O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(5)その2

以上のように、例外を除いてほとんど全ての場面において、単語やフレーズの順番の変更からそれらの総数に至るまでの相違がある。主な相違点は、以下の通り:
  • 台本には舞台演出の詳細や舞台装置についての記述が含まれているが、ショスタコーヴィチ版にはそれらがない。
  • 他の相違点に加えて、台本には「南京虫」への仄めかし(「この世の不思議」のリストにおける「モスクワには、もはや南京虫はいません」という台詞や、「106歳」の一節)がない(ただし、「ベロモルカナルの話題」はある。これは政治的に妥当であり、同時代の読者にとっては不吉なものであった)。
  • バレリーナのナスチャ・テルプシホロヴァ(ショスタコーヴィチ版)が、台本では「イヴァーノヴァ22世」と改名されている79
  • 台本では、発生学者のアルマン・フルーリ(エルネスト・グーローでもある)80がオランゴの父親であるという驚くような告白がなされている。それはショスタコーヴィチが楽譜の中に書き込んだテキストにはなく、せいぜいがあらすじの文脈の中で推測できるに過ぎない。
  • 最大の違いは、プロローグのフィナーレにある。台本はより長大で構造的に複雑であり、ショスタコーヴィチ版はより簡潔で構造的に精巧かつ形式的である。作曲家はヴェセリチャクの主張「笑い声、笑い声、笑い声とは何でしょうか?」を完全に無視しており、バス独唱から短いが効果的な歌を奪っている。また、ショスタコーヴィチは、俳優達に「歴史的な」お面を手渡す際のヴェセリチャクの台詞に注意を払っておらず、オランゴの生涯における闘争のリストを短くすらしている。さらに彼は仰々しい最後の合唱を削除し、忠告するような感じの愉快な斉唱「笑おう、笑おう」で幕を閉じている。
ショスタコーヴィチが楽譜の中に書き込んだテキストと台本との相違の理由は、何なのだろうか?理由の一つは、作曲家自身が表現している意図の中から探られるべきだろう。自筆譜に認められる言葉を短くする傾向や、笑い声(犬の吠え声に似た)81に関するヴェセリチャクの「アリオーソ」の意図的な削除は、真に諷刺的かつモーツァルト風の衝動的な所作を達成したいという願望の証しではないだろうか?もう一つの、そして非常に重大な理由は、1932年7月の改訂である。このことについては、ゴーリキイにいたA. N. トルストーイが妻N. V. クランジェフスカヤに宛てた同年7月23日の手紙から明らかである:「非常に重要:もしショスタコーヴィチがデーツコエ[サンクト・ペテルブルグの近郊]にいるなら、会いに行って、台本の始めの部分に変更があると伝えてくれ。台本は、今送るべきだろうか?それとも、8月に帰宅してからの方がいいだろうか?82

手紙の引用部分は、歌劇「オランゴ」の名を直截的に出してはいない。しかし、トルストーイがそれについて述べているということは明白である:「オランゴ」の執筆の主要な部分は、契約に従って1932年夏には出来ていた。トルストーイは、劇全体の台本が完成していて、変更を行ったその最初の部分について手紙で言及しているのか、それとも劇中の特定の部分(プロローグ)について言及しているのかについては何も語っていない。劇全体がこのような短期間に完成されることはないので、手紙は明らかにプロローグにのみ当てはめられ、自筆原稿がこのことを裏打ちする。タイプされている頁のページ番号が3~7である(ページ番号もタイプされている)ことから判断すると、台本には1~2のページ番号が振られた頁(おそらくは、トルストーイが妻に「台本の始めの部分」と書いた部分)も含まれていたと考えられる。改訂すると決めると、トルストーイはタイプ原稿の最初の2ページを抜き取り、って手書きの3ページを挿入し、混乱したページ番号を修正したので、原稿は1ページ分長くなった。トルストーイは手紙の中で言及していないが、プロローグを締めくくる最後の合唱の歌詞は、この時に同じ黒インクで書かれたことも明らかである。

