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【演奏会のお知らせ】シュペーテ弦楽四重奏団 第5回公演

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私が参加している弦楽四重奏団が、下記の要領で第5回公演を行います。直前のご案内となってしまいましたことをお詫び申し上げます。

 
シュペーテ弦楽四重奏団 第5回公演
Das Späte Quartett
 
2015年4月18日(土):開場13時30分・開演14時
  聖アグネス教会 (京都府京都市上京区烏丸下立売角)
  ※京都市営地下鉄烏丸線「丸太町」下車 徒歩3分
後援:京都市・京大音研同窓会
 
2015年4月25日(土):開場13時30分・開演14時
  日本福音ルーテル西宮教会 (西宮市宮西町4-19)
  ※阪神本線「香枦園」下車 夙川東土手北へ30m 徒歩1分
  ※阪急神戸線「夙川」下車 夙川東土手南へ700m 徒歩7分
  ※JR神戸線「さくら夙川」下車 夙川東土手南へ500m 徒歩5分
後援:西宮市・西宮市文化振興財団・京大音研同窓会
 
文化庁「関西元気文化圏」参加事業
 
森住 憲一(Ken 1. Morizumi):Violine
石金 知佳(Tomoyoshi Ishikane):Violine
工藤 庸介(Yosuke Kudo):Viola
金山 秀行(Hideyuki Kanayama):Violoncello
 
プログラム
 F. J. ハイドン:弦楽四重奏曲第39番 ハ長調 作品33-3(Hob.III-39)「鳥」
 B. スメタナ:弦楽四重奏曲第1番 ホ短調「わが生涯より」
 L. v. ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第15番 イ短調 作品132
 
 
入場無料

シュペーテ弦楽四重奏団は、2009年8月に結成し、2011年9月に第1回、2012年4月に第2回、2013年4月に第3回、2014年4月に第4回の公演を行いました。シュペーテ(späte)とは、ドイツ語で「後期の、晩年の」といった意味の形容詞です。弦楽四重奏団としては邪道でしょうが、チェロ以外の3人はパートを固定していません。

今回は、ハイドンとベートーヴェンが「森住 (Vn 1)-石金 (Vn 2)-工藤 (Va)-金山 (Vc)」、スメタナが「石金 (Vn 1)-森住 (Vn 2)-工藤 (Va)-金山 (Vc)」というパート割りで演奏します。

入場は無料で、整理券等はありません。両会場ともに最大150席程度の座席数です。

年度初め、またゴールデンウィーク直前の週末でお忙しいとは思いますが、万障お繰り合わせの上、皆様お誘い合わせて足をお運びいただけましたら幸いでございます。

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 演奏活動_DasSpäteQuartett

《時を得たメシアン Meantime Messiaen》第1回公演


大井浩明リサイタル・シリーズ《時を得たメシアン Meantime Messiaen》第1回公演
  • メシアン:幼な子イエスに注ぐ20のまなざし(第1~10曲)
  • 喜多敏博:クエリー・レスポンス~ピアノとライヴエレクトロニクスのための
  • メシアン:幼な子イエスに注ぐ20のまなざし(第11~20曲)
  • メシアン:音価と強度のモード【アンコール】
  • 宮尾幹成:Pièce pour le Tombeau d'Olivier Messiaen【アンコール】
2014年6月15日(日) 大井浩明 (Pf) 山村雅治 (朗読) 喜多敏博 (エレクトロニクス) 山村サロン

元来ピアノ音楽にはあまり熱心でない上に、メシアンの音楽も私の嗜好からは遠いところにある。ただ、苦手なものについてはなぜ苦手なのかを理論武装したい性質なので、メシアン初期の大作をまとめて体験できる(しかも家の近所で!)千載一遇の機会を逃してはならないと、芦屋の山村サロンへ。

メシアンという作曲家については、ずいぶん昔、かぶとやま交響楽団の第20回定期演奏会(1998)で「キリストの昇天」を演奏したことはあるものの、創作活動について俯瞰的な知識はもとより、伝記的なエピソードすら、恥ずかしながら全く知らない。プログラムノートは、簡潔ながら要点が精緻に論じられていて、演奏会に臨む取っ掛かりとしては十分過ぎる充実の内容(大井氏のブログでその全文を読むことができる)。

