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O. ディゴーンスカヤ:D. D. ショスタコーヴィチの未完の歌劇「オランゴ」, DSCH社―(6)

6. 協力関係の解消/失敗。2つの「出世」


客観的な状況の変化、すなわち、台本の全文が揃わなかったこととボリショイ劇場が「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の上演に関する契約を持ちかけたことで、ショスタコーヴィチの計画は変わり、歌劇「オランゴ」が完成することはなかった。スタルチャコフとトルストーイ自身が、自ら着想しショスタコーヴィチを惹きつけた突拍子もないアイディアを無に帰してしまったように思われる。世界は、オペラの傑作を奪われることになった。実を言えば、「20年後」にショスタコーヴィチ自身がトルストーイに、彼の書いたブラティノ(ピノキオ)と黄金の鍵の話に舞台化の魅力的な可能性を見出した後で、一緒に仕事をしないかと打診することになる。1943年1月12日、クーイブィシェフで腸チフスにかかっていたがまだ自覚症状が現れていなかった時、彼は作家に手紙を書くことになる。60歳の誕生日と「権威ある賞」を受賞したことに対して相応の祝意を表した後で、彼は直接的に要件を述べた:「このような理由で、あなたに手紙を書いております。ボリショイ劇場のバレエ監督R. V. ザハーロフと私は、あなたの書いた『黄金の鍵』に基づくバレエを作曲することを考えています。たぶん、そこから何かが生まれるでしょう。もしお時間を作ってくださるならば、あなたとお話しできれば嬉しく思いますし、もし可能なら、台本作りを手伝っていただければ、あるいは少なくともこの作品をお認めいただければ幸甚に存じます。R. V. ザハーロフは、私の意見ですが、素晴らしいシナリオを書いたと申し上げるべきでしょう…」ショスタコーヴィチは追伸に、自分の住所に加えて、クーイブィシェフの電話番号も記している。彼は明らかに、トルストーイと個人的に電話で話をしたいと考えていた101。だが、これは実現したのだろうか?文字通りその翌日、作曲家は腸チフスで寝込むことになり一ヶ月後まで回復しなかった。療養中、彼はピアノ・ソナタ第2番 作品61の構想を練り、短期間で書き上げた102。また、第8交響曲の作曲に向けて集中する必要があった。バレエ「黄金の鍵」の音楽は、着想以上に発展することはなかった103

しかし、トルストーイとスタルチャコフはなぜ、1932年に「オランゴ」の台本を完成させなかったのだろうか?それに対する単純な答えは、存在しない。1928年末頃に国内で始まり、とりわけ(家族と宗教に関する)「伝統的なブルジョア的価値観」の転換で特徴づけられる「文化革命」は、芸術的な手段による正当化に加えて、「未来人を創る」というスローガンによるよりも前に、イデオロギー的に受けの良い生物学的実験を惹起した。この意味で、1920年代末に書かれたスタルチャコフの物語「アルベール・デュランの勝利」は、「ブルジョア新聞の批判」を通して(問題に対する深い考察をすることのない)俗世界の物の見方の「狭小さ」を嘲笑し、無力な科学者の画期的な実験が帝国主義に直面して邪魔されたという内容であっただけに、極めて時宜を得たものだった。

1930年までに、ソ連社会の生活において新たな方向への転換が示され、新たなタブーが出現した。たとえば、「その一つは『生物学研究』、あるいは生物学の法則を社会現象に『当てはめる』ことの禁止である。そこでは…より一般的な現象が発現した:『技術主義』に対するスターリン主導の恐れと、可能な限り専門家と熟練者の職業能力に枷をはめようとする努力である。これは、とりわけこのことが世界観や社会的疑問に関する時に顕著であった。したがって、もしダーウィンの人類発生論が攻撃されたのならば、イヴァーノフの実験が狙い撃ちされても何ら驚きはない。それで、長い中断と新たな名称で1932年に『人類学ジャーナル』(旧『ロシア人類学ジャーナル』)が復刊された時、編集委員は巻頭言で、過去のソ連の人類学者はあまりにも人類発生論の生物学的要因に夢中になり過ぎ、社会的側面を無視し、フリードリヒ・エンゲルスの…『理論』を忘れていたということ、そしてそれは今後、ダーウィンの理論を補っていくだろうことを特に強調した。…生物学と社会とを『過度に』関連付けることに対する批判…が、過去のものとなりつつあり、『文化革命』および文化、教育、科学における実験がすぐに絶えてしまうという事実の最初の表れの一つとなりつつあることは、明らかである。…同様の政治的かつ文化的な転換のもう一つの表れは…1930年代に『上から』促された、『伝統的な』家族観へのゆるやかな回帰である」104

