真に英雄的に実現されたという事実が込められている。農民戦士が勝つことのできなかった闇の力を打ち破った7人の鍛冶屋と兄弟の戦士達についてのおとぎ話を挿入することによって、プロレタリアートの主たる役割が強調される。初演は、十月革命15周年の記念日に行われるだろう12」。

ショスタコーヴィチは、民間伝承と革命のプロパガンダを兼ねて着想されたこの壮大な英雄叙事劇に、一か月以上遅れて関わることとなった。1932年3月8日、彼は歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の第2幕を書き上げた。同じ1932年3月8日、彼は「デミャーン・ベドニイの4~5幕からなる劇『鍵』」をオペラ化するという契約に署名した。それによると、歌劇の2つの幕は「十月革命15周年の舞台で上演できるような形で提出されなければならないこれら2つの幕のピアノ・スコアは(1932年)8月1日に遅れることなく提出されなければならない13」。この契約には、歌劇の全曲が上演される時期(1934年)と保証できる歌手の数(10人)が明記されていた14

当時のソ連は紙不足であったが、作曲家が記念の仕事に集中しやすくできるよう、契約に署名した日(これが1932年3月8日である)にボリース・アルカーノフは指揮者アルバート・コーツに次のような依頼の手紙を送った:「あなたもご存じの作曲家D. D. ショスタコーヴィチは、デミャーン・ベドニイの台本による『鍵』のオペラ化について我々と契約を結びました。あなたがYu. A. シャポーリンになさったのと同様に、彼にも何とかして五線紙を提供して頂けないかという私の依頼の意味を理解していただけるものと思います。あなたが、とりわけ私達の劇場とショスタコーヴィチに対して極めて親切に接してくださるのを知っているので、私はこの件についてあえて再びあなたのご厚意にすがりたいのです15」。返事はすぐに返ってきた:「五線紙は既にショスタコーヴィチのために注文しておきました。ベルリンのブライトコプフ社から、ボリショイ劇場のあなた宛てに送ってもらいます16」。

ボリショイ劇場の理事会がとった行動は、まさに時宜にかなっていた。制作発表と同時に公表された1932年の「プログラム」記事の最初の一つにおいてヴァレリアン・ボグダーノフ=ベレゾーフスキイは、新たなソヴィエトのレパートリーで記念日を祝おうという要請のような「十月」の文脈に明確に合致する「ソヴィエトの歌劇が誕生するのはいつなのか」という焦眉の課題を提起した:「ソヴィエトの芸術が今まさに直面している、音楽の分野でボリシェヴィズムの偉大な芸術を創造するという問題は、何よりもまず歌劇に当てはまる17」。いくつかの劇場でなされたありきたりの「過去にやられたのと同じように」記念日を祝福しようとする試みは、この記事の筆者に正当な憤激の念を呼び起こし、悲しげな論調で総括せしめた:「劇場(ГАТОБ、すなわち国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場のこと)は、幕間の曲を寄せ集めた特別公演で15周年記念を祝うと発表した。このようにして、十月革命15周年に対してソヴィエトのレパートリーが多大な貢献をしようとする問題が、いくつかのはかない記念行事を組織することに還元されてしまったのである18」。そこでボリショイ劇場は、合理的な根拠を示して「ボリシェヴィズムの偉大な芸術」たる新しいソヴィエト歌劇で祝祭行事を挙行する日付を提示するために可能な限りを尽くすことで、考え得る非難から前もって自らを守ろうとし、そして恐らくは一息つくことができたのである…