さて、メシアン初期の大作として名高い(私でも、題名くらいは耳にしたことがある)「まなざし」だが、本来はラジオ・ドラマとして構想されたという最近の知見に基づき、その台本として想定されていたテクストを各曲の前に朗読(日本語)してから演奏するというのが、今回の公演の目玉であった。朗読があろうとなかろうと、ピアノ演奏そのものに違いはないはずなのだが、朗読を通して提示される宗教的観点を心に留めながら聴くことで、響きの多彩な陰影のそれぞれに意味が付加されていくように感じられた。率直に言って2時間半を超える全曲を全く退屈せずに聴いたとまでは言えず、ときに「まなざし」ならぬ「まどろみ」になる瞬間はありつつも、その意味を沈思黙考しながらメシアンの響きに浸った時間は、とても贅沢で刺激的なものであった。

大井氏の演奏は、極めて見通しの良い、微細なニュアンスに至るまで考え抜かれた論理的なもの。一方で響きの変化や間の息遣いなどは自然でよくこなれたもの。

「まなざし」の前半10曲と後半10曲の間には、委嘱初演作品が演奏された。電子音楽についても知見を全く持ち合わせていないので、楽曲そのものや演奏(あるいはパフォーマンス)について言うべき言葉はないが、電子音とピアノの織り成す響きは、その前後のメシアン作品と不思議なほど溶け合っていたのが面白かった。

アンコールの「音価と強度のモード」は、「まなざし」とは異なるメシアンの音響世界を示唆するような演奏で興味深かったのだが、既にこの時点で3時間を超えていたにもかかわらず、舞台袖に下がらずに拍手を制して「そろそろ時間も迫っているのですが、今日はどうしても演奏しなくてはならない委嘱新作のアンコールがあります」と言って披露されたのが「メシアンへのオマージュ」という作品。「今日(6/15)は三位一体の主日といいまして、キリスト教ではとても大切な日とのことです。ただ、日本では日曜日に教会に行くような人は決して多数ではなく、ほとんどのお父さんは新喜劇を観たり、のど自慢を観たりとかしているわけで…」と、おもむろに演奏開始。まさか、のど自慢の鐘がメシアン風に響くとは。抱腹絶倒の作品と演奏で会場は大盛り上がりだったが、よく考えてみると、この演奏会を体験する前の私なら、その鐘の音がメシアン風だということを理解できなかったわけで、単なるイロモノではなく、一夜の、それも長丁場の演奏会を特別なものとして記憶に留めるに相応しい、素晴らしいアンコールであった。

結局、メシアンに夢中になったわけではないが、苦手な理由がわかり、苦手だと確信を深めたわけでもない。もう少し知りたい、というのが今の気持ち。幸い、このシリーズは後2回予定されている。

theme : クラシック
genre : 音楽

マキシム・ヴェンゲーロフ with ポーランド室内管弦楽団


マキシム・ヴェンゲーロフ with ポーランド室内管弦楽団
  • J. S. バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲(2nd Vn: 田中晶子)
  • モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番
  • マスネ:歌劇「タイス」より瞑想曲
  • チャイコーフスキイ:憂鬱なセレナード
  • チャイコーフスキイ:「なつかしい土地の思い出」よりスケルツォ
  • チャイコーフスキイ:「なつかしい土地の思い出」よりメロディ
  • チャイコーフスキイ:ワルツ=スケルツォ
  • サン=サーンス:ハバネラ
  • サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ
  • サラサーテ:ナヴァーラ(2nd Vn: 田中晶子)
  • ブラームス:ハンガリー舞曲第1番【アンコール】
  • ブラームス:ハンガリー舞曲第5番【アンコール】
2014年5月27日(木) フェスティバルホール
「ヴェンゲーロフ・フェスティバル2014」の大阪公演へ。ヴァイオリンを習ったことのある人なら誰でも知っているはずの有名曲ばかりが並んだプログラムを当代随一の人気ヴァイオリニストが演奏する、となれば、元来が出不精で天邪鬼の私にとっては関心外のコンサートだったのだが、ひょんなことで知人に誘っていただき、先月に引き続いてフェスティバルホールへと足を運んだ。

さて、何から書こう。

あんな音楽を聴かされた後では、巧いとか音が綺麗だとか、どの曲のどの部分が良かったとか、改めて記すのが馬鹿らしい。テンポ設定などの基本的な解釈は、どの曲もごくオーソドックスなもの。前半のバッハやモーツァルトでは、時代様式を踏まえた現代的な弾き方であったが、一昔前に流行ったこれ見よがしのピリオド奏法もどきとはもちろん異なる、完全に咀嚼されて確立された“模範的”な演奏。だから、解釈そのものが際立って独創的だったわけではない。凄かったのは、フレーズの動きや響きの移ろいに対するイマジネーションの多彩さだ。図々しい話ではあるのだが、この種の演奏会に行くと「いやぁ巧かったなぁ。あんなに弾けるのなら、俺だったらあそこはもっとあんな風に弾くんだけどなぁ」などと思ったりすることがある。だが、この夜のヴェンゲーロフの音楽は別次元。ヴェンゲーロフと同程度の技術を獲得するのは努力次第で可能かもしれないと妄想くらいはできるが、彼の音楽は天才のみに与えられた全く特別なもの。凡人には思いつくことすら想像もつかない。

