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O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(4)その2

このように、スタルチャコフのあらすじでは、オペラは3幕で構成されている:文章は、アラビア数字で番号が振られた3つの部分に分けられている。これと対応するように、スタルチャコフが書いた表題の最終版にある「5幕の諷刺オペラ」という箇所が、トルストーイが原稿全体を校正する際に用いた青鉛筆で線を引いて取り消されている。あらすじの最終段落を考慮すると、それがすべてトルストーイによって提案されたもので、話がまだ続くことを想定していることから、トルストーイはオペラが3幕以上になると予想していたと結論付けられるだろう。しかし、彼が書いた筋書きの続き(オランゴの転落と遺伝的な心への回帰)には、番号が振られなかった―作者は、それを追加の幕として計画せずにエピローグの類とみなしたのか、あるいは単に番号を振るのを忘れたのかのどちらかだろう。おそらくは、エピローグをつけるという構想が、トルストーイにプロローグ(実際、後にショスタコーヴィチが音楽を作曲している)を書こうと考えさせたのだろう。歴史的な出来事を背景にオランゴの生涯を演じるという話を通して、プロローグで各自の過去を明らかにしながら登場人物達が顔を合わせる場面は、筋書きの点においてオペラの結末(エピローグ?)と関連付けられ、全体の構造を循環的にしている。しかし、幕数の問題は未解決のままである:4幕とエピローグなのか、3幕にプロローグとエピローグなのか、それとも5幕なのか?どの形でも、契約書の要求(「4~5幕の」)は満たされる。しかし、この時点でトルストーイが最終的な決断を下すことができなかったのは明白で、表題から疑問の残る部分を単に消しただけであった。

雑種の養父の名であるジャン・オルだけでなく「オランウータン」にも由来し、それゆえに「二重の遺伝的母体」を有することを意味する明解で関連性を持った簡潔な主人公の名前を思いついたのがトルストーイであることも、明らかである。スタルチャコフは主人公を「雑種」か「ルースの息子」とだけ呼んでいる。オランゴという名前が最初に現れるのはトルストーイの修正においてで、文章の真ん中ほど、第2幕である:「ジャン・オルの、あるいはオランゴの最初の輝かしいデビュー記事は、ドイツの服従に関するものであった」69。作者はいくつかの固有名詞の変更もした70が、アルベール・デュラン、エルネスト・グーロー(結局、後にアルマン・フルーリに改名された)、彼の娘のルネ、そして類人猿ルースの名は、そのままにされた。

蔵書カードにある1930~1931年という日付71は、正しくは1932年6月5日とされるべきだろう。それから数日の内に、トルストーイの修正が完了した。しかしこの日付もまた、トルストーイが大きく取り消し線を引いており、疑問を提起している。1932年5月17日の契約書によると、作家達は6月1日までにボリショイ劇場の理事会にあらすじ(完成した概要)を手渡すことになっていたことを、思い出されたい。さらにまた、経験豊富な作家達が決められた締め切りに間に合わせることができなかっただけでなく、締め切りを過ぎてからもなお彼らが作業を始めたという疑問も残る。なぜなのだろう?契約書にあるオペラのテーマとオランゴの筋書きとの間に関連がないことも、驚くべきことである。主人公のグロテスクで恐ろしいイメージと、世界の大変革期に彼が辿った数奇な運命は、たとえこじつけにしても、「革命と社会主義建設の過程における人間の成長」とは解釈され得ない!オランゴは、宣言されたテーマとはむしろ反対の内容であるとも受け取られる。その意味するところは逆転している:成長ではなく堕落、人間ではなく猿人、ロシアではなく西側の資本主義社会、革命と社会主義建設ではなく国際的な反動気運とブルジョア的理想の腐敗の激化といった具合である。これらの事情―「オランゴ」の執筆作業における時間的な経過と、契約の中できっちりと決められた枠組みを不可解なまでに逸脱したその「テーマ」―は、作家達と作曲家が、当初は十月革命記念のオペラとは全く異なる物をボリショイ劇場に提出しようと計画していたのではないか、そしてそれは何らかの理由で完成にまで至らずに重大な局面で歌劇「オランゴ」に置き換えられたのではないか、という仮説を脳裏によぎらせる。