プロローグの開始部分と終結部分におけるテキストの差異の性質から判断すると、ショスタコーヴィチは原文、すなわちまだトルストーイによって修正される前のテキストに基づいて作曲したと考えられる。このことは特に、ショスタコーヴィチの自筆譜にはフィナーレの祝祭的な合唱が欠けていることから明らかである。この合唱は明らかに当初は想定されていなかったが、後で構想の中に加えられたものである。最初の合唱の場面には、視覚的な差異もある。テキストは、いくつかの行において順序の変更はなされているが、作曲家による任意の侵入(追加!)は場外されている。つまり、ショスタコーヴィチが、初稿の歌詞を使ったと考える方が容易である。「この世の不思議」についても同じことが言える。ショスタコーヴィチが、これを修正する極めて個人的な理由があったとは思われない。一定以上の意思が必要な、国家が経済的および社会的に達成した事項の面白おかしいリストをまとめる作業は、2人の作家(作曲家ではなく)に可能であった。加えて、作曲家には「アゾフ海の稲作地帯」(台本)を「クバンの稲作地帯」(自筆譜中の歌詞)に自身の決断で変更したり、「数千の新しい都市」という大まかな表現をより確かな「280」という数値に修正したりする、いかなる創造的な動機もなかった。また、おそらく1932年の時点で、彼はベロモルカナル建設に隠された真の悲劇のことは知らなかっただろう。このことは、彼がそれをテキストから削除する理由はなかったということを意味する。つまり、彼は単に異なる、すなわち修正前のテキストに対して作曲したのだ。このことは、1932年5月17日に作曲家と交わされた契約に記された台本の締め切り起源によっても、間接的に示される。8月1日までに完成したピアノ・スコアをボリショイ劇場に提出するために、6月20日あるいはその少し後でプロローグ(第1幕)の台本を受け取った後、ショスタコーヴィチは直ちに作曲し始めなければならなかっただろう。この出来事、すなわち7月中旬に音楽の草稿を書き上げた後でのみ、彼は劇場の要求、つまり草稿を「インク書きで、より鮮明に…」(契約書の第5項)清書するという契約を遵守して8月までにピアノ・スコアを準備することができた。なぜなら、清書のためには草稿が必要だったからだ83

トルストーイが台本にあまり多くの変更を加えていないことを、見て取ることができる。文面の修正は、おそらく舞台演出にあまり意味を持たなかっただろう。どの場合においても、「オランゴ」の自筆譜は、ト書きに対する作曲家の知識を説得力を持って示しており、「修正の場」の様相を呈している。最初の合唱の場面で突然鳴り出すファンファーレは、間違いなく次のテキストに対応する音楽である:「トランペット奏者は、舞台上でトランペットを吹く。トランペットが合唱をかき消す」。これは、唯一の例ではない。台本作家達が心に描いた「オーケストラは、金切り声のような和音を奏でる」もまた、それに相当する音楽を獲得している。そしてもちろん、ショスタコーヴィチは(これもまた台本の指示に従って)アマチュアの一座の俳優達が登場する際の行進曲も導入している。この一座は、「過去に起こった出来事のお面」をまだ装着していない。彼らには、オランゴについての、無邪気な笑いや邪悪な諷刺、ぞっとするようなグロテスクさ、犯罪、血、そして情熱に満ちた印象的な話を「演じる」時間がなかった。

ショスタコーヴィチは、台本の編集に直接関わったのだろうか?また、実験科学者イリヤ・イヴァーノフの真に劇的な運命によって台無しにされた、この幻想的な物語を作り上げる過程に、彼はどのように関係したのだろうか?「ムツェンスク郡のマクベス夫人」第3幕の作曲で忙しく、それまでは請け負ったオペラの台本が出来上がるのを待っていた作曲家が、文学上の作業を見守り続けたのだろうか?契約に書かれたように彼らの作業を調整するためには、作曲家と台本作家は個人的に会って、全てについて話し合わなければならなかっただろう。したがって、ショスタコーヴィチは台本の最新の進捗状況に遅れないようにする必要があった。さらに、彼はおそらく、少なくとも筋書きを固める段階で、文学上の作業に積極的に関与したものと思われる。また、それ以外の関与を期待することは難しいだろう。オペラの基本的な文学的原則に対するショスタコーヴィチのよく知られる厳格な態度は、いつも台本の創作に対して積極的に関与すべく彼を駆り立てた。ただし、その構想が音楽表現に値すると感じた場合のみではあったが。まだ青年であった頃、彼は初期の歌劇「ジプシー」の台本を、自分の好きな文句をプーシキンのテキストに付け加えながら、自身で編集した84。彼は、歌劇「鼻」の台本作家の中に、アレクサーンドル・プレイスとエヴゲーニイ・ザミャーチンと共に名を連ねた。そして、プレイスと協力して歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の台本を書いた。1930年代初めに彼が諷刺オペラ(「最も面白いのは、それが笑劇で始まり、血まみれの悲劇で終わることだ」85)を書こうと計画したとき、ショスタコーヴィチは自分自身でそれを考え出し、それから細部に渡って物語を熟考した:「私は、このオペラについて長い時間をかけて考えてきた。そして、自由になる時間が出来た隙に、その筋を最後まで全部考えた。今は、詳細に細部を詰めている。それから、スコアに進むことができる…」86 死の直前に「肖像画」(ゴーゴリ原作)や「黒衣の僧」(チェーホフ原作)に没頭した(それらが完成することはなかった)ショスタコーヴィチは、台本制作において最も積極的な役割を果たした(ただし、「黒衣の僧」の概略は、彼の妻イリーナ・ショスタコーヴィチが参加して先にまとめられていた)87。このオペラの経験に基づき、ショスタコーヴィチにはよくあることだったが、作家達と作曲家の協同に関する契約条項を心に留めていて実際に共同作業をしたという事実だけでなく、作曲家が作家達の仕事を何らかの方法で手助けしただろうことが確信されよう。しかし、「オランゴ」の筋書きにおける目に見えぬ彼の存在を示す、より重大な事実がある。