しかし、ボリショイ劇場が大切にあたためた英雄叙事劇の構想が実現することはなかった。契約書に記載された原稿締め切りの5日前の1932年5月10日、デミャーン・ベドニイは手紙でこの仕事が行き詰まったことを劇場に伝えた:「お約束した期日までに、書き上げることはできません。契約を完了することができなかった責任は、完全に私にあります19」。おそらく、直近(1932年4月23日)に発布された全ソ共産党(ボ)中央委員会決議「文学・芸術組織の改組について」 と、その結果としてのРАПП(ロシア・プロレタリア作家協会)の解散が、詩人を困惑させた状況の主な原因であった。РАППはベドニイの創作に特別な関心を示し、なかんずく「詩作のデミャーン化を目指す」というスローガンを提唱すらしていた。РАППが解散した時、指導的なプロレタリア詩人としてのデミャーン・ベドニイの地位は必然的にぐらつき20、そして彼自身もこのことを理解せざるを得なかった。対照的にショスタコーヴィチは、この決議を「ВАПМ(ロシア・プロレタリア音楽家協会)に所属していない作曲家を信頼するものであり、ソヴィエト音楽を新たな高みに発展させるもの21」と評価して、心の底から歓迎した。ВАПМと憎むべきРАППのスローガン―とりわけ、その「同調者」(間違いなく、ショスタコーヴィチは自分自身をそう分類していた22)―に対する彼の痛烈で裏のある批判は、共同作業が成就せずに「デミャーン化」あるいは「ベドニイ化」(これは洒落でもある―ロシア語で“ベドニイ”には“貧弱な”という意味がある)する機会を失ったことを彼がさして残念に思わなかったであろうことを窺わせる23

しかしデミャーン・ベドニイの手紙は、記念行事に責任を負っていたボリショイ劇場の理事会に予期せぬ衝撃をもたらした。劇はただちに他の演目で埋め合わせなければならず、緊急の締め切りに間に合わせる職人精神と能力を持った作家を探さなければならなかった。ボリース・アルカーノフはすぐさま、著名な作家アレクセーイ・ニコラーェヴィチ・トルストーイ(と彼の生涯の共作者アレクサーンドル・オシポーヴィチ・スタルチャコフ)にこの状況を助けてくれるよう依頼するという、時宜を得たようにみえる決断をした。すると1932年5月12日には、返信があった:「私は、D. D. ショスタコーヴィチとA. O. スタルチャコフとの共同作業で、革命と社会主義建設の過程における人間の成長という主題を扱ったオペラを書くことをお引き受けいたします。私達は、以下のように締め切りを定めましょう:オペラの全曲―4~5幕の台本―を1932年11月1日までに仕上げます。あらすじは6月1日までに、第1幕は6月20日までに準備しましょう。そして残りは、11月1日までに上演できる形にしましょう。作者として、十月革命15周年記念の祝賀行事には第1幕を上演できるよう、誓約いたします24」。

同じく1932年5月12日、ショスタコーヴィチもまたこの新しい共同作業に参加することを承諾した。ただし、デミャーン・ベドニイの急な心変わりについて言及した上で、作曲家は新たな契約条項(作家の事情によらず台本を受け取る期日が保証されること)を入れることで、将来の不可抗力から自分の身を守ろうとした。劇場の理事会に向けた声明の中で、彼は次のように記している:「私はこれをもって、私が既に署名した歌劇『鍵』を書くというГАБТとの契約を、トルストーイとスタルチャコフの台本による歌劇を書くという契約に変更することに同意いたします。残りの条件は同一です。私は、台本を受け取る期日(すなわち、第1幕が1932年6月1日まで。残りは、上演できる形で1932年11月1日まで)が契約条項に含まれることを必須であると考えています。D. ショスタコーヴィチ 1932年5月12日25

「作曲家」と「作家」の双方に事前の同意をとりつけたことによって、1932年5月17日、ボリース・アルカーノフは十月の記念行事を保証する2つの契約書を彼らと取り交わした。「作家」には、指定された期日までに原稿を理事会に提出すること、そして「脚本が音楽に適した形になるよう、作曲家D. D. ショスタコーヴィチと調整しながら仕事を進める26」ことが指示された。「作曲家」も、十月革命15周年記念の歌劇の第1幕を準備し、ピアノ・スコアは8月1日、フル・スコアは9月1日までに提出することを約束した27(全曲の上演は、翌年まで延期された)。歌劇のタイトルは、どの契約書にも記されていない。あらすじ(「革命と社会主義建設の過程における人間の成長」)は非常に大雑把に定められており、基本的には作者達にほぼ制約なしの自由が与えられた。