筆者は、この仮説を確認する史料を発見することができた。蔵書目録には、次のようにある:「トルストーイ, A. N.・スタルチャコフ, A. パルチザンの息子. オペラ台本. 構想. A. スタルチャコフによる自筆原稿およびタイプ原稿」。括弧の中には、「ショスタコーヴィチ?」という記述と1932年5月30日の日付が書かれている72。このファイルも、2つの文書から成っている。一つ目は、トルストーイとスタルチャコフが台本を書き、「シェスタコーヴィチ」(ママ)が音楽を担当した歌劇「パルチザンの息子」のあらすじのタイプ原稿である。この原稿にはスタルチャコフによる修正の跡があり、「1932年5月30日 A. スタルチャコフ」(1~2枚目)と自署されている。二つ目は、オペラの第1幕の細かな筋書きについて、スタルチャコフが手書きで書いた草稿(sheets 3~5)である。タイプ原稿にもスタルチャコフの直筆にも、トルストーイによる書き込みはない。

5月17日の契約においてボリショイ劇場の理事会に「あらすじ」を提出する締め切りとして示された6月1日の直前にあたる、1932年5月30日という日付を読み取ることは容易である。。筆者は、スタルチャコフのタイプ原稿が事実、まさに「あらすじ」であると確信している。直筆原稿は、劇の第1幕が書き始められていたという事実を証明する。そしてその劇は、十月革命15周年にショスタコーヴィチの音楽をつけて舞台にかけられる予定だったのだ。

「パルチザンの息子」の筋は、平凡で単純なものである(アルタイの貧しい人々の中世風の意識を克服するために奮闘するソヴィエトの科学者達、「緑」の保護者達と黄砂との対決、ソヴィエト体制の素晴らしさに気付いて「誤った」父親を裏切る「優柔不断な」学校教師の感情的な苦難と最終的な選択)。独創性や複雑さ、あるいは真の劇的な性質はなかったにもかかわらず、それは「記念」のありきたりな筋書きに容易に適合し、契約に明記されたテーマを完全に反映したものであった。しかし、誰がこの構想の成就を妨げたのだろうか?5月30日から6月5日の数日の間に何かが起こり(あるいは、誰かが強硬な意見を言明し)、それゆえに「パルチザンの息子」の執筆が中止されたことに疑う余地はない。台本作家達は、明らかに彼らの作ったあらすじに満足していた。そしてボリショイ劇場は、それを受理した(そうでなければ、スタルチャコフは第1幕の詳細な展開を書き始めることはなかっただろう)。そこで、ショスタコーヴィチと、進行中の作業について彼が言わなければならなかったであろうことが、疑問点として残る。彼は「記念」作品の運命を決定する権利も有していたし、どうやらそれを利用した節もある。彼は自分の意見を言い、作品の取り換えを要求し、そして忘却の向こうから「オランゴ」を掘り起こしたのだ。

1932年7月19日、ショスタコーヴィチとスタルチャコフの親しい友人であるガヴリイル・ポポーフは、自分の日記に書いた:「…6月12日以来、トルストーイとの関係は、彼がしたことによって損なわれている。私自身とトルストーイ、スタルチャコフとの間に交わされた共同合意に基づいて私が約束し、私がそのジャンルを熱烈に推したおかげでスタルチャコフが記憶の奥底から掘り起こすことになった悲劇的オペラ・ファルサのテーマは、突然(!)ショスタコーヴィチのために(!?!)ボリショイ劇場に売られたのだ(!)。私は、これら全てが既成事実となった後で知らされた。彼がこそこそと振る舞ったことが明らかになると、トルストーイは、私がこのテーマを断った理由は恐らく締め切りに間に合わせることができないと思ったからだろうという噂を広めているのだ…73