1929年、フセヴォロド・メイエルホーリドの示唆により、ショスタコーヴィチは「南京虫」上演のための音楽を作曲し、しばしばマヤコーフスキイと会った。劇場との創造的な協同が成功したという事実は彼を喜ばせたものの、演出家であり作家である彼に対する態度は長年に渡って矛盾していた。成人になるとショスタコーヴィチは悲劇的な運命を辿った傑出した同時代人に対する自身の意見を和らげたが、1930年代の初めは若さゆえの妥協の欠如(そしてそれは彼自身の性格でもあった!)により、彼は辛辣で痛烈に嘲るような批判を控えることはなかった88。では、「オランゴ」とマヤコーフスキイの戯曲との間に明白な文学的対話は、偶然の一致とみなされるべきなのだろうか?それは、作曲家の知識と関与なくして実現し得るのだろうか?現地のバレリーナの踊りで縁取られたオランゴが群衆の前に姿を現す場面は、思い出して欲しいのだが、マヤコーフスキイの(そしてメイエルホーリドの?)「南京虫」の明らかなパロディーである。合唱の馬鹿笑いの中には、その場面の持つ二次的な性格に対する嘲笑は認められるが、若きショスタコーヴィチが「南京虫」における尊敬すべきパートナーに対してとっていた冷酷な態度は感じられない:低音で馬鹿笑いする支配人、すなわち司会者ヴェセリチャクと「世界の八番目の不思議」(「ナスチャ・テルプシホロヴァ」という気取った芸名を持つ自作のプリマ)の形象の中に、メイエルホーリド、ジナイーダ・ライヒ、そしてマヤコーフスキイを見ることができるだろうか?

「オランゴ」の筋書きを規定する、類人猿と人間とを交雑させるという噂と「失われた環」を探し求めることにまつわる考えは、1932年5月17日の契約書に署名するよりもずっと前から、ショスタコーヴィチにとって馴染みがあったという証拠もある。 既に述べたように、これらの考えは1920年代の中頃から終わりにかけてマスコミで議論された。その結果、将来行われる実験の伝道所たるスホミ・サル園は、その設立後すぐに、旅行者の団体が押し寄せる場所になった。「多くの労働者の一行と学校が、この新奇な施設にやってくる」と、ある新聞は報じた。「そこは、訪問者の一人の喜びにあふれた表現によれば…『空気自体が、ダーウィニズムと同化しているように思えます』」89

ショスタコーヴィチもまた、この空気を吸ったのだ。明らかになったように、彼はスフミのサル園を訪問し、自分の眼で将来の「新人」の親になりうる生き物を見、おそらくは「新奇な施設」の応用科学的な意味について説明員の話を聞いたのではないだろうか。彼はこの訪問について、同じ日(1929年7月8日)にグダウタから送った2通の手紙に書き記している。