バッハやモーツァルトのとりわけ緩徐楽章や「タイスの瞑想曲」での時間が止まったかのような恍惚とした美しさ、チャイコーフスキイの抑制されているのに濃厚で深い情感の味わい、サン=サーンスの上品な華麗さ、アンコールでの客席を昂奮させずにはいない扇情的な躍動感。それぞれの曲に優劣などつけようもない。全て素晴らしかった。

多彩なアーティキュレイションに加えて、大胆なアゴーギクを多用しているだけに、伴奏の苦労は少なくなかっただろう。指揮者なしのポーランド室内管弦楽団(モーツァルトのみホルンとオーボエが参加、それ以外は弦楽合奏)は、十分にその役割を果たしていたのみならず、全体としてはやや地味ながらも、要所でしっかりと存在感を示していた。ただ、弦楽合奏だけだと少々イージーリスニング風の響きになってしまうのが、私の好みではない。特にサン=サーンスなどは、やはり管楽器も欲しかったところ。もちろん、それはこの夜に奏でられた音楽の素晴らしさを貶めるものではない。

超一流の天才の凄さを思い知らされた二時間半でした。

theme : クラシック
genre : 音楽

シュペーテ弦楽四重奏団第4回公演を終えて


4/12の西宮公演から一ヶ月経ち、録音や録画の編集も終わり、ようやく心穏やかに振り返ることができるようになったので、シュペーテ弦楽四重奏団の第4回公演について、簡単に反省をしておきたい。

まずは、日本福音ルーテル西宮教会聖アグネス教会の皆様に、心からの感謝を申し上げます。建物の素晴らしさはもちろんのこと、私達の道楽に対して細やかなお心遣いと過分なまでのご協力を賜り、今回も成功裏に演奏会を終えることができました。さすがに私達4人だけでは、当日の様々な準備を整えることは到底無理で、両教会の皆様なくしては演奏会そのものが成立しませんでした。また、事前の広報についてもお力添えをいただきました。あらゆる点で素晴らしい場をお貸しくださったことに御礼を申し上げるとともに、今後とも末永くお付き合いさせていただきたく存じます。

また、西宮公演は約120名、京都公演は約170名と、これまでで最も多くのお客様に足をお運びいただきました。もちろん、義理(笑)で来て頂いた方も少なくありませんが、出演者とは個人的な面識のないお客様の割合が高いことを、私達はとても誇らしく感じております。次回演奏会の案内を希望される方には「芳名カード」を書いていただいておりますが、毎回来て頂いている方のお名前を拝見することは、大きな励みでもあります。演奏会は、聴衆なくしては成立しません。特に、西宮公演では演奏会が始まって早々、1曲目の1楽章でいきなり奏者にアクシデント(指がつってしまい、演奏を続けることができなくなってしまった)が発生し、一旦舞台から引き上げるということがありましたが、舞台上で当惑していた私達を温かい雰囲気で包んでくださったおかげで、5分程度の中断を挟んだ後も、妙な気負いを感じることなく演奏を続けることができました。こうした素敵な聴衆に恵まれたことは、私達にとって何よりの財産です。これからもご支援賜りますよう、お願い申し上げます。

さて、以下は私個人の所感。

今回は、ハイドン、ベートーヴェン、モーツァルトという、これ以上ないほどの王道プロ。知名度がそれほど高くないハイドンの作品74-1にしても、多くの聴き手にとって耳慣れた響きであることには違いなく、決して少なくない技術的な難所を清潔にクリアしつつ、いわば教科書通りに楽曲をまとめ上げる一連の過程に対して要求される水準が必然的に高くならざるを得なかったことは、もちろん楽しくもあったが、やはり大変だったというのが正直なところ。まるでコンクールの一次予選のようなプログラムは、本当に勉強になった。克服できなかった課題は多々あるものの、いたずらに練習期間を長くしたからといって演奏の質が無限に上がるわけではなく、その意味では、現時点で私達に可能な上限に到達できたとは思う。