脚本家から第1幕の脚本を受け取った1932年6月20日まで、ショスタコーヴィチは実際に仕事を始めることができなかった。しかしボリショイ劇場の理事会は、長らく苦労した祝賀公演に新たな困難はないと判断し、この公演に注目を集めることで劇場に多くの寄付金を集めようと画策し、急いで事前の告知をした28:「ボリショイ劇場は、劇場の依頼で書かれているアレクセーイ・トルストーイとD. シェスタコーヴィチ(ママ)のオペラの第1幕、シャポーリンとトルストーイによる新作オペラ『デカブリースト』からの抜粋、シェバリーンによる交響詩『レーニン』(歌詞はヴラディーミル・マヤコーフスキイ)を、十月革命15周年記念として準備している29」。その雑誌の次の号では、より完全な情報が出された。この2つの告知を隔てた10日の間に、オペラはタイトル、ジャンル、政治的な傾向、そして出典すら獲得したのである:「ボリショイ劇場は、来るシーズン[1932/33]に新たな諷刺オペラを上演するだろう。オペラの脚本はアレクセーイ・トルストーイとA. スタルチャコフによる。音楽は、作曲家D. ショスタコーヴィチである。歌劇『オランゴ』は、ブルジョアの報道機関に対する政治的な諷刺として着想された。脚本のあらすじは、A. スタルチャコフの小説『アルテュール・クリスティの出世』から借用した30」。おとぎ話的英雄叙事劇から諷刺オペラへの180度の転換を経て、記念作品のアイディアは完全に決定したのである。

十月の記念日をブルジョア的価値観を批判する政治的諷刺で祝うことの適切さと必要性を劇場の理事会に納得させることは、明らかに作家にとって難しいことではなかった。しかしながら、「モスクワ地区のプロレタリア学生の訓練について」計画を練ったボリショイ劇場の監督エレーナ・マリノフスカヤに宛ててモスクワ州労働組合評議会の文化部が1932年7月16日に送った感謝状だけが、理事会が下した決定をより強固なものにすることができた。1931/32年のシーズンにおける高い質の「文化貢献」に対する謝意も示されたこの手紙には、以下の文面も含まれていた:「あなたの劇場の元気で心を鼓舞するような(斜体は筆者による―O. D.)公演を154,500人もの学生達に提供していることは、劇場がその公演を通して社会主義の建設者たる新たなプロレタリアートの育成に(斜体は筆者による―O. D.)積極的な役割を果たしていることを、如実に示しています31」。

「オランゴ」の上演は、「元気」で「心を鼓舞するような」であること、そしてまた、おそらくは「活発」で「力の漲った」ものであることも約束した32。「革命と社会主義建設の過程における人間の成長」という漠然としたテーマは、ボリショイ劇場によって支持された啓発の方向性(「社会主義の建設者たる新たなプロレタリアを育てる」)に一致しており、継続している「文化貢献」の一環としてこの新作オペラを位置づけることを可能にしていた…

しかしボリショイ劇場にとっては不幸なことに事態は再び暴走し、既によく知られた悲しむべき筋書きに従って展開し始めた:作家は脚本を書き上げることはなく、時事的な主題を扱うオペラに対する疑念が膨らみ始めた。ショスタコーヴィチは、1932年10月11日に受け取った通告書の中でこのことについて報告を受けた:「1932年5月17日の契約条項に反して, 作家A. N. トルストーイとA. O. スタルチャコフは現時点で『オランガ』(ママ)の台本を提出しておりません。その結果として、同じく1932年5月17日に劇場と貴殿が交わした契約の但し書きに従い、貴殿がオペラ『オランガ』の作曲に着手する可能性は破棄されました。したがって、現時点において貴殿との合意に基づき、理事会はオペラの台本を受領するまでの間、貴殿に対して支払うことになっていた月々の報酬を一時停止させていただくことを通知させていただきます33」。「了解しました。D. ショスタコーヴィチ 1932年10月15日34」という返信を送り、ショスタコーヴィチは急を要する仕事のリストから歌劇「オランゴ」を削除した(この時点よりも早く、彼の頭の中でリストからはずしていなければ、であるが)。そしてボリース・アルカーノフは直ちに、再び責任を負うことになった新たな記念プログラムの準備に没頭した。記念日を控えたプロジェクトの無慈悲な晴れやかさの中で、状況は真に破滅的な様相を呈していた。ユーリイ・シャポーリンが、口頭でも書面でも約束していた上に理事会とエレーナ・マリノフスカヤ個人から再三確認されていた35にもかかわらず、契約条項を履行せずに歌劇「デカブリースト」の第1幕すら書かなかった36ことが事態をさらに複雑にした。つまりボリショイ劇場は、既に告知していた2つのオペラの初演ができなくなり、十月の祝典前夜を事実上手ぶらで迎えることになったのである。