彼の母親であるソフィヤ・ヴァシーリェヴナに宛てた手紙で、ショスタコーヴィチは、黒海への旅行を短く述べた(「ヤルタ[6時間]、ノヴォロシィスク[12時間]、ソチ[4時間]、トゥアプセ[5時間]を見て回りました)際に、自分が立ち寄った観光地の一つとして挙げている:「スフミで半日を過ごしました。サル園を訪れました」90。明らかにショスタコーヴィチは、この宣伝された「流行の」場所の訪問を、言及するに値するものとみなしていた。ある資料によると、1929年の夏に「スフミにはただ一人の青年男性がいた。ターザンと呼ばれる26歳のオランウータンである。同じ頃、イヴァーノフは実験への参加を志願するレニングラードの若い女性からの手紙を受け取っていた。『思い切って、あなたに申し入れの手紙を書かせていただきます』と、彼女は1928年3月16日辺りに書いた。『私は、あなたが人間の精子を用いた類人猿の人工授精についての実験を行ったものの、実験は失敗したことを、新聞で読みました。この問題は、長く私の関心を引いてきました…どうか、私の申し出を拒否しないでください。実験に関するあらゆる要求に、喜んで従います。受精は可能であると、固く信じています』。しかしイヴァーノフはこの女性に対し、1929年8月31日にレニングラードから次のような返信(電報によることは明らかである)をしなければならなかった:『オランウータンが死にました。代わりを探しています』」91。したがって、1929年7月の初めにスフミのサル園を訪れた時、ショスタコーヴィチはまさに「オランゴ」を見る(あるいはその死に際して、話を聞く)機会があったのだ。そしてイヴァーノフに手紙を書いた女性と同様に、それ以前に交雑の実験について「新聞で」読む機会もあった。

イヴァーン・ソレルティーンスキイに宛てたもう一通の手紙では、ショスタコーヴィチはそれほど簡単には済ませていない:「…ヤルタにいます。何とかしてチェーホフのダーチャを見ることができ、彼の姉妹M. P. チェーホヴァにも会えました… 次にセメント工業の故郷、ノヴォロシイスクを訪れました。この街には、自慢になるような物は何もありません… ノヴォロシイスクでは、10時間に渡って蒸気機関車が止まりました。映画館に行き、「最後の人」を観ました… それから、トゥアプセとソチに立ち寄りました。お話しするほどの物は何も見ませんでした。スフミでは、サル園を見ました(斜体は筆者による-O. D.)。グダウタでは、海と太陽、そして山以外に見る物はありません」92

このように、ショスタコーヴィチは見る価値のあった全ての観光地について、あるいは価値があまりなかったということについて(「お話しするほどの物は何も見ませんでした。」)ソレルティーンスキイに語っている。しかしながら、母親に宛てた短い手紙と同様、彼はこの手紙の中で「お話しするほどの」観光地にスフミのサル園を挙げている。彼にとって「お話しするほどの」のことには、奇人(巨人ティモフェーイ・バフーリンと小人ポリーナ・ノヴィコヴァ)を見物したこともあった。彼らについて、ショスタコーヴィチは1929年7月3日の手紙でソレルティーンスキイに語っている:「今日、私はセヴァストーポリに到着し、観光地を回りました。私は『全景』、半島、巨人T. バウーリン(バフーリン)、そして世界で最も小さい婦人P. ノヴィコヴァなどを見物しました。出し物は10分間続きました。その内の8分はキエフの教授による講演の抜粋を読み上げるのに費やされました。残り2分は、バウーリンとノヴィコヴァが自分達の写真を売りました」93

おそらく、スフミのサル園から受けたこれらの印象と交雑の考え、そして自然の摩訶不思議の結果の入り混じったものが、後に「オランゴ」の台本に反映したのであろうか?また、ショスタコーヴィチは台本の制作において、単にあらすじのレベルでのみ積極的な役割を果たしたのだろうか?ショスタコーヴィチが描写する「生ける見世物」が(「キエフの教授」の科学的知見の解説付きで)公衆の面前に披露される場面は、既に上演までされていた「南京虫」の場面と、まだ存在していない「オランゴ」の場面との類似性に思い至らせてくれる。オランゴのお披露目にあたっては動物学者の「科学的な」講義が先に行われ、スクリープキン(プリスィプキン)のお披露目にあたっては、群衆から「教授」と呼ばれる(「教授よ、やめさせろ」)支配人による講演が先に行われる。ショスタコーヴィチの音楽を付けたメイエルホーリドの「南京虫」の初演は、それほど前ではない1929年2月13日に行われており、マヤコーフスキイの戯曲から受けた作曲家の印象は、まだ記憶に新しかった。「生ける見世物」で場面を彩り、ソレルティーンスキイに宛てた手紙の中のいくつかの記述で物語ったのは、これらの印象だったのではないか?そしてショスタコーヴィチはそれを3年の後に喜びを持って思い出し、「オランゴ」の台本作家達に話したのではないか?