スタルチャコフは、その活動的な性格と、彼が占めていた役職が国の文化的および政治的生活の中心にあったことで、新しい潮流における非常に微かな流れに気付かずにはいられなかった。大胆ではあるが多少流行遅れになった「類人猿」の話題は、見事に処理されて、異なった意味合いが与えられた。このようにして、「交雑」および広い意味での「生物学化」に対する1932年のスタルチャコフ=トルストーイの諷刺攻撃は、変化した国家イデオロギーの観点から一度は完全に正当化された。「失われた環」に関する研究(怪物のような雑種オランゴにおいて明らかになると思われた)のことでチャールズ・ダーウィンを慎重に攻撃することは、理解力のある同時代人には容易に推測されただろうが、新たな科学的概念に完全に一致した。

にもかかわらず、表面的には好意的な条件が整っていたものの、「オランゴ」の作業は次第に進まなくなり、ついには完全に頓挫した。イリヤー・イヴァーノフ教授の悲劇的な死が、スタルチャコフとトルストーイの想像力の冷笑的な迸りを、後で反省させる役割を演じたのだろうか?結局、作者らは彼を、エルネスト・グーロー(アルマン・フルーリ)の高潔な役割だけでなく、海外での名声を夢見(「私は、海外でもこのことについて話そうとしました…」)、西側の科学的な対抗勢力にあしらわれた(「…しかし、すんでのところでやめました」)あわれな動物学者の誇張された形象の中にも位置づけたのだと思われる!あるいは、オペラの計画が「特許119号」と呼ばれる共同制作の演劇の契約によって中断させられ、「オランゴ」のための時間を奪ってしまったのだろうか105?それとも、告知の中にスタルチャコフの物語に対する十分な言及がなかったので、作家達は、作品につきまとう盗作疑惑を払拭することができず(また、「不愉快な混乱」を解決することができず)、弁明することを強いられて実りが期待された構想を破棄することを余儀なくされたのだろうか?はたまた、1930年代初頭に漂っていた、コンスタンティン・スタニスラーフスキイが述べた(「今日のロシアは、グロテスクさには不釣り合いに真面目過ぎる国だ106」)ような名状し難く嵐の前触れのような予感に対して、彼らが時節に適った感覚を持っていたからなのだろうか?我々はただ、破棄を免れた未知の文書が何らかの点においてこれらの答えのない疑問に光を与えてくれることを願うばかりである。それらの一つが、スタルチャコフ=トルストーイの着想(「アルテュール・クリスティの出世」)がベルトルト・ブレヒトの「アルトロ・ウィの抑え得た興隆」(1935~1941)に影響を及ぼした可能性についての疑問である。両者の類似性は、これら2つの題名が驚くほど似ていることに限らない107。ブレヒトの戯曲の内容もまた、「オランゴ」を思い起こさせる-抑えることのできない権力への愛、憎しみ、根底にある欲望、そして途方もない政治的野心が犯罪と結びついた、悪党の経歴である108。ジャンルの類似性もまた、明白である:どちらの戯曲も、政治的諷刺、寓話、悲劇的笑劇に分類される109。2つの戯曲の筋書きとジャンル=様式上の数多くの類似は、ベルトルト・ブレヒトが「オランゴ」の物語(それはショスタコーヴィチのオペラとして、あるいはスタルチャコフの物語として結実することはなかった)を知っていたのではないか、そしてこの物語がアルトロ・ウィについての戯曲を執筆した際に元ネタの一つとなっていたのではないかという推測を導き出す110