それでも「オランゴ」の契約凍結は、その前のケースほどこじれなかった。というのも、ショスタコーヴィチとボリショイ劇場は同時に新たな契約を結んだからである。それは歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を1933年に初演するというものであり、双方がそれに等しく関心を示していたと同時に、おそらくは双方が信義を尽くすと共に経費の面でも埋め合わせをしたものと思われる。もし成功すればこの歌劇の初演は十月の大失敗が残した苦い後味を消し去ることができるので、何よりもまずこの成功を収めなければならなかったのだ。第三の手強いライヴァル(ГАБТ)が、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を上演しようと張り合う2つの劇場(レニングラードのМалеготとモスクワのネミローヴィチ=ダーンチェンコ記念音楽劇場)の熾烈な争いに加わったのである。

ここまで特に断りなく、以前は知られていなかった文書が光を当てることとなった不首尾に終わった公演のこまごまとした詳細について述べてきた。10月の第2週の間、ショスタコーヴィチは依然として事態が好転することを望んでいた、ということは言えるだろう。起こりつつあるスキャンダルに不安はあったが、好ましい予感と締め切り(1933年1~2月)に刺激される形で、2ヶ月の休止を経て、彼は再び歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の作曲に熱中した。「第4幕/第9場」という但し書きのある第4幕のスケッチの頭には、 彼の署名と日付「D. ショスタコーヴィチ 1932年10月15日」が記されている37。この同じ日に、彼が不運に終わった「オランゴ」の作曲を破棄する契約に署名したことを思い出されたい。それは、もはや可能性も時間も欲求も、そしてやり遂げるだけの精神力もなかったが故の結果であった。スタルチャコフとトルストーイが台本を執筆できなかったという事実は、記念公演の頓挫について作曲家が全く非難されなかったことを意味する。そしてボリショイ劇場との新たな合意は、興味の矛先を変えたのだ。