1932年7月にポポーフが書き記した、スタルチャコフによって構想され、ショスタコーヴィチに与えられた(ボリショイ劇場に売られた!)トルストーイとスタルチャコフによるオペラのテーマとは何だったのだろうか?この問題は、スタルチャコフの古い小説から想起された、すなわち「スタルチャコフが記憶の奥底から掘り起こすことになった」歌劇「オランゴ」とのみ関連付けられるだろう:スタルチャコフとトルストーイとショスタコーヴィチの三者は、この時点で第三のオペラの構想を持っていなかった。第一に、ショスタコーヴィチは既に「パルチザンの息子」は拒否しており、判明したところによれば、その筋書きはポポーフが主張しているものからはずれている。第二に、「パルチザンの息子」は「悲劇的オペラ・ファルサ」のジャンルという要求には明らかに合致しない。対照的に「オランゴ」には、そのジャンルの特徴が完全に与えられている。加えてポポーフは、「オランゴ」の締め切りはきちんと明記されてすらいなかったにもかかわらず、「恐らく間に合わせることができないと思った」締め切りに言及している。締め切りは、ほぼ決まっていたのだ。

さらに重要な証拠もある。1932年[6月]25日の日記で、直接の目撃者であるL. A. シャポーリナは、記念オペラに関する5月末から6月にかけて起こった事柄の詳細を書き留めている:「2回に渡る交響曲のリハーサルが行われたモスクワから戻ったユーリィ[・シャポーリン]は、数名の知人のところへ行った。彼はポポーフとトルストーイらの元を訪れ、夕方には再度ポポーフのところに会いに行かなければならないと言った。G. N.は、脚に腫瘍ができて寝込んでいた… 彼は私達(私達に加えて、アラポフとボグダーノフ=ベレゾーフスキイが同席していた)に次のようなことを話した。5月の終わりに、彼はトルストーイとスタルチャコフに対して彼がいかに笑劇を書きたいと思っているかを話した。スタルチャコフは額を叩いてこう言った:『笑劇に抜群の話がありますよ。私が1930年に書いた話です』。ポポーフはその話がとても気に入り、トルストーイの要求に応えて翌日には劇場理事のブッフシュタインに会いに行き、彼の関心を引いた。彼はその構想にとても惹かれたので、マリイーンスキイ劇場の要請で既に書き始めていた作品と同時に、このオペラ・ファルスを書くことを夢見た。彼は体調を崩し、6月6日にはトルストーイが、台本を書くと約束をしたスタルチャコフとショスタコーヴィチが滞在していたモスクワへと旅立った。

「彼らがモスクワから戻ってきた時、トルストーイとスタルチャコフはポポーフに会いに行き、彼らがその物語をマリノフスカヤに提示し、そのことを聞いたミーチャ・ショスタコーヴィチがとても喜んで、他のテーマについては何も聞きたくないと言った、ということをポポーフに話した。結果として、彼らは笑劇のテーマを、ショスタコーヴィチのためにボリショイ劇場に売ったのである。彼らは戻ってくるとガヴリイル・ニコラーェヴィチのところへ行き、あたかも都合の悪いことは何も起こらなかったかのように、全て事後になってから話したのだった:彼らはマリノフスカヤにテーマを話し、その場に居合わせたミーチャ・ショスタコーヴィチがそのテーマをとても気に入ったので、他のオペラは書くつもりがないと言って、そのテーマを欲しがった、という風に。しかしながら、その時モスクワにいたユーリイは、トルストーイが前もって筋書きを渡した上でショスタコーヴィチと共にモスクワへやって来たのだと主張している。一方、何も知らされていなかったポポーフは、2週間かけてオペラの創作に取り組んでいた。全ては、容易に説明され得る。ボリショイ劇場の理事会は、『優等生』シャポーリンとショスタコーヴィチ、そしてシェバリーンを記念公演に参加させることを決定した。ショスタコーヴィチがこの記念公演に参加することで、いくらかの資金を手に入れることができた。したがって、台本作家達がポポーフと交わした口約束は、あまり意味をなさなかった。しかし、誰も他の物語を思いつくのに十分な想像力を持ち合わせていなかった。ユーリイは、トルストーイとゴーリキイのところで昼食をとった。トルストーイは自分がどのようにしてコミック・オペラの台本を書いているかについて話し始めた。それに対してゴーリキイは、セルヴィンスキイが書いた似たような話を読んだことがあると言い返した。この言い合いは、極端に不愉快な結果に終わった。翌日、ユーリイはトルストーイに会いに行き、彼が記者と一緒にいるのを見た(記者については、後にその場に居合わせたスタルチャコフによって誤りが指摘された)。記者が退出すると、アレクセーイ・ニコラーェヴィチは怒りを爆発させた:『一体全体、どうしてやつらはセルヴィンスキイの物語だなんて言うんだ。盗作の件で4度目の法廷になんて行きたくないぞ!』(「機械の反抗」「皇后の陰謀」他のことを指している)。ユーリイが、オペラはスタルチャコフが1930年に着想した物語のテーマに基づいて書かれていることを表明した手紙を編集部に宛てて書くことを思いつくまで、彼らは非常に悩まされたのだ74」。