ショスタコーヴィチがこの物語作りに関心を持っていたという、別の証拠がある。L. V. シャポーリナの日記には、ショスタコーヴィチが単に「オランゴ」を気に入ったのではなく、それに夢中になり、自分でその音楽を書きたがったという、直接的な記述がある。ガヴリイル・ポポーフの日記には、このことの間接的な解釈が含まれている。ポポーフの辛辣な記述によると、ボリショイ劇場によって告知された「諷刺的オペラ」は芸術家の世界に対する感性の深さと矛盾を反映し得る、そして1930年代と生涯を通じた創造の道程でショスタコーヴィチを特に魅了し続けた悲劇的笑劇へと変わった。彼は、このジャンルでは悲劇的諷刺である「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を作曲した。そして1934年にはこのジャンルで、人民の意志派運動のメンバーについてのオペラを書き始める(「笑劇で始まり、血まみれの悲劇で終わる」)94。研究者達はまた、ショスタコーヴィチが最初に完成されたオペラである「鼻」のジャンル的曖昧さについても指摘した95。何年も後の1963年、イサーク・グリークマンによると、作曲家はレトリックや熱情を排したいつもの調子で、芸術における「高尚」と「低俗」(悲劇と喜劇)を混ぜ合わせることへの自分の偏愛を、自身の音楽を例にとって考察している:「D. D. は、第13交響曲のフィナーレをいかに気に入ってるかを語った:『その中にあるどたばた喜劇と高尚さとの組み合わせを、私は好みます。それが、この音楽を気に入っている理由です』」96。つまり、1932年に、当初はスタルチャコフの文学的構想の中に見出された表現の機会(「喜劇と高尚さとの組み合わせ」[笑劇と悲劇])を、彼は無視することができただろうか?あり得ないだろう。ショスタコーヴィチが見事に相反するジャンルを持つ物語に音楽を作曲すること(そしてこのことは、作曲家に創造的な経験を積む想像もできない機会を与えてくれる)に非常に興味を抱いたと考えることは容易である(そしてこのことは、ここまで見てきたように、同時代人達の証言によって確認されている)。

最後に、ショスタコーヴィチが台本の細部に影響を及ぼしたことの、純粋に音楽的な証拠がある。それは第一に、彼が自由なオブザーバーの役割であることに満足したくはなかった、そして第二に、現実的な落としどころを追求したが故である。

6月5日(まだトルストーイに修正される前の、スタルチャコフによる「オランゴ」のあらすじのタイプ原稿が書かれた日付であることに留意されたい)までに、ショスタコーヴィチは歌劇「大きな稲妻」の構想を破棄していたと考えられる97。しかし、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の作曲(第3幕のスケッチと総譜)は、佳境に入っていた。もし作曲家が、自身で大切にしていた考えに心を奪われると共に厳しい締め切りに束縛されて、当初は契約したオペラの作曲に非常に忙しく関わっていたとしても、誰も驚かないだろう。

そして実際、1930年代における彼の典型的な手法であった「自作からの借用」(ローレル・フェイが適切に称したところによれば「自己量産化」)98の経験に基づき、ショスタコーヴィチは「オランゴ」の中に、演奏会のレパートリーになり損なった作品からの音楽を取り入れた。初演(1931年4月8日、ГАТОБ)後にレパートリーからはずされて新聞で批判されたバレエ「ボルト」からのいくつかの音楽が、「オランゴ」に使われた。オペラの序曲は、バレエからそのまま借用された。オペラの中で「地方のプリマバレリーナのナスチャ・テルプシホロヴァ(イヴァーノヴァ22世)」が演じる「平和の踊り」は、「ボルト」の終曲の音楽(「ブジョニイ第1騎兵団」「全員の踊り」「アポテオーゼ」)に基づく。「オランゴ」の元となった二つ目の音楽は、レビュー「条件付きの死者」(1931年)である。この作品は、少なくとも2ヶ月(1931年10月2日から11月末まで)はレパートリーに残った。たとえば、ショスタコーヴィチは「大道芸人」と「ウェイトレス」を最初は歌劇「大きな稲妻」に流用し、それを破棄した後、すぐに「オランゴ」に流用した…

このように多くの「自作からの借用」は、現実主義が時にショスタコーヴィチの内なる芸術家と入れ替わり、締め切りと日銭のために創造的な独自性を犠牲にしたのではないかという、衝撃的な結論につながるようにも思われる。しかし、この場合、「大きな稲妻」の「アメリカ人との情景」(「条件付きの死者」の「大道芸人」)の音楽が、「オランゴ」では雑種と彼の前妻とがスキャンダラスな喧嘩をする、すなわち「外国人との情景」に当てられているという事実を、どう解釈することができるだろうか?