我々は、藁にすがるしかない:1920~1930年代の日常生活の不条理さは、たくさんの「世間一般の」話題の元となった。いずれにせよ、戯曲「アルトロ・ウィの抑え得た興隆」が「ロシア起源」であることの証拠はない。ブレヒトもトルストーイもショスタコーヴィチも(特に、1937年に銃殺されたスタルチャコフも)、この話題についてお互いに語ってはいない。ただ、ショスタコーヴィチがブレヒトのアルトロ・ウィについての戯曲を知っていて、恐らくはその舞台を見ただろうことがわかっている111。1954年に、映画「団結」(「偉大な川の歌」, DEFA)の制作のために作曲家がブレヒトと会った時にも、「オランゴ」のことがぼんやりと思い出されただろう。1967年に監督のM. G. シャピーロがブレヒトの別の戯曲「ガリレオの生涯」を台本の形でショスタコーヴィチに提示した時、作曲家が「気まぐれなどではなく、直ちに同意した112」だけでなく、タガンカ劇場でユーリイ・リュビーモフの演出で上演されていた同名の有名な劇(劇中では、偶然にも交響曲第13番の音楽が使われていた)を数日の内に見に行き、その感想を友人に宛てた手紙に書き記した(「劇そのものにも芝居にも、がっかりするような何かがありました113」)ことは、注目に値する。

このよく分からない「何か」のせいなのか、それとも他の理由のせいなのか、いずれにせよショスタコーヴィチは歌劇「ガリレオの生涯」を書くことはなかったという事実が残されている114。しかし、オランゴの諷刺熱で微かに光が灯され、「ガリレオ」で完全に明らかにされたものは、科学者の礼儀正しさ、両親、知識、道徳、研究上の独断、自分の発見に対する責任の程度といった倫理的な問題だったのであろう。そしてそれは、それまで順調だったオペラでの経歴を踏み外すことになった1932年のボリショイ劇場との失敗に終わった共同作業を、悔恨の念をもって作曲家に思い出させることとなったのだろう。

