『エミール・ギレリス もうひとつのロシア・ピアニズム』(音楽之友社, 2011)

1980年前後にクラシックを聴き始めた私(の世代)にとって、ギレリスは(既に晩年であったとはいえ)現役の巨匠ピアニストの一人であった。当時はまだロシア音楽に傾倒していたわけでもなく、そもそもピアノ音楽にはほとんど関心を持っていなかった私でも、ギレリスとリヒテルの名前は知っていた。ピアノの音色そのものが好きでなかった私が、大学時代にピアノ曲も勉強しようと色々聴いた中で、生理的な次元でその音が好きだった唯一のピアニストがギレリスであった。ブラームスの協奏曲第1番の有名な録音(ヨッフム/ベルリンPO)は、当時も今も変わらず愛聴し続けている。

現時点で“過去の巨匠”であるにせよ、ギレリスがピアノ演奏史にその名を刻む偉大な存在であることに疑いはないだろう。しかしながら、その生涯や演奏活動について網羅した評伝は、少なくとも日本語で読める物に限定すると皆無に等しい。2007年に原著が、そして2011年に邦訳が出版された本書は、その点においてだけでも非常に価値がある。原著にはないディスコグラフィ(浅里公三氏作成)が付録として収められているのも嬉しい。マニア的視点でどれほど“完璧”なのかは分からないが、ギレリスに関心を持つ愛好家が参考にするのに十分過ぎる資料であることは間違いない。

さて、メインの評伝部分は、ほぼ時系列に沿った記述になっている。ただ、各章はそれぞれに何らかのテーマでまとめられており、その関係で編年体の記述と言うにはエピソードの時系列が前後している箇所が多い。また、イザイ(現エリザベート王妃)国際コンクールでの優勝(第16章)に至るまでの記述の詳細度に比べると、それ以降はエピソードや演奏に対する評論等の選択の仕方が少々散漫に感じられる。レコーディングについての記述がほとんどないのは、ギレリスはあまり録音に積極的でなかったということなのかもしれないが、レコードでしかギレリスを知り得ない時期の長かった西側の読者としては、いくらかでも言及が欲しかったところである。とはいえ、400ページ強に詰め込まれた情報量は膨大なもの。ギレリスのファンのみならず、ピアノ音楽、ロシア音楽、ソ連体制下の音楽活動などに関心のある読者ならば、手元に置いておく価値がある書物であろう。

ただ、本書の全編を通じて「ネイガウス教授との確執」「リヒテルに比べて不当に不遇であった」という2点が必要以上に強調されているのは、せっかくの記述の客観性を損ないかねないばかりか、著者のギレリスに対する思い入れが執拗な恨み節にすり替わってしまうことで本書の風格をも損なっており、本書の意義と価値を高く評価するだけに、極めて残念である。

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theme : クラシック
genre : 音楽

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リヒテルは初来日1970年から計4回ほど聞きに行ったがギレリスは聞きそびれた。残念、
 最後の日本でのコンサートはシューマンの交響的練習曲だった。次回はきっと行くつもりにしていたが突然亡くなってしまった。オーケストラとピアノは特になまで聞かないと真価は解らないと思っているのでその機会を失った。この本によると心臓手術のミスと云う。何たる不運なギレリス。
プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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