気がつけば結成から5年が経とうとしているが、いわゆる阿吽の呼吸といった点で、これまで一緒に過ごしてきた時間の重みを感じることができた。練習の過程では随所でメンバー間のイメージが共有されなかったりもしたが、落としどころを探って収斂していく方向性については、練習の開始当初から概ね一致していたように思う。一方で、言わなくても分かるが故に磨き上げに不足した箇所も無きにしもあらず。個々の技術向上もさることながら、“弾ける”箇所のアンサンブルの精度をさらに高めることの必要性も感じた。

本番でしか得られない音楽的経験というものは確かにあるようで、2公演の間で練習を積むことは実質的にできないにもかかわらず、演奏のまとまりや仕上がりは、明らかに2回目の方が上回る(過去の公演でも同様)。自主公演の経験もささやかながら重ねてきた以上、1回目の公演の音楽的な内容も、もう少し高められるとよいのだが。

とにかく弾くだけで精一杯だったハイドン(結局、正確に弾ききれなかったのは悔しい)、作品が内包するぎこちなさを若々しい力感に昇華しきれなかったモーツァルト。どちらも遊びで通すだけなら何度も弾いてきた“よく知っている”作品だが、こうして時間をかけて丹念に取り組んだことは、それだけ素晴らしい体験となった。そして、「大フーガ」。練習開始から数か月は、ひたすら倍ほども遅いテンポで曲の構造を把握するのに費やしたが、スコアを見て勉強するだけでは気がつかなかったベートーヴェン独特の論理みたいなものを体得できたことが、何よりの収穫。溢れんばかりの生命力は、大フーガと置き換えられた第13番の終楽章と同一のもので、表面的な前衛性やロマン・ロラン的な仰々しい闘いの図式に囚われているだけでは見過ごしてしまいそうな、隅々まで情熱的で愉しい音楽であることを身体で感じ取れたのは、いささか無謀ではあったが自分達の手で演奏したからこそ。

アンコールは、ヴォルフの弦楽四重奏曲 ニ短調から第2楽章(スケルツォ)。今回は両公演の間に復活祭を挟む形になったため、聖歌/讃美歌はそれぞれ別のもの。西宮公演は教会讃美歌77番「さかえとほまれ」、京都公演は聖歌184番「あまつ神の子ら」。

次回公演は、来年4月頃に今回と同じ会場で計画しています。曲目は、スメタナの弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」とベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の2曲です。私はVaを弾きます。是非また足をお運びくださいますよう、お願い申しあげます。

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 演奏活動_DasSpäteQuartett

大阪フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会

井上道義首席指揮者就任披露演奏会 大阪フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会
  • チャイコーフスキイ:ヴァイオリン協奏曲
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第4番
2014年4月4日(金) 神尾真由子(Vn) 井上道義(指揮) フェスティバルホール
わが国のスター指揮者の一人、井上道義氏が大フィルの首席指揮者に就任した。その披露演奏会の初日に足を運んだ。もちろん、目当てはショスタコーヴィチの交響曲第4番。仕事帰りに当日券でふらっと聴きに行こうと思っていたので、前売り分が早々に売り切れたのを知って少し焦ったが、無事に入場することができた。改築後のフェスティバルホールは初めてだったこともあり、井上氏の等身大(?)立て看板があちこちに置かれたエントランスの大階段から、祝祭的な雰囲気を楽しんだ。当然のことながら、客席は満席状態。決して集客力が高いとは言えないプログラムであることを考えると、井上氏の、そして大フィルの人気の高さを改めて実感した。結論から言えば、非常に素晴らしい、満足度の高い演奏会であった。感想をまとめるのをすっかり失念していて、一か月以上も経ってからの間の抜けたエントリーであるが、ご容赦いただきたい。

私の中でチャイコーフスキイの協奏曲は完全に前座扱いだったが、神尾さんのしっとりとした節度と深みのある抒情的な独奏が素晴らしく、すっかり聴き惚れてしまった。これ見よがしに歌い上げることも、華麗な響きに溺れていたずらに興奮することもない、まさに真正のロシア音楽。こういうチャイコーフスキイは、ギレリスとムラヴィーンスキイによるピアノ協奏曲第1番の録音(Russian Disc)くらいでしか聴いたことがない。この音楽作りだと慣例的なパッセージの改変はやらずに楽譜通り弾くのかと思ったが、そこはごく一般的な扱いであった。第1楽章のカデンツァ後の一部に独奏もオーケストラも集中力を欠いた箇所はあったが、概ね筋の通った堅実な仕上がりで、客席も大いに沸いた。ただ、冒頭のヴァイオリン・パートのパッセージに代表されるように、パートあるいはオーケストラ全体として響きのまとまりに欠けるのはオーケストラにとって早急に克服すべき課題であろう。さらに、いわゆる“お仕事”的な演奏に陥る瞬間も多々あり、指揮者の求めに応えきれていなかった(あるいは、あまり応えるつもりがない?)のも不満。演奏頻度の極めて高い超有名曲ゆえに気持ちは分からなくもないが、せめて独奏のテンションに寄り添うくらいはして欲しいところ。