状況の道徳的な雰囲気や微妙なニュアンスは、いくつかの日付と同様に、極端に曖昧で特別な注釈が必要である。しかし謎の「コミック・オペラ」に関しては、「オランゴ」でしかあり得ないことに疑う余地はない。ポポーフの日記には書かれていない追加の事実((1)報道から明らかになっている、記念公演に参加する者の名前(ショスタコーヴィチ、シャポーリン、シェバリーン)、(2)「セルヴィンスキイの話」(すなわち、「オランゴ」の文学上の兄にあたる劇「パオ=パオ」)への言及、(3)「スタルチャコフの物語」に関する告知の中で与えられている情報)は、このことを明白に示している。また、ショスタコーヴィチが偶然に聞いた(あるいは特別に彼に委託された)物語に、すぐに創造的な予感に誘われ、熱烈な関心を寄せたことについても、確信できるだろう。
  1. これは、スタルチャコフが創作作業の初期段階においてオペラの名前(「オランゴ」)を含む表題を原稿に書き込んだのではなく、次の段階においてトルストーイが原稿に加筆した後で、主人公の名前を「見つけた」(おそらくは議論の結果であろう)ということを意味している。
  2. スタルチャコフの案では、オランゴの養父ジャン・オルはアンリ・ピトゥとされていた。トルストーイがとりあえずゾーヤ・モンローズという名(トルストーイの小説「ガーリン技師の双曲線」(1925~1927)のヒロインの名)を与えた亡命ロシア人で雑種の結婚相手は、元々カルナウーホヴァ(ファースト・ネームはトルストーイの修正の跡を通して判読することはできない)と呼ばれていた。ショスタコーヴィチの自筆譜では、彼女はスザンナと呼ばれている。
  3. ゴーリキー記念世界文学研究所手稿部便覧によると、「オランゴ」の台本にはもっと早い日付[1910年代]が与えられている(以下を参照のこと:Guide to the Record Groups of the Manuscript Department of the RAS Gorky Institute of World Literature, Iss. 1, Personal depositories, RASIWL, Moscow, 2000, p. 242, in Russian)。
  4. 世界文学研究所手稿部, rec. gr. 43, inv. 1, f. 476. ゴーリキー記念世界文学研究所手稿部便覧には、アレクセーイ・トルストーイとアレクサーンドル・スタルチャコフによる「パルチザンの息子」の台本に関する情報は掲載されていない。
  5. G. Popov, From Literary Inheritance, Edited and compiled by Z. A. Apetian, Moscow, 1986, p. 246 (in Russian).からの引用。 校訂報告では、以下のように述べられている:「D. D.ショスタコーヴィチは、A. N. トルストーイとA. O. スタルチャコフが手掛けた「悲劇的オペラ・ファルサ」のテーマによるオペラを書かなかった」(同上, p. 401)。これは、一部分だけ正しい:ショスタコーヴィチはオペラに着手したが、完成させなかった
  6. ロシア国立図書館手稿部, rec. gr. 1086, f. 2, sheets 83rev.-85. L. V. シャポーリナの日記は判読済みであり、現在はV. N. サージンによって出版準備中である。筆者は、この日記の断片を指摘してくれたL. G. コフナツカヤと、この史料を詳しく調べて引用することを許可してくれたV. N. サージンに感謝する。
    原文では、この書き込みには1932年5月25日の日付があるが、それはおそらくペンが滑ったのであろう。文章の内容と既知の時系列との比較から、L. V. シャポーリナの書き込みは6月25日以前にはなされ得ないことが分かる。この時までに、「オランゴ」の最初の短い告知がRabochii i teatr(No. 17)に掲載されている。しかし、台本作家達はいくつかの情報を提供する機会を持っており、次の告知(No. 18)ではA. スタルチャコフの物語について、実際に情報を明らかにしたのだった。
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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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