筆者は、別の仮説を立てたい。「オランゴ」を作曲している時、ショスタコーヴィチは「やらねばならぬ」と決めてかかって他の作品から不適当な音楽の断片をねじ込むような、寄せ集めをしたりはしなかった。それどころか彼は、この構想についての職業的な要求や考えを満たすべく既に書かれていた様式上統一のとれた音楽と調和するように、物語や台本の細部に示唆をした。実のところ、作家の金庫から探し出された「オランゴ」の台本と「備えの音楽」との芸術的に目指すところが非常に一致していたので、作曲家が他の作品からの曲で置き換えることに無頓着で、特に妥協することもなかったという仮説を主張することは、単なる思い付きでないのではないか?異なる作品の音楽があるオペラの特定の劇構成と絡めることによく(偶然に!)「適する」ことが、そして全体に損害を及ぼすことなしに形式の異なる位置に恣意的に突っ込まれ得るようなことがあり得るだろうか?筆者は、あり得ないと考える。それはこれが、「十月の束の間のお祝い」ではなく、作曲家が「ムツェンスク郡のマクベス夫人」で既に探求し「練り上げた」ジャンルである、しっかりとした悲劇的笑劇、悲劇的諷刺に関する問題だからである。ショスタコーヴィチが、オペラに含めたい場面の種類を台本作家達に同時に話したか、彼らと定期的に議論したかのいずれかであることは明白である。このようにして、「脚本が音楽に適した形になるよう」と契約に書かれた作業が調整された。

「大きな稲妻」の台本は、未だに発見されておらず、器楽による「アメリカ人との情景」の内容は分からないが、舞台上の動きという点で、スザンナとオランゴとの暴力行為とあまり違わないものであったことに疑いはない。ショスタコーヴィチは、あらかじめこのことに留意していた。

もう一つの、さらに生き生きとした例がナスチャ・テルプシホロヴァ(イヴァーノヴァ22世)による「平和の踊り」である。プロローグに注意深く書かれたト書きは、踊りの詳細な内容を記述している:「刈入れ人の踊り。観衆は踊りに引き込まれる。その踊りは、赤軍の男の踊りに、そして水兵の踊りに変わっていく。合図。全軍の踊り。雷鳴。全力をふるう。踊りの大詰め-友好。歓喜。イヴァーノヴァによる鎌を持った踊り。彼女は、葡萄の房を刈り取る。彼女は、鎌を空中に投げる。虹が現れる。絶頂の踊り」(斜体は筆者による-O. D.)。ショスタコーヴィチ自身がこれらの内容を台本作家達に示唆したことに、疑う余地はないだろう。軍隊の主題を含む壮大なバレエの場面が、「ボルト」と同じような「軍隊的な」音楽(「赤軍の男の踊り」)によってオペラで演じられ、バレエの「全員の踊り」と「アポテオーゼ」(「絶頂」と「アポテオーゼ」が同義語であると、作曲家は当然のように考えていた)がオペラの終幕の「絶頂の踊り」に一致するという仰天するような事実は、ただこのことによってのみ説明され得る。つまり、ショスタコーヴィチの要求で台本作家達が「音楽に対する」踊りを考案したのであり、その逆ではないと考えるのが理にかなっている99