  1. 以下の文献を参照のこと:D. Bedny, The Key, Zavody i fabriki, Moscow, 1927, pp. 10-15.
  2. RSALA, rec. gr. 648 (of the Bolshoi Theatre), inv. 2, f. 776, sheet 37.
  3. “A Fairytale That Came True”, Rabochii i teatr, No. 5, 1932, p. 23.
  4. RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 776, sheet 185 .
  5. 同上(以下の文献も参照のこと:Notification of the All-Russia Society of Playwrights and Composers to the Bolshoi Theatre of 28 March 1932 - RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 841 , sheet 333)
  6. RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 745, sheet 206. Typed copy.
  7. アルバート・コーツがボリース・アルカーノフに宛てた1932年3月16日の手紙(RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 745, sheet 198rev. Author's manuscript)を参照のこと。
  8. V. Bogdanov-Berezovsky, “When Will There Be a Soviet Opera? (A Topic of Discussion)”, Rabochii i teatr, No. 5, 1932, p. 4.
  9. 同上, p. 5.
  10. RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 776, sheet 38. Author's manuscript.
  11. 詳しくは:I. Kondakov, “‘A Fable, So to Speak, or the Death of an Author’ in the Literature of the Stalin Era”, Voprosy literatury, No. 1 , 2006, available at [http://magazines.russ.ru/voplit/2006/1/ko11.html].
  12. “We Are Responding to the Central Committee's Resolution with Full-Fledged Compositions: D. Shostakovich (composer)”, Rabochii i teatr, No. 16, 1932, p. 5.からの引用
  13. ショスタコーヴィチは、次のように記している:「…[ВАПМは]蔑み、うぬぼれ、無関心、そして左翼の偏向といった事柄に狂喜した。ВАПМは同調者を育成するという問題に少しも取り組んでいなかった。彼らの声明の中にはただ悪口や空理空論、扇動だけがあり、同調者と彼らの作品にレッテルを張っているだけであった。今や、彼らに終わりが訪れた…」(Rabochii i teatr, No. 16, 1932, p. 5)
  14. オデッサ滞在中の1930年7月19日の書簡で、ショスタコーヴィチは「才能のある詩人で同調者(斜体は筆者による―O. D.)イリヤ・セルヴィンスキイが、今オデッサにいます…」とイヴァーン・ソレルティーンスキイに知らせる必要があると考えた(D. D. Shostakovich, Letters to Ivan Sollertinsky, p. 62.からの引用)。「同調者」の問題についてごく正当な個人的関心を寄せていたので、作曲家は1932年までの間に文学サークルで発表されたセルヴィンスキイの有名なエピグラムに気付いていたと思われる:「文学は、細々とした叙述が並べられた/パレードではない/私はデミャーン化することを嬉しく思うが/ベドニイ化は何の喜びももたらさない」(G. A. Belaya, Don Quixote of the 1920s: “Pereval Group” and the Fate of Its Ideas, Moscow, 1989 , p. 264, in Russian.からの引用)。これまで述べられてきた、ショスタコーヴィチとデミャーン・ベドニイとの関係を思い出されたい。1927年、作曲家はデミャーン・ベドニイの詩「大通り」に基づく公演の準備に、積極的に参加した。そして1929には、尊敬すべき詩人との共同作業を独自に行おうと考えた。1929年4月19日、ショスタコーヴィチは, 自身の関心を隠そうともせずに、第3交響曲のためにデミャーン・ベドニイの詩を使えないかと、L. V. シューリギンに直接依頼した。この背景には、「D. ベドニイは非常な気迫と英雄的精神で(「大通り」やその他作品を)執筆している。もし彼がメーデー交響曲のために何か書いてくれるとすれば、素晴らしいことだ(Dmitri Shostakovich in Letters and Documents, Edited and compiled by I. A. Bobykina, Moscow, 2000, p. 183, in Russian)」とショスタコーヴィチが述べている事実がある。ベドニイはそれに同意し、ショスタコーヴィチは少なくとも2度に渡って詩人に私信を送っている(ヴラディーミル・ヴィノグラードフに宛てた1929年6月27日の手紙(同上, p. 393)の中で、ショスタコーヴィチはこのことに触れている)ことが知られている。1929の時点では、理由は分からないものの、この共同作業が実現することはなかった。そしてこの出来事は作曲家を非常に悲しませた。ここまで見てきたように1932年もまた共同作業は実現しなかったが、ショスタコーヴィチの反応は異なっていた:かつての敬意の跡は残っていなかったのである。
  15. RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 776, sheet 111. Authorized typed copy.
  16. 同上, sheet 112. Authorised typed copy. 本文で引用しているショスタコーヴィチの文章は、全て筆者が編集したものである。
  17. RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 776, sheet 113.
  18. 同上, sheets 182, 182rev., 183. 契約書の最終ページに、赤鉛筆によるショスタコーヴィチの書き込みがある:「契約書一部を受領。D. ショスタコーヴィチ 32年5月19日」