さて、メインのショスタコーヴィチ。この曲は2000年にも同じ顔合わせで演奏されているが、その時は聴きに行けなかったので、15年近くの時を経て(その間にショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏も敢行している)井上氏の解釈がどのように深化したのかを比較することはできないが、TVで放映された全曲演奏時の演奏(2007年12月)を思い起こす限り、解釈の基本線に大きな変化はないようだ。『ショスタコーヴィチ大研究』(春秋社, 1994)の序文で「四番はそのあまりにエゴイスティックな音楽の服装がいくらタコ好きな私もくさくて近づきたくない。いくら才能が大きくても、もろにみせつけ、ひけらかされれば僭越ながら私、降ります。」と書いていた人とは同一人物とは思えないほど、心からの共感に満ち溢れ、生気の漲ったスケールの大きな名演であった。プラウダ批判との絡みで陰鬱な悲壮感のような側面が強調されることも少なくない作品だが、プラウダ批判の記事が発表される前に書き始められたショスタコーヴィチの“初期作品”であることを忘れてはならない。傍若無人で八方破れなやりたい放題の音楽は、何よりとても楽しい。井上氏の指揮はこの楽しさが全編を貫いているのだが、それは彼の個人的な資質とも一致しているからか、“やり過ぎ”にすら思える演出が全てツボにハマっている。指揮台の上で飛び跳ねながら奔放な身振りでオーケストラの持てるエネルギーを最後の一滴まで絞り出そうとする井上氏に対して、オーケストラも(チャイコーフスキイとは打って変わって)極めて献身的に応えていた。技術面でのあら探し的なことはいくらでもできるが、紛れもないショスタコーヴィチの音がホールに鳴り響いていたことに対しては、率直に讃辞を送りたい。ただし、練習時間の大半が第1楽章に費やされたのか、第2楽章以降では楽想の急激かつ頻繁な転換を十分に咀嚼できていない感が否めない瞬間も少なからずあったのは残念。

終演後、井上氏と言葉を交わすことができたのだが、大熱演の疲れも感じさせず、私の顔を見るなり「コーダの最後に突然出てくるH-A-Cって音型だけどね、突然気付いたんだよ。これ、ロシア語で読んだら『われら』なんだよね」と目を輝かせて語ってくださった。私個人は、たとえば第12番のEs-B-Cなどの“音名象徴”に対して積極的な興味を持たないのだが、全曲を通して登場する様々な動機とは無関係の音型が、最後の最後(練習番号255と256のコントラファゴット、259のハープ)に意味ありげに現れるのは確かで、そこに何らかの意味を投影することが無意味だなどと言下に切り捨てることもできない。“われら(主格はмыで、насは生格/対格)”といえば、まずは1921年に書かれたザミャーチンの『われら(Мы)』である。ソ連国内では出版されないまま、ザミャーチンは1931年にパリに移住してしまうが、地下出版の形で読まれていたようなので、一級の文化人であったショスタコーヴィチがこの小説の存在くらいは知っていたとしてもおかしくはない。また、『証言』の第4章、アメリカ訪問のくだりで出てくる「彼(スターリン)は『われわれ』というように自分のことを呼んでいた(中公文庫版, p.263)」という一節も、思い出される。これらを踏まえて、第4交響曲のコーダを文学的に解釈することは十分可能であろう。井上氏による生き生きとした、若々しく時に荒々しい生命力に満ちた演奏は、それゆえにコーダの苦々しい不条理さが印象的で、その鍵となるH-A-C音型の解釈に思いを馳せつつ帰途についた。

素晴らしいスタートを切った井上&大フィルが、今後さらに刺激的な音楽体験をさせてくれることを期待したい。

theme : クラシック
genre : 音楽

tag : 作曲家_Shostakovich,D.D.

プロフィール

Yosuke Kudo

Author:Yosuke Kudo
B. モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房, 2000)に、「音楽をめぐる手帳」という章がある。演奏会や録音などを聴いて思ったことを日記風に綴ったもので、実に面白い。

毎日のように音楽を聴いているにもかかわらず、その印象が希薄になる一方であることへの反省から、リヒテルに倣ってここに私も覚え書きを記しておくことにする。無論、リヒテルの深みに対抗しようなどという不遜な気持はない。あくまでも自分自身のために、誰に意見するわけでもなく、思いついたことをただ書きなぐるだけのことである。

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