プロローグの一種のライトモチーフとなっている「チジック=ピジック」もまた、ショスタコーヴィチによって「オランゴ」の台本に導入されたことは明白である。作曲家は平凡さと原始的なものの具象としての「チジック=ピジック」の主題に、「オランゴ」のすぐ前に書かれた「条件付きの死者」の「十二使徒」(No. 33a)と呼ばれる小品の主題を引用している100。雑種は「お披露目の場面」で、それを一本指で(そしてもちろんハ長調で!)演奏し、プロローグの最終場面(「笑おう、笑おう」)はそれに基づいている:ヴェセリチャクの滑稽な部分と合唱のエコーにおいて、歌の抑揚は薄められて不明瞭にされているものの、間違いなくそれと分かる。プロローグは、「この面白い、オランゴと呼ばれる猿人の話を」という嘲笑の唱和をもって、ハ長調で終わる。しかし、ショスタコーヴィチは音楽を作らなかったが台本にはある、フィナーレに先立つ「犬の笑い声のアリオーソ」(とりあえずこのように呼ぶことにする)は、いやに楽天的で滑稽な終わりに新たな含蓄を加えている。「『チジック=ピジック』の主題に対する犬の吠える声」(ノミのワルツとよく似ている)と解釈されるフィナーレの笑い声と、遡って「お披露目の場面」での群衆の吠え声のような馬鹿笑いは、「二重の嘲笑」という不思議な効果を作り出している:オランゴに対する笑い声は、嘲笑した者達に対する作者の笑い声へと変化する(「嘲笑に対する嘲笑」)。そしてその者達は、ブルガーコフの「犬の心臓」のシャリコフとほとんど同じ雑種なのだ。


