大阪フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会

井上道義首席指揮者就任披露演奏会 大阪フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会
  • チャイコーフスキイ:ヴァイオリン協奏曲
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第4番
2014年4月4日(金) 神尾真由子(Vn) 井上道義(指揮) フェスティバルホール
わが国のスター指揮者の一人、井上道義氏が大フィルの首席指揮者に就任した。その披露演奏会の初日に足を運んだ。もちろん、目当てはショスタコーヴィチの交響曲第4番。仕事帰りに当日券でふらっと聴きに行こうと思っていたので、前売り分が早々に売り切れたのを知って少し焦ったが、無事に入場することができた。改築後のフェスティバルホールは初めてだったこともあり、井上氏の等身大(?)立て看板があちこちに置かれたエントランスの大階段から、祝祭的な雰囲気を楽しんだ。当然のことながら、客席は満席状態。決して集客力が高いとは言えないプログラムであることを考えると、井上氏の、そして大フィルの人気の高さを改めて実感した。結論から言えば、非常に素晴らしい、満足度の高い演奏会であった。感想をまとめるのをすっかり失念していて、一か月以上も経ってからの間の抜けたエントリーであるが、ご容赦いただきたい。

私の中でチャイコーフスキイの協奏曲は完全に前座扱いだったが、神尾さんのしっとりとした節度と深みのある抒情的な独奏が素晴らしく、すっかり聴き惚れてしまった。これ見よがしに歌い上げることも、華麗な響きに溺れていたずらに興奮することもない、まさに真正のロシア音楽。こういうチャイコーフスキイは、ギレリスとムラヴィーンスキイによるピアノ協奏曲第1番の録音(Russian Disc)くらいでしか聴いたことがない。この音楽作りだと慣例的なパッセージの改変はやらずに楽譜通り弾くのかと思ったが、そこはごく一般的な扱いであった。第1楽章のカデンツァ後の一部に独奏もオーケストラも集中力を欠いた箇所はあったが、概ね筋の通った堅実な仕上がりで、客席も大いに沸いた。ただ、冒頭のヴァイオリン・パートのパッセージに代表されるように、パートあるいはオーケストラ全体として響きのまとまりに欠けるのはオーケストラにとって早急に克服すべき課題であろう。さらに、いわゆる“お仕事”的な演奏に陥る瞬間も多々あり、指揮者の求めに応えきれていなかった(あるいは、あまり応えるつもりがない?)のも不満。演奏頻度の極めて高い超有名曲ゆえに気持ちは分からなくもないが、せめて独奏のテンションに寄り添うくらいはして欲しいところ。

さて、メインのショスタコーヴィチ。この曲は2000年にも同じ顔合わせで演奏されているが、その時は聴きに行けなかったので、15年近くの時を経て(その間にショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏も敢行している)井上氏の解釈がどのように深化したのかを比較することはできないが、TVで放映された全曲演奏時の演奏(2007年12月)を思い起こす限り、解釈の基本線に大きな変化はないようだ。『ショスタコーヴィチ大研究』(春秋社, 1994)の序文で「四番はそのあまりにエゴイスティックな音楽の服装がいくらタコ好きな私もくさくて近づきたくない。いくら才能が大きくても、もろにみせつけ、ひけらかされれば僭越ながら私、降ります。」と書いていた人とは同一人物とは思えないほど、心からの共感に満ち溢れ、生気の漲ったスケールの大きな名演であった。プラウダ批判との絡みで陰鬱な悲壮感のような側面が強調されることも少なくない作品だが、プラウダ批判の記事が発表される前に書き始められたショスタコーヴィチの“初期作品”であることを忘れてはならない。傍若無人で八方破れなやりたい放題の音楽は、何よりとても楽しい。井上氏の指揮はこの楽しさが全編を貫いているのだが、それは彼の個人的な資質とも一致しているからか、“やり過ぎ”にすら思える演出が全てツボにハマっている。指揮台の上で飛び跳ねながら奔放な身振りでオーケストラの持てるエネルギーを最後の一滴まで絞り出そうとする井上氏に対して、オーケストラも(チャイコーフスキイとは打って変わって)極めて献身的に応えていた。技術面でのあら探し的なことはいくらでもできるが、紛れもないショスタコーヴィチの音がホールに鳴り響いていたことに対しては、率直に讃辞を送りたい。ただし、練習時間の大半が第1楽章に費やされたのか、第2楽章以降では楽想の急激かつ頻繁な転換を十分に咀嚼できていない感が否めない瞬間も少なからずあったのは残念。

終演後、井上氏と言葉を交わすことができたのだが、大熱演の疲れも感じさせず、私の顔を見るなり「コーダの最後に突然出てくるH-A-Cって音型だけどね、突然気付いたんだよ。これ、ロシア語で読んだら『われら』なんだよね」と目を輝かせて語ってくださった。私個人は、たとえば第12番のEs-B-Cなどの“音名象徴”に対して積極的な興味を持たないのだが、全曲を通して登場する様々な動機とは無関係の音型が、最後の最後(練習番号255と256のコントラファゴット、259のハープ)に意味ありげに現れるのは確かで、そこに何らかの意味を投影することが無意味だなどと言下に切り捨てることもできない。“われら(主格はмыで、насは生格/対格)”といえば、まずは1921年に書かれたザミャーチンの『われら(Мы)』である。ソ連国内では出版されないまま、ザミャーチンは1931年にパリに移住してしまうが、地下出版の形で読まれていたようなので、一級の文化人であったショスタコーヴィチがこの小説の存在くらいは知っていたとしてもおかしくはない。また、『証言』の第4章、アメリカ訪問のくだりで出てくる「彼(スターリン)は『われわれ』というように自分のことを呼んでいた(中公文庫版, p.263)」という一節も、思い出される。これらを踏まえて、第4交響曲のコーダを文学的に解釈することは十分可能であろう。井上氏による生き生きとした、若々しく時に荒々しい生命力に満ちた演奏は、それゆえにコーダの苦々しい不条理さが印象的で、その鍵となるH-A-C音型の解釈に思いを馳せつつ帰途についた。

素晴らしいスタートを切った井上&大フィルが、今後さらに刺激的な音楽体験をさせてくれることを期待したい。

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theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D.

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Secre

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今回の大フィル定期、工藤さんと逆に2000年のを聞いていて今回は都合で見送りました。残念。
大フィルが当時より若返り、違ったオケになっていたのではないかと想像します。前回も指揮者、オケとも大変な集中力の名演だったとおもいました。終曲の弱音が消えていくときホールは感動に包まれた様でした。この時、レコ芸の投稿欄に下手な感想文を書きました、
いつも活発な井上氏の手術が成功することを祈りたい。
プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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