  19. ボリショイ劇場の簡易広告1932年第23号にある「工場地方委員会」に向けた追加の広告では、十月の祝賀行事に先立って「午後12時から、10月3日までに」チケットの団体購入を要求している。それは「この日を過ぎると購入が検討されることはないだろう」と考えられたからであった(RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 2435, sheet 11)。「お金は後からやってくる、それは全ての劇場にとって共通の現象であり、当然、我々の予算に重大な影響を及ぼすものです」と、ボリース・アルカーノフは全般的な問題に言及しつつ、ボリショイ劇場の理事エレーナ・マリノフスカヤに宛てた1932年10月13日の手紙の中で述べている(RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 805, sheet 71rev.)。
  20. “New Performances of the Bolshoi Theatre”, Rabochii i teatr, No. 17, 1932, p. 22.からの引用。
  21. Rabochii i teatr, No. 18, 1932, p. 15.を参照のこと。
  22. RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 841, sheet 252.
  23. コミカルで“軽い”ジャンルのものとして書かれた記念日用の作品には、これらの要求に応えることが求められていた。そして作者達は、そのことを自覚していた。劇作家V. V. ヴォールコフは、十月革命15周年の準備に関する短いエッセイの中で、このことを強調している:「私は、2つのオペレッタの脚本に取り組んでいる……私は、十月革命15周年記念に相応しい生き生きとした元気で覇気に満ちた舞台(斜体は筆者による―O. D.)になるよう、自分自身に課している(“Playwrights Are Preparing for the 15th Anniversary of the October Revolution”, Rabochii i teatr, No. 4, 10 February 1932, p. 8)」。
  24. RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 776, sheet 184.
  25. 同上。
  26. ГАБТの理事会がユーリイ・シャポーリンに宛てた1931年9月12日の手紙(RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 804, sheet 323)、エレーナ・マリノフスカヤが作曲家に宛てた10月5日の手紙(同上, sheet 212)および、シャポーリンからマリノフスカヤに宛てた1931年10月18日の返信(RSALA, rec. gr. 648, inv. 2, f. 745, sheet 146)を参照のこと。
  27. ユーリイ・シャポーリンは、アレクセーイ・トルストーイの台本による歌劇「デカブリースト」(原題「Polina Gyobe」)を20年以上にわたって書き続けた(そのことは、音楽仲間の中で数多くのジョーク、警句、諷刺の対象となった)。この歌劇は、1953年までボリショイ劇場で上演されることはなかった。
  28. D. D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 1, section 1, f. 10, sheet 45 of arch. pag. 自筆譜は、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」全4幕のスケッチである(若干の紛失はある)。ショスタコーヴィチはスケッチの冒頭に「1930年1月14日」の日付を記している。そのことは、筆者が2007年に初めて科学的調査の結果として紹介したものである(0. Digonskaya, “Shostakovich in the Mid-1930s: Opera Plans and Creations (on the attribution of an unknown author's manuscript)”, Muzykalnaya akademia, No. 1, 2007, p. 56.および0. Digonskaya, “Shostakovich's Unwritten Operas (on the basis of two unknown author's manuscripts)”, in: Dedicated to D. D. Shostakovich: On the 1OOth Anniversary of the Composer's Birth. project author and editor-compiler E. B. Dolinskaya, Moscow, 2007, p. 66, in Russian.を参照のこと)。これまでに知られてきたもの(10月14日)の9か月前となるこの衝撃的な日付は、ショスタコーヴィチがこの歌劇を作曲していた時期に大きな違いを生じさせるものとなろう!しかこのことはし、まさにこの理由によって、最新の注意を払って考察しなければならない。ショスタコーヴィチは「1月」ではなく「10月」と書いたのかもしれないし、数字が紙の擦り切れた折り目にまたがって書かれているという事実が、文字が部分的に消えてしまった原因なのかもしれない。このように重要な疑問に対して最終的に結論付ける前には、専門家による検証が必要である。1930年1月14日という日付は(説明はないが)、次の文献にも示されている:I. Levasheva, “First Edition of Dmitri Shostakovich's Opera Lady Macbeth of the Mtsensk District”, in: Dmitri Shostakovich. New Collected Works, Vol. 52b, Lady Macbeth of the Mtsensk District, Op. 29, Score, DSCH, Moscow, 2007, p. 380(I. Levasheva, “Textological Comments", in: Dmitri Shostakovich. New Collected Works, Vol. 52 b, p. 388.も参照のこと)。
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まとめ【O. ディゴーンスカヤ】

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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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