オーリガ・ディゴーンスカヤ


  1. 世界文学研究所手稿部, rec. gr. 43, inv. 4, f. 1278. sheet 2. 自筆譜. 手紙は葉書に黒のインクで書かれており、「軍検閲済/クーイブィシェフ51」と読み取れる消印が押されている。ショスタコーヴィチの「公式な」手紙には珍しい取り消し線と修正があり、おそらくは彼が病気であった事実を示していると思われる。
  2. 詳しくは、以下を参照のこと:O. G. Digonskaya, “The Story of One Confusion: On the Second Piano Sonata (on the problem of attributing D. D. Shostakovich's author's manuscripts)”. in: Dmitri Shostakovich: Research and Documents, Edited and compiled by 0. Digonskaya and L. Kovnatskaya, Issue 2, Moscow, 2007, pp. 136-171 (in Russian).
  3. 1954年、ミエチスラフ・ヴァーインベルグはバレエ「黄金の鍵」を作曲した。1954年10月27日にN. V. ショスタコーヴィチに宛てた手紙の中でショスタコーヴィチは、バレエは完成したが「受領されなかった」と書いている(作曲家から妻ニーナ・ヴァシーリェヴナへの193通の手紙のリスト(概要付), イリーナ・アントノーヴナ・ショスタコーヴィチ(編), D. D. Shostakovich's Archive, 番号無. を参照のこと)。
  4. K. O. Rossiyanov, op. cit., p. 41.
  5. アレクセーイ・トルストーイは、1932年7月31日(「台本の修正」の件で妻に手紙を出した1週間後)に戯曲「特許119号」の契約書に署名をした。そして、契約条項に従って、完成した台本を8月23日までに、すなわち、非常に短期間で提出することになっていた(以下を参照のこと:世界文学研究所手稿部, rec. gr. 43, inv. 1, f. 1203, sheet 1.)。
  6. 1964年9月12日にヴラディーミル・オグニョフに宛てたイリヤー・セルヴィンスキイの手紙より。手紙の中でセルヴィンスキイは、1931年にМХАТе(チェーホフ記念モスクワ芸術劇場)で「パオ=パオ」をコンスタンティン・スタニスラーフスキイに読み聞かせた時のことを語っている。スタニスラーフスキイはこの戯曲を全体的に高く評価したが、フィナーレは再構成するように意見した。そのフィナーレでは、雑種のパオ=パオがソ連にやって来ることになっていた: 「フィナーレが良くない」とスタニスラーフスキイは言った。「今日のロシアは、グロテスクさには不釣り合いに真面目過ぎる国だ。何か別の形を考えてもらいたいところだ」(以下からの引用:V. Ognev, “Amnesty of Talent: Sparks of Memory”, Znamya, No. 8, 2000, available at [http://magazines.russ.ru/znamia/2000/8/ognev-pr.html])。
  7. ブレヒトの戯曲の原題「Der aufhaltsame Aufstieg des Arturo Ui」には、「出世」という単語は含まれていない。ドイツ語を逐語訳すると「アルトロ・ウィの抑え得た興隆」となるが、それは「出世」と同義である。
  8. 同時代的な観点では、厚手の外套を着た、背が低く、額が狭く、腕が長く、残酷で不満げなオランゴのイメージは、「出世」という点で、期せずしてスターリンの肖像(アルトロ・ウィ=ヒトラーにも似ている)となっている。しかし、「作家達」やショスタコーヴィチが、1930年代の時点でこのことに気付いていたかどうかはわからない。
  9. ブレヒトは、彼の意見では「遠慮なしに衆目に晒され、何よりも嘲笑の対象とされるべき(斜体は筆者による-O. D.)」「大犯罪者」を芸術的に描写したりや告発したりするために、笑劇の必要性を公言していた。「結局のところ、彼らは重大な政治犯などでは全くないのだ。重大な政治的犯罪が彼らを利用してなされたというだけのことであり、これは同じことではない」(B. Brecht, Theatre: Plays, Articles, Statements, in 5 vols, Vol. 3, Moscow, 1964, p. 439, in Russian.からの引用)。
  10. ドイツ共産党の構成員であり、ロシアの共産党員の作家の集まりと日常的に交流のあったベルトルト・ブレヒトとマルガレーテ・シュテフィン(長年の愛人であり、秘書、評論家、共著者(「アルトロ・ウィの抑え得た興隆」を含む)でもあった)の、ソヴィエト文化へのよく知られた数多くの接触は、この仮説を強く裏付ける。「オランゴ」の筋書きは、作家の知識階級の知的環境の中で議論されたのだろう。そしてそれはマルガレーテ・シュテフィンを通して、ブレヒトの耳にも届いたのだろう。また、トルストーイとスタルチャコフは、それをドイツの共著者に意図的に「与える」こともできた。
  11. イリーナ・ショスタコーヴィチが、個人的な会話の中でこのことを証言した。
  12. I. D. Glikman, Journal V, entry of 13 February 1967(D. D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 4, section 2, f. 5.)。
  13. 同上 (entry of 21 February 1967)(以下も参照のこと:Letters to a Friend: Dmitri Shostakovich to Isaak Glikman, St. Petersburg, 1993, p. 227, in Russian)。イリーナ・ショスタコーヴィチの思い出話によれば、「ガリレオの生涯」の公演は作曲家に極めて強い印象を残したとのことだ。
  14. ショスタコーヴィチが歌劇「ガリレオの生涯」を書かなかった理由の一つは、明らかに、リュビーモフの上演で交響曲第13番が驚くほど調和していたことにある。このことは、多くの同時代人が記している。1966年8月1日に、アレクサーンドル・ソルジェニーツィンがショスタコーヴィチに宛てた手紙の中に、このことについての言及がある:「リュビーモフの『ガッリレオ』(ママ)を観る機会がありました。音楽は、全てあなたのものでした。私は、それが何ゆえかを推測することも、尋ねる必要もありませんでした。しかし、劇と非常によく合っており、それ以上に相応しい音楽はありませんでした。とても印象的でした!」(D. D. Shostakovich's Archive, rec. gr. 3, section 2, f. 775)。もし、音楽と劇の融合が作曲家自身にも芸術的に説得力があるように思われ、彼が「それ以上に相応しい音楽はありませんでした」という意見に内心で賛同したとするならば、ガリレオの物語に別の音楽を作曲しようとすることを断念したとしても、驚くに値しない。
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Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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