  1. この改名(仮にショスタコーヴィチが自分で提案したのではなかっとしても)に、ショスタコーヴィチが強く反対したということはないだろう。同じ名前の人物に番号を与えるという芸術的な慣行に伴う効果のために、「イヴァーノヴァ」というごくありふれた名前を用いることは、滑稽さに加えて、ショスタコーヴィチの郷愁も駆り立てた。たとえば、彼が若い頃にバレエに熱中していた時に、ヴァレリアン・ボグダーノフ=ベレゾーフスキイに宛てた手紙の一つは、バレエ界のアイドル達の名前(M. A. コジュホヴァ、A. D. ダニーロヴァ、T. A. トロヤノフスカヤ、ロプホフ2世(!))で満ちている。彼女らの間で、イヴァーノヴァ2世も言及される:「ロプホフ2世が『Doll Fairy』のロシアの踊りをいかに踊ったかを覚えておいてください。…若きダニーロヴァ、イヴァーノヴァ2世、トロヤノフスカヤを覚えておいてください。彼女らがいかに素晴らしいかを、書き尽くすことができません」(L. Kovnatskaya, “Shostakovich and Bogdanov-Berezovsky (the 1920s)”, in: Shostakovich Between a Moment and Eternity: Documents, Information, Articles, Edited and compiled by L. G. Kovnatskaya, St. Petersburg, 2000, p. 44, in Russian.からの引用)。友人への手紙と歌劇「オランゴ」との間の10年で、もう一人の(架空の)バレリーナ、イヴァーノヴァが少なくとも22世になっていたことは、驚くことではない!
  2. このように、台本作家達はオペラの筋書きを練っていく過程で、発生学者エルネスト・グーローの名前をアルマン・フルーリに変更しただけでなく、彼の人生も創作した。この筋書きの変更(雑種にあやうく絞殺されそうになった主要な証人の、突然の登場)は、観客と一緒に、その「深淵」を覗き込む準備ができた過去の出来事に関わる全ての登場人物が舞台上に集まるという、プロローグ(そして恐らくはエピローグ)の構想によって必要になったものと考えられる。このことから、オペラの内容が我々の知らない別の変更に発展しているかもしれないと考えることができるだろう。
  3. プロローグにおける予期せざる、そして表面的には動機のない「犬の主題」の侵入(「あらすじ」のテキストに留意されたい)は、「オランゴ」とミハーイル・ブルガーコフの「犬の心臓」(当時は発禁処分を受けていた)との対応関係を強めている。
  4. S. M. Khentova, Shostakovich. His Life and Creative Work, Vol. 1, Leningrad, 1985, p. 362 (in Russian).からの引用。手紙の日付は以下の文献で明らかにされている:V. Petelin, The Fate of an Artist, Moscow, 1982, p. 388 (in Russian). S. ヘーントヴァはこの手紙に基づき、ショスタコーヴィチは1932年の夏に「アレクセーイ・トルストーイと同時代のテーマについての台本に関する話し合いを始めた」だけであり(同書)、7月までは台本の中身自体は知らなかったと結論付けている。実際には、1932年7月に(あるいは、7月までに)ショスタコーヴィチは「オランゴ」のプロローグの音楽を書き終えていたと思われる。
  5. 全てのことから判断して、ショスタコーヴィチは「オランゴ」の完全に揃ったピアノ・スコアを書いてはいない。またスコアを書き始めてもいなかった。このことの根拠がある。歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、「鼻」(РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 2, f. 31)および「賭博師」(ГЦММК, rec. gr. 32, f. 261)のスケッチの余白には、後で行われる作曲の別の段階を示す楽器配置に関する数多くのメモがある。楽器配置に関するメモは、完成したか否かを問わず、ショスタコーヴィチの全ての交響作品のスケッチにある。「オランゴ」のスケッチにこの種のメモがないことは、おそらく作曲が極めて初期の段階で中断されて続けられなかったことを示している。このことはまた、1932年5月17日にボリショイ劇場と交わした契約書の最終頁にある、作曲家への毎月の支払い(800ルーブル)についての会計係のメモ書きによっても間接的に示される。最後のメモには6月30日の日付がある:3月8日に契約(デミャーン・ベドニイの「鍵」)が結ばれた時から、計4回の支払いがなされた。しかし、このことは1932年7月までにショスタコーヴィチが「オランゴ」の作曲をやめてしまったことを意味するのだろうか?トルストーイの手紙と、特に作曲家に対するГАБТからの10月11日の通知書(毎月の支払いを停止する旨)は、この結論と矛盾するように思われる… 筆者は、さらなる情報を求めるために、この疑問を公けにしておく。
  6. オペラの3つの場面の自筆譜は、以下に保管されている:РГАЛИ, rec. gr. 2048, inv. 1, f. 55. 他の7曲の自筆譜は、G. V. コピィトヴァによって発見された (St. Petersburg, State Museum of Theatrical and Musical Art, ГИК (State Museum of Cinematography) 16827/2)(詳しくは、以下を参照のこと:G. Kopytova, “D. D. Shostakovich's Youth Opera The Gypsies”, Muzykalnaya akademia, No. 3, 2008, pp. 56-67, in Russian)。
  7. S. M. Khentova, In Shostakovich's World, Moscow, 1996, p. 306 (in Russian).
  8. 同上。
  9. 以下の文献を参照のこと:O. G. Digonskaya, “Shostakovich and The Black Monk”, Muzykalnaya akademia, No. 4, 2006, pp. 73-74 (in Russian).
  10. たとえば、ショスタコーヴィチがイヴァーン・ソレルティーンスキイに宛てた1928年1月10日、1929年7月18日、1935年12月21日の手紙を参照のこと(D. D. Shostakovich, Letters to Ivan Sollertinsky, pp. 26-27, 43-44, 181)。
  11. Sovetskaya Abkhazia, 18 May 1930(0. Shishkin, Red Frankenstein: The Kremlin's Secret Experiments, Moscow, 2003, pp. 292-293, in Russian.からの引用).
  12. St. Petersburg, State Museum of Theatrical and Musical Art, rec. gr. 12, No. 200, ГИК 16814/37, sheet 1. 筆者は、この手紙について話してくれたG. V. コピィトヴァに対して感謝の意を表する。
  13. K. O. Rossiyanov, op. cit., pp. 38-39.からの引用。
  14. D. D. Shostakovich, Letters to Ivan Sollertinsky, pp. 40-41.からの引用。
  15. 同上, pp. 38-39.
  16. 以下の文献を参照のこと:0. Digonskaya, Shostakovich in the Mid-1930s: Opera Plans and Creations, pp. 48-60.
  17. 以下の文献を参照のこと:A. V. Bogdanova, Shostakovich's Opera Theatre, Moscow, 2006, p. 37 (in Russian).
  18. I. D. Glikman, Journal IV, entry of 30 March 1963 (D. D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 4, section 2, f. 4). グリークマンの日記は筆者によって判読済みで、出版準備中である。
  19. 脚注52を参照のこと。
  20. L. E. Fay, “Mitya in the Music Hall”, Muzykalnaya akademia. No. 4, 1997, p. 61.
  21. 後にこの音楽は、バレエ「明るい小川」の収穫祭の干し草の山と草刈りの鎌を背景とする「山の原住民とクバンの男の踊り」で演奏されることとなる。
  22. 以下の文献を参照のこと:M. A. Iakubov, “Comments”, in: Dmitri Shostakovich. New Collected Works, Vol. 54, Hypothetically Murdered, Op. 31, The Great Lightning, Sans op., p. 